最果

 より遠くへ、より速く、そうやって人の技術は進歩してきた。


 ニュルンベルクサーキット、サブゼログランプリ決勝レース。

 盛り上がる観覧席の下、レーシングスーツに着替えてピットで一人待ちぼうけ。スタートまで五分を切ったところでようやく競技車が到着した。

「カズキ。夢の永久機関、タンデムエンジンが完成したよ」

 車を運び入れるメカニックスタッフを引き連れ、ツナギ姿の姉、タケミが嬉々とやってきた。

「まさかエンジンを載せ替えたのかよ」

「これで参加車両中ぶっちぎりの最速。最年少、学生チャンピオンになってらっしゃい」

 なにがチャンピオンだ。予選でベストエイトに入ったのに。今からだとピットスタート、最後尾じゃないか。

 口論するだけ時間の無駄だ。ボンネットを開けて中身を確認する。隙間だらけエンジンルームにバスケットボールほどの鉄の球体が鎮座していた。変わり果てた相棒に嘆きたくなる。

「これ、動くのか」

「もう動いてるよ」

 タンデムエンジン。数年前に理論は発表されている、真空のエネルギーで動くエンジンらしい。

 大手メーカーでさえ完成させていないのに。それを町工場一介の令嬢が、課題研究の感覚で作り上げるものじゃない。仮に出来たとして、なぜ、車に組み込んだ。

「無音無振が弱点よね。V8のノイズが出るようにしないと。他はバッチリだから安心して」 

「バッチリってなんだよ。ハンマーで叩いてただけだろ。テスト走行もなし、ブッツケ本番のどこに安心が」

「一流の職人は測りに頼らず指先の感覚で調整するものなの。カズキ、あんたは運転しか取り柄がないんだから、文句言ってないでさっさと乗りなさい」

 背中を叩かれ、運転席に押し込められた。

「そうそう、このエンジンは再始動出来ないからね。ま、止められないだろうけど」

 コース上では発進に備えろと赤信号が点灯した。


 サブゼログランプリ。技術の原点である「人を運ぶ」を主題としたモータースポーツ。寸法以外に規定はなく、マシンの性能が勝敗を左右する。参加している車両はどれも一流メーカーが技術の粋を集めた値段のつけられないものばかりだ。

 そんなレースにしがない町工場のレーシングチームが紛れ込めるのは、オレサマの卓越したドライビングテクニックのおかげ、ではなく、競技の主題。有人であることだ。

 それがハンディキャップとなり、搭乗者への気遣いがない姉の、やみくもにパワーとスピードを追求したマシンと性能が拮抗した。代償として燃費がすこぶる悪い。周回の少ない予選はついていけるが、本選では給油の回数で不利になると思っていた。

 幸か不幸か、父がプロのレーシングドライバーで、母とサーキット走行を楽しんでいた。腹の中にいるときから凶悪な加速度に慣らされていたため、自然と身体に耐性がついていた。

 という昔話を聞いたとき、思わす声を荒げたが「お腹蹴って喜んでいたじゃない」と母はケタケタ笑うだけだった。この母にしてあの姉だと思い知ったときだ。


 各車一斉にスタートしたようだ。バリゲード越しにグリッドの乱れがわかる。

 無音無振の運転席。半信半疑にアクセルを軽く踏むと、思いのほかスムーズに車体は進みだした。

 速度計は機能しているけど、タコメーターに反応は無い。燃料計もか。体感できるのはギアの噛みこみとタイヤの食いつきだけ。

 二速、三速、いつもの調子にギアを上げて加速、本線へ合流する。最後尾が第一コーナーを抜けていく。残り少ないストレートでエンジンの実力を確かめてやる。

 一気に踏み込むと車が悲鳴を上げてつんのめった。クラッチが滑っているのか。エンストしたような恥ずかしさに慌ててアクセルを戻す。なんてトルキーな。おまけに吸気も排気もない。やっかいな品物だ。

 足探りのアクセルで安全に第一コーナーを曲がる。あれ、今、何速だっけ。ギアを変えずとも踏んだ分だけ加速していく。次のコーナーで減速しても同じだ。ギアを落とす必要なく立ち上がる。

 まるで重さがない。常に急勾配を下っているような感覚だ。なるほど、これならチャンピオンを取れるかもな。


 ニュルンベルクサーキットは一般にも開放されている。法律も保険もない道だ。

 しゃべるより早くハンドルを握り、乗りなれたマシン。通学するより早く運転を覚え、走りなれたコース。目をつぶっていたって周回できるんだ。得体の知れないエンジンでも問題ない。

 とにかくギアボックスを壊さぬよう、右足のアクセルワークに集中。コーナーではしっかりとブレーキをかける。少々狙ったラインから外れても、首が折れそうなロケット加速で挽回できる。

 運転を補佐する人工知能が過分な駆動力を逃がそうと、常にトラクションコントロールのランプを点滅させている。


 レースも終盤に差し掛かり、ダウンフォースを感じるほどの余裕が出来てきた。燃料タンクもバッテリーもない車体の軽さがタイヤの負担を減らし、ノンストップで走り続けられる。

 周回を重ねるごとに調子が上がっていくようだ。トップとの差が縮まっていく。

 表彰台が射程圏内に入ったところで、魔がさした。ふと思ってしまった。このエンジンの実力はいかほどのものなのか。

 未だ、アクセルを半分も踏み込んでいない。ボンネットの内で、冷ややかに、退屈そうに、あくびでもかいているんじゃないか。

 プロじゃないけど、運転技術にはそれなりの自負がある。下手なヤツよりは上手いって自負が。

 陶酔に心拍の高鳴りがわかる。こうなってしまっては歯止めが利かなくなるよな。後のことを考えなくなる。殺す覚悟みたいなものか。

 少なくとも先頭集団にいる連中はみな、心で叫んでいる。「我こそがドライビングの神だ」

 残り二周、タイヤの余力も少ない。命いっぱい飛ばすならこの周だ。トラクションコントロール、その他もろもろの補助機能を切る。

 アクセルを踏むほどに、制御の外れた爆発力が車体をきしませる。スキール音が止まない。盛大に白煙を上げているだろう。

 あらゆる物理法則が内臓を押しつぶしてくる。両手はもうハンドルにしがみつくだけだ。これを人馬一体と言えば良いのか。

 もはやライン取りとか、技術も経験もない。あるのは意地だけ。コース幅をいっぱい使い、無尽蔵のパワーに物を言わせて追い越す。

 追うべき対象のなくなった視界が光源を絞る。水中に突っ込んだみたいだ。何もかもが重く、息継ぎが途絶えそうになる。ひざの先、ボンネットの内から野太いため息が聞こえた。

「ようやく目覚めたか」

 憧れの君が微笑みかけてくれたような歓喜だ。最終コーナーを抜け、ロングストレートへ。アクセルを踏み込んだ。

 視覚だけが先行し、感覚が置き去りにされて行く。何が起こっているのか、何をしているのかわからなくなりかけたとき、呼吸を忘れていることに気づいた。その一息が悪かったのだろうか。

 大きな縦揺れが一回、そして横回転に巻き込まれた。サーキットに併設する遊園地のコーヒーカップを思い出す。父や母、姉、会ったことのある人の顔が代わる代わる見えた。これ、走馬灯じゃん。


 平和な時代に生まれ、親より先に死ぬことだけはしたくないと思っていたのに。まぶしいな。となればここは天国だろうか。

「おぉ、カズキ。気がついたか」

 じいちゃんが視界に顔をのぞかせた。あの世から迎えに来てくれたのか。

「いや、じいちゃん死んでないし」

「ん、ワシがどうしたって」

 思わず声になった。愛想笑いでごまかして、寝台に仰向け、九死に一生を得たことを理解した。安堵した瞬間、下半身に違和感を感じる。違う。違和感どころじゃない。感覚がない。

 かけシーツをひっぺがし、腕の力で上体を起こす。下半身は、両足はちゃんと付いていた。いたけど。足ってどうやって動かすんだっけ。

 腰まで三途の川につかっちゃったか。九死に一生の安堵が急に重くなった。救いを求めてじいちゃんを見れば、たどたどしく携帯電話を操作している。ここ病院だよな。

「タケミか。じいちゃんだ。そう、カズキが起きたよ。ん、ああ、今から代わるよ」

 差し出された電話を受け取り、無言で耳に当てた。

「よくも私のエンジンを壊してくれたね。なかなかやるじゃない」

 弟の無事を喜ぶ言葉ではなく、嘲笑か罵声が飛んでくると思っていた。実に落ち着いた捨て台詞を吐いて電話は切れた。

 なんかもう、泣きたくなる。叫びたくなる衝動を、そんな歳じゃないだろ。と理性が妨げてくる。

「あのさ、じいちゃん。足が動かないんだ」

 電話を返しながら、深いため息に紛れ込ませた弱音を自覚した。


 数日をかけて、いくつもの検査をしたけど、下半身麻痺の原因はわからなかったようだ。

「検査結果を見る限りは健康そのもので、動かないほうが不思議なくらいです。リハビリと薬で様子を見ましょう」

 医師のはっきりとした回答に気分が軽くなった。一時的なもので、そのうち元に戻るはず。しばらくの車椅子生活だ。

 車を冠するだけに、腕で舵を切るところから馴染むものがある。上手く体重移動させればドーナツターンくらい出来そうだ。四点シートベルトがほしくなる。

 学校を休む口実にもなるし、適当に録り貯めたテレビ番組を見て文字通りゴロゴロと過ごそう。

 悠々自適な生活を描いていた退院の日、迎えに来たのはじいちゃんじゃなくて、姉だった。

「わたしがあんたの面倒を見てやるよ」


 海外遠征という名目の海外旅行で両親が出払っている自宅は、そこかしこに手すりやスロープが設置されていた。

 そして「わたしのエンジンが壊れて、カズキが生き残った。つまりあんたの勝ちってこと。勝者はねぎらってやらないとね」よくわからない理屈で世話をやこうとする姉がいる。

 美人三大要素、自分勝手、自意識過剰、自己中心的を兼ね備えた女がねぎらうと言った。実際はそれと違う分類になるだろう。

 姉は体型維持、健康管理など気にしない。あらゆる物体を加速させて衝突させることをなによりの喜びにしている。学校にはそのときに出来た遊びの痕跡が今も無数に残っている。傷害事件にならなかったのが不思議だ。

 なんにせよ、そんな問題児の行動が不満不安渦巻く思春期の目には、規則で縛られた社会に対する反骨の象徴に映った。

 つまり、丸い容姿と尖った性格が中和しあって、学生時代は男子生徒からは尊敬を、女子生徒からは好意を集めていたと考えればいいか。

 姉に憧れた人が妹分弟分なりたいとオレに言い寄ってくる異様さだ。

「なんにもないね」

 台所でタバコをくわえた姉が、片手に包丁を持ちながら冷蔵庫を物色している。なにかを製作するつもりだろう。

「コンビニ弁当で良いよ。病人じゃないから」

 調味料で爆弾なんか作られてはたまらない。無難な提案を押す。

「そうね。ちょっと足、見せてみなさいよ。あ、こら。逃げんな」

 包丁を持った姉が近寄ってきた。反射的にテーブルの対面へ車椅子を滑らせる。

「先っちょでちょっと指すだけだから。痛くないんでしょ。ショックで治るかもしれない」

 幼子が好奇心にかられて花を引き千切るみたいで冗談に聞こえない。包丁を握りなおすな。

 テーブルを挟んで逃げ回っていると玄関のチャイムが鳴った。

「あら、誰だろう。一人で大丈夫って言ったのに」

 姉が台所を出て行く。誰か知らないけど助かった。包丁は置いていけよ。


 来客は二人。政府研究機関から姉を訪ねてきたようだ。いよいよ国家を相手にやらかしたのか。

 国はタンデムエンジンの開発を秘密裏に進めていた。そのプロジェクトに姉の参加を望んでいるとのことだ。

 一人は技術屋のようで、アマテラと名乗った。

 レージングカーに載せたアレは、クラッシュで鉄くずになり、なんのサンプルも取れなくなっていた。当然、姉の作った物に資料なんてない。

 本当にタンデムエンジンを製作したのかを疑うアマテラは、姉となにやら話し込んでいる。

 技術屋同士、いや、オタク同士の話はさっぱりわからない。でも楽しそうにしているから悪い気はしない。

 食事前だとを知って、特上の寿司を用意してくれたこともプラスだ。

 姉のそっけない応対に膝を叩き、額を押さえ、声高らかに笑い、芸人のようなアマテラのリアクションが続く。そして確信したようだ。再度、プロジェクトへの参加を熱望して頭を下げる。

 姉のほうも、極秘プロジェクト、国家予算の二言ですっかり乗り気になっていたので、交渉の余地なく成立した。ここでの会話って他言無用なんだよな。

 要らぬ心配だと思っていたら、見張り役が付くそうだ。


 姉の目的はエンジンを作ることじゃない。加速させることだ。ぶつけることだ。国家予算を使って、なにに狙いを定めているのだろう。


 朝一番、チャイムが鳴る。

 姉がどこかの秘密基地へと出向して丸一日がたち、極秘プロジェクトの一環でヘルパーというお目付け役がやってきたのだ。

 監視だけでなく、マーダーライセンスなんか持っていたりして。

 車椅子も玄関扉も、これほど重く感じることはなかった。

「おはようございます。スオウと申します」

 戸を開けた向こう、深々と頭を下げたのは同い年くらいの女性だった。いかついイメージをしていたので、その落差から印象が強烈になった。

 顔上げた彼女と視線が合う。ふと、小さいとき見たコマーシャルの女の子を思い出す。なんの宣伝だったのかは忘れたけど。

 あのときの女の子が成長したらこんな感じになるじゃないかな。昔は良かったと年配の人が言うけど、子供のころの誇張された記憶がそのまま現れたようだ。

 ようするにとびきりの美人さんということだ。良くも悪くもあらゆる法が免除されてしまいそうほど。

 寝グセとか、身だしなみが気になり、視線をそらして招き入れる。

 

 さすがに政府が派遣したお手伝いさん、家事全般からリハビリの補佐までそつなくこなす。高級旅館の気配りとでも言えばいいのか、あらゆるものが準備される。政治家の生活ってのはこんな感じなのか。

 寡黙でも、愛想が悪いわけでもない。

 歳はいくつのなのか、テレビに出たことがあるのか、聞きたいことはいろいろあるけど、お互いのプライベートには触れない雰囲気が職人を思わせる。

 姉と雑談していたアマテラより立派に見えてしまう。もちろん姉よりもだ。

 

 退院から一週間が経つ。未だ足に感覚は戻らないけど、絶世の美女と一つ屋根の下で、そんな心地よい緊張の環境に、事故の前より心身ともに調子が良くなっている。

 その日はいつもより早くスオウさんはやってきた。早寝早起きの健康的な生活になっていたのであせりはなかったけど、リビングで顔を合わせたとき、驚きで車輪をつかみそこねた。

 在学校の制服を着ていたからだ。

「改修工事が終わったので今日から学校へ行きましょう」

 服装以外、いつもと変わりなく、スオウさんは朝食の準備を始めた。

「え、学校へ行くのかい。スオウさんも」

「はい」

 われながら要領を得ない質問に、明快な返事が返ってきた。

 学校なんて行きたくない。とゴネればわかってくれそうだけど、それはそれで情けない。


 迎えの車で学校に乗りつけたから、昇降口までにすっかり注目を集める。もっとも視線の先は、後ろで車椅子を押すスオウさんの向けられているものだが。

 校内は車椅子用の導線が作りつけられていた。エレベーターまで増設されている。一週間でここまで出来きるのか。

 教室へ入り、久しぶりの遠巻きな雰囲気に復学したことを実感する。

「転入の手続きに行ってきます」

 そう言い残してスオウさんが出て行く。

 無駄に机の引き出しを探ってみたり、退屈を紛らわしているとクラスメイトが何人か寄ってきた。

「カズキ君、今の人は誰なの」

 そりゃ気になるよな。なんて答えればいいか迷っていると、戸が勢いよく開かれた。

「カズキ、美人さんと同伴してたみたいだけど、タケミ先輩じゃないよな」

 最上級生の集団がドカドカと教室に入ってくる。姉の取り巻きをしていた人たちだ。

 学校創設以来の問題児と言われる姉、タケミ。その弟ということで入学時から一目置かれることになってしまった。

 いわゆる不良っぽい先輩から声をかけられることが多く、姉を知らない同級生からは敬遠されるようになっていた。

 先輩たちは荒い言葉遣いで退院を喜んでくれた。「タケミ先輩によろしく」そう言付け、チャイムと共に去っていった。

 担任の先生に連れられてやってきたスオウさんは自己紹介で、半身不随なオレの介護をしていることを伝えた。

 羨望とも嫌悪とも言えそうなまなざしがいっそう強くなった気がする。

 そこで、学校ではお互い生徒同士でいようとスオウさんに持ちかけた。介護のことは忘れて、学校生活を十二分に楽しんでくれって。

 つまり恥ずかしいのだと本音を言ったところで、笑ってうなずいてくれた。


 才色兼備とはこの人を指すのだろう。そして落ち着いた物腰。スオウさんは姉とは違う切り口でクラスメイトの関心を高めていく。

 家でも学校の話題で会話に可愛さをのぞかせ、いよいよ魅力的になっていく。

 自分だけのモノだったはずのソレらが周りに振りまかれていく。幸せとはそういうものじゃないのか。

 こんなこと考えるようじゃダメだな。あのせまい運転席、一人だけの空間に戻りたい。ただただ突っ走り、なにも届かないところへ行きたい。


「ごめん、カズキ君。ちょっと待って」

 昼休み、教室に戻ろうとエレベーターに乗り込んだところだった。振り返れば荷物を抱えた女子生徒が走ってくる。開ボタンを押し、ちょっとだけ待ってみる。

「便乗しても良いよね」

「どうぞ。別にオレ専用ってわけじゃないし」

「ありがとう」

 エレベーター入ってきたのは、同級生で美術部のミカミさんだ。持っているのは画材道具だろうか。

「軽いんだけどけっこうかさばってね。足元が見にくいから階段が怖いのよ」

 荷物を足元に置いて一息つく。

「四階で良いんだよね」

「うん、お願い」

 エレベーターはすぐ四階に着く。ミカミさんは荷物を落とさぬよう小さな礼をした。

 廊下を小走りしていく背中を見つめ、彼女のことを意識している自分に改めて気づいた。


 ミカミさんとは同級生くらいの認識しかなかった。

 きっかけは、校内に展示してあった絵に興味を引かれたからだ。

 真っ黒な空、白い大地にたたずむ宇宙飛行士の絵なのだけど、そのヘルメットバイザーの奥には葉を茂らせた木枝が描かれていた。

 他に気になったのは根の生えた柱時計、もしくは大木に時計版が張り付いた絵。どちらもミカミさんの作品だった。

 美術の知識なんてまったくないから、価値のほどはわからないけど、時間をイメージさせて印象に残った。

 それ以来、校内でミカミさんを見かけるたびにあえて避けるようになった。

 サーキットでの一秒は現実世界の一年に匹敵する。となれば、ミカミさんの絵を眺めていた一分は一世紀と同じだ。

 エレベーターでのわずかな時間、簡単なやり取りを、大陸の移動がわかるほど長く感じた。

 今度またエレベーターで一緒になり、故障して閉じ込められることがあったら、声をかけてみよう。


 スオウさんが来るまでの間にと点けたテレビがなにやら騒がしい。休日でもないのに朝っぱらからバラエティなんてどこのチャンネルだ。画面を見れば報道番組だった。

 映像は素人の撮影みたいにブれて、新人っぽいレポーターがあわただしくなにかをしゃべっている。

 カメラが上空へ向いた。すこやかな青空の真ん中に黒い球体が浮かんでいる。映像からはよくわからないけど、風船なんかじゃない。それよりずっと大きそうだ。

 どのチャンネル同じ内容を放送していた。フェイクニュースにしては手が込んでいる。

 わかったのは事件や事故ではなく、空に浮かぶ黒い球体が出現した。ただ、それだけのことで、休校とかは期待できそうにない。

 スオウさんがやってきた。なんだかいつもと違う。テレビから専門家だか評論家だかが、UFOと言っていることにあきれているのだろうか。

 うつむき加減で表情に重さがあった。声質も落としている。それでもはっきりと聞こえた。

「タケミさんが、お姉さんがおナくなりになりました」


 結果的に学校を休むことが出来た。

 政府専用車の行き先は駅前繁華街の高層ビルだった。秘密基地に連れて行かれるのかと思っていただけに、残念。

 スオウさんとともに最上階の一角に案内された。長テーブルが中央を横切り、椅子が並べてあるだけの殺風景な部屋だ。

 床から天井まで一面のガラス窓から眼下に街並みが広がる。報道にあった黒い球体は見当たらない。

「おまたせしました。残念な結果になってしまって申し訳ない」

 以前、姉を訪ねてきた政府研究所のアマテラが何度も頭を下げて部屋に入ってきた。

「えっと、彼女からはどこまで聞いていますか」

 テーブルを挟んで対面し、アマテラは後ろのスオウさんに視線を向けた。

「姉が亡くなったと聞きました」

 アマテラはそうか、そうか、とつぶやいてうなずいている。はぐらかされそうな感じがして、つめよった。

「それで姉は死んだんですか」

「死亡とはニュアンスが違いますが。消失したと言うべきかもしれません」

 そう言っていくつかの紙切れをテーブルに置く。写真だ。鉄筋とコンクリートを無作為に重ねたオブジェに見えるけど。国家予算で砂遊びでもしてたのだろうか。

「結論から言うとエンジン起動試験に失敗して制御不能になってしまいました。これは即席バリゲードです」

 失敗って偉い人の使うと言葉じゃないだろう。姉を引き入れた時点で失敗していることに気づいてほしい。

「起動試験ってことは形にはなったってことですよね」

「ええ、やはりタケミさん、あなたのお姉さんは天才です」

 あなたの姉か。どこまでも付いてまわるな。墓石にも書かれそうだ。

 死、つまり停止。加速も衝突もしなくなる。あの姉が。UFOのほうがよっぽど現実的だ。

 タンデムエンジンは原子運動のズレに真空のエネルギーを取り込んで作動する。時間の慣性を利用する機構だとか。水中に穴を開けるようなものだとアマテラは説明した。

 その穴には圧がかかる。ふらむほどに、深くなるほどに、強くなっていく。

 制御不能となって暴走しているタンデムエンジが今、まさにその状態なんだと言う。臨界に達したときに開放されるエネルギーはインフレーションと同等になるらしい。

 起動時、そばにいた姉は蒸発。真空のエネルギーに取り込まれた。とアマテラは推測している。犠牲となったのはエンジンに火を入れた紙一重の天才一人だけ、すぐさま封鎖したのは正解だ。

「黒い球体は、エネルギーの放出、拡散を防ぐためのものなんだよ」

 アレがなかったら地球は惑星軌道から外れていただろうと続けた。この人、学者なんだよな。余生をもてあます作家みたいな話だ。

「それってヤバくないですか」

「ヤバいですよ。人類滅亡です。エンジンを止める手立てがない以上、世界は終わります。くわしくは彼女から聞いてください」

 アマテラの差し出す手のひらがスオウさんに向けられた。

「彼女こそがあの黒い球体をもって、我々を窮地から救い、猶予を与えてくれた救世主だ」

 宇宙人に該当する存在とアマテラは言った。サブゼログランプリの事故でタンデムエンジンの断末魔を感知して、この星へやってきた。そして姉の動向を観察していたそうだ。

 振り返って、スオウさんの美しさの秘密を理解した。やっぱりこの人は天使だったんだ。

 

 政府は緊急放送で黒い球体をオーロラ現象の一種だと、難解な言葉でごまかしながら発表した。実際はお化けとか幽霊に近い、ファンタジーなエネルギー体らしい。

 姉のこと、タンデムエンジンのこと、スオウさんや世界滅亡のことは伏せられた。

 当然、葬儀なんかもしない。連絡のつかない両親には知らせようがない。そのうち手に余った、見たことのない弟か妹を連れて帰ってくるだろう。

 スオウさんは本来、実体を持たない意思だけの存在で、地球人とでは荷車と飛行機以上に進化過程の開きがあるようだ。

 その姿にモデルはいるのかをたずねたら、同年代女性の平均値で形作られたとのこと。

 この美しさは平均なのか、なんか納得した。個性じゃないんだ。整っているってことなんだ。確かに見とれるだけで、面白いモノじゃないしな。


「アマテラさんは失敗と言っていましたが、タケミさんはこうなることをわかっていました」

 帰りの車内でグチっていたら、スオウさんが姉をかばうようなそぶりを見せた。

「事前に知らせました。現段階でエンジンを始動させることは破滅につながると」

「それはスオウさんが、宇宙人であるってこともわかっていたのかな」

 スオウさんはうなずいた。

「それで姉貴はなんて」

「宇宙人に警告されたことで理論が証明された。と」

 人間、精神的に追い詰められたときは、もう笑うしかないようだ。自然と口元がゆるむ。

「わかっていてもやるんだよ。前がガケでもブレーキを踏まないんだ。魔法でなんとかなると信じてるだよ」

 肉体から意思を切り離すまで加速するつもりだったのだろうか。

「世界の終わりかぁ。これってしゃべっても良いのかな。誰も信じてくれないだろうけど」

 終末のイメージにあの宇宙飛行士、ミカミさんの絵が重なった。


 各国の政府が、黒い球体は無害で安全だと報じたおかげで世の中は平和に見える。どこかの武力組織がミサイルを撃ち込んだりしたけど、実体のないものに当たるはずもなく。

 観光名所として、教室では何人もが見に行ったことを会話していた。

 その時が来たら、なんの前触れもなくフッと世界は消えてしまう。後悔だけが残りそうなので、その時を知ろうとは思わなかった。

 スオウさんを待たせて、放課後の校内をさまよう。やっぱり美術室に置いてあるのかな。

 授業で使われることのない教室は、画材道具であふれていた。

 壁にはいくつもの絵が飾ってあった。部員の作品なのか、参考のものなのかわからないけど。

「カズキ君じゃない。どうしたの」

 隣の準備室からミカミさんが顔を出した。一人まじめに部活していたようだ。つまり他に誰もいない。チャンスだ。

「絵を見に来たんだよ。宇宙飛行士の」

 この言葉にウソいつわりはない。ミカミさんに会えるかもしれないと期待はしてたけど。

「宇宙飛行士。わたしの描いたのかな」

「そう、顔の部分に葉っぱが描いてあったヤツ」

「覚えてくれていたんだ。でも、今になってどうして」

「確認したかったんだ。ミカミさんへの気持ちを。あの絵見たらわかる気がして」

 ここまできたらもう勢い任せ。姉のマネじゃないけど、行き当たってバッタリだ。

 もう絵を見る必要もない。唖然としているミカミさんを見て確信した。

「ミカミさんのことが好きだったみたいなんだ」

 返事を聞く気はなかった。聞くのが怖かった。言ったものが勝ち。逃げ得だ。車椅子で踵を返す。でも、教室を出かけたところでつんのめった。

 手を伸ばしたミカミさんにハンドルを握られていた。

「あの転校生がそうなの」

 前かがみでうつむいていたミカミさんが顔を上げる。怒っているような、泣いているような、どちらとも取れる表情をしていた。

「あんなきれいな人がいるから、もう過去形ってことなの」

 まさかプライドを傷つけてしまったのか。思いがけない展開だ。最悪の結果になっても自分が落ち込むだけだと、相手のことなんてまったく考えていなかった。

 世界が終わるというのなら、今すぐに終わってくれ。

「わたしは、カズキ君のことを好きになります」

 そのほんの一言、ミカミさんの告白が耳の中で反響する。天地がひっくり返った。インフレーションよりも強い衝撃だ

 幸せは天から降ってくるものじゃない。地獄の底から拾い上げてくるものだ。前言を撤回します。世界がいつまでも平和でありますように。


 その日、スオウさんには先に帰ってもらい、ミカミさんと下校することになった。車椅子を押されていては、デートには見えないだろう。

 二人で時間を共有している。今までなかった感覚だ。

 ミカミさんへの告白は遺言のつもりだったのだけど、契約になってしまった。

「もしさ、明日で世界が終わるとしたらどうする」

 罪悪感と好奇心混じりで背中越しにたずねてみた。

「いきなり終わりの話なの」

「いや、一番望んでいることはなんなのかなって思って」

「そうね。虫歯とか太る心配ないから、駅中ケーキ屋のショーケースに並んでいるのを大人買い。買い占めようかな。カズキ君ならどうするの」

「歴史の課題、今日中に終わらせなけりゃってあせる」

「ウソだ」

 ミカミさんが声を上げて笑い、車椅子が蛇行した。

「そうだ。カズキ君は車運転できるんだよね。ドライブでも良いな」

「いやいや、免許持ってないから。サーキットなら走れるけど、この足じゃアクセル踏めないよ」

「じゃあ、サーキットで良いよ。私が踏むよ。アクセル」

「そんな二人羽織りみたいなことを車で出来るわけが、あ、出来るな」

 以前、サーキットのイベントで左右の席にハンドリングとアクセルワークを分け、二人で運転する競技があった。あの改造車、まだ残っていたよな。

「そうと決まれば、さっそく練習よ」

 ミカミさんは駆け出し、車椅子を加速させた。

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ワールドエンド @1640

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