好きな人と夢 6

 丘を越えて、走り続けた。

 そこにあるけもの道をずっと走って、遠くに見える海に心躍らせることもなく。


 胸の内は悲しみだけに支配されていた。

 歩いて息切れを沈め、また走る。頬を流れる涙は乾き、その上からまた濡れた。

 鬱陶しいくらいに空は澄み渡っていて、ギンとその下を歩いたことが何度も私を苦しめた。突き刺した。大地を歩く私と鎧姿が浮かび、今すぐ戻りたいとさえ思った。

 葛藤と結末を振りきって、抱えた袋と本を胸に、ずっと進む。

 拒絶の光景を思い出して辛くなって、わけもわからず走る。


 私は臆病な人間だ。

 弱くて、これといった取り柄のない罪人だ。


 そんな私の夢は、叶えていいものではないというのに。ギンは肯定した。私を守護し、旅に付き添ってくれた。十年私を閉じ込めた死の森から連れ出し、人の優しさを教えてくれた。


 なのに、なのに……っ!


「ぁうっ」


 また転ぶ。

 白い手袋で身体を支え、肌が地面に着かなかったことに安堵。それからすぐ悲しみの感情が押し寄せた。


 涙がぽたぽたと落ちる地面を見ながら、顔をあげた。


「――、ぁ、」


 歪んだ視界に、光をきらきらと反射する水が広がっていた。

 広大で、空とは違う蒼が波打ち際に押し寄せては引く。聞いたことのない砂と水の音に、風に香る独特な匂い。


 手袋の指先が、白い砂に触れていた。




◇◇◇




 厚底のブーツが、踏み出すたび埋もれる。

 白くまぶしい砂浜に足跡を残して歩き、波打ち際にたどり着く。


 近くで見ると透明。波が泡立ち白をつくる以外、蒼は見受けられなかった。

 遠くの蒼さに目を細めてから、足元に視線を落とす。


 靴のつま先に水が浸る。

 浸水はしないが、波が当たった感触が伝わる。一歩だけ下がって、その場にかがんだ。

 手袋をはずし、人差し指で押し寄せた波に触れてみる。

 思ったよりも冷たくはない。だけどここまでの水は見たこともないため、好奇心が勝ってもう少し手のひらを浸してみる。

 ザア、と音が迫った。


「……」


 素肌が、水に包まれる。

 お母様の言っていたことが本当なら、私は素肌で地面に触れても問題ないはずだ。つまり、水の中でなら歩くことができる。

 こくり、と喉を鳴らして、そのまま手を沈めてみる。


 目を瞑って、指先だけ。

 おそるおそる伸ばして、思ったよりもすぐに、違和感がはしる。小さい粒が爪に触れ、水にさらわれる砂が指にあたる。


「――、」


 私の夢見た光景。


 目をあければ、そこには腕を突っ込んだ水面に、砂に埋もれさせた手のひら。

 薄く開いた口から吐息がこぼれた。揺れる水面に曖昧でぐしゃぐしゃな顔が映る。

 かつてアレット村で発現させてしまったような、緑の兆しはまったくない。数本の指を覆った砂の感触がくすぐったくて、にぎにぎと動かしても変化はない。

 砂は砂。

 そこから野花や雑草が伸びることもなく、塩水のなかで地面に触れていた。


 バシャリ、と手を引き抜く。

 それから、ベルトにくくりつけたカギを手にし、靴の錠を開けていく。

 外で脱ぐのは、数年ぶりだ。若干の怖さはあるが、実際に手で触れても呪いは発現しなかった。であるならば、きっと私でも歩ける。

 息を止めて、私は右足からゆっくりと足を持ち上げると、そっと水に入った。


 指先。

 付け根。

 半分まで。

 そして、かかと、足首。


 押し寄せた水に合わせて、喉を鳴らす。

 ちゃんと浸かってから、思い切って体重をかけた。


「っ、」


 息込んだ私を裏切るように、足はすぐさま砂につく。

 波に巻き上げられた砂が覆う。

 指と指のあいだはみるみる埋まっていき、足首近くまで砂が迫る。


 左足も脱いだ。

 今度はさっきよりもはやく、右足に並べるように体重をかける。


 ザア、と繰り返す音。

 それだけが耳に届く砂浜で、私だけがそこにいる。


 十年間、城の磨かれた床しか歩いていなかった。土の感触なんて知らず生きた。外になど希望を持たず閉じこもっていた。

 だが、ついに今日、私は夢を叶えたのである。


 やった。やってやった。

 叶えてやった。私に呪いを植え付けた運命の神に、この私が勝ったのだ。

 ずっと、ずっとずっと夢見ていた光景の中に立っているのだ。


 数歩足を運び、すこしだけ深いところまで行ってみる。それでも世界は美しいまま。

 ああ、素晴らしい。なんて素晴らしいんだ。世界はこんなにも――、


 こんなにも?


 ……。


 …………。



「は、はは、……」



 不意に、乾いた笑いがもれた。


 たくし上げていたマントが、ぱしゃりと水面につく。

 未だ本を抱えた腕が脱力し、呆然と水面のさきを睨む。

 蒼と蒼の境界線。光を受けて輝くその光景は、何にも阻まれず、どこまでも続いている。穏やかで、緩やかで、平和な海。

 きっと、本来の私であれば跳んで喜んだであろう。手のひらですくっては水を飛ばし、全身びしょ濡れになっていたことだろう。

 だけど、なんだこれ。

 なんなんだ、これは。

 どうしてこうなったんだろう。


 ――空虚だ。


 ただただ、空虚だ。

 あれほどまでに夢見た今が、とんでもなく薄っぺらい。感動もなにもない。ぽっかりと空いた胸の奥が、感情という感情をすべて呑み込んだのだろうか。今の私は抜け殻で、何の価値もなくて、それで、つまらない。


「ギン……」


 沈んだ気分のまま、本をひらく。

 本来であればとなりにいたはずの彼を想って、かさりとページをめくった。


 相変わらず汚くてぼろぼろな羊皮紙の束。私の本と比較すればするほど、どんなに長く使われたのかが窺える。

 またじんわりと込み上げてきた。

 鼻を啜って、旅を思い出しながらページをめくってしまう。

 拒絶されても、私はまだ好きだから。突き放された理由がわからなくて、ある種の救いを与えてくれた彼を忘れられないから、めくってしまう。


 足元を、水が揺れる。


 また目に付いたメモを読みはじめて、時が過ぎる。

 一枚目も、二枚目も、スターチス・フラワーのある六枚目まで、隅から隅までびっしりと書き込まれた殴り書き。乱雑で読みにくい、ギンの文字。

 ……やはり、読めない。

 詰め込みすぎて、しかも重ねて書いている箇所もあって、所々しか読み取れない。


 そうやって、ミネルバでは読まなかった七枚目のメモに移り。


「あ、れ」


 指がとまった。

 なぜか、七枚目だけはちゃんと読めた。文字がある程度きれいに書かれているし、上から重ね書きもされていない。絵がない代わりにすべて文字だが、私でも十分読める。


 また、ザア、と波が押し寄せる。


 海にすこし入ったところで、私は棒立ちのまま、メモに視線を落とした。

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