9章
好きな人と夢 1
嵐のような夜が明け、半日ほど。
後ろ髪を引かれる思いで、私たちは歩いていた。トウが稼いでいる攪乱を無駄にしないため、できるだけ遠くに行く必要がある。
できれば、諦めてくれると嬉しいんだけど。
ギンは騒動の最中に荷物を見つけ出してきたようだが、私の持っていたものはすべてミネルバに置き去りだった。もちろん本だって。
見れば、ギンの背負っている麻袋は焼け焦げて、もう少しすれば中身がこぼれ落ちそうなほどまでぼろぼろである。きっと、トウの炎に巻き込まれたせいだろう。であるならば、私の荷物は今頃……。
「……」
私はとぼとぼと歩みを進めた。
肩の軽さが虚しい。
トウとあんな約束までしておいて、私は本を失ってしまったのだ。誰も責める気にはならない。元はと言えば、私がちゃんと持っていなかったのだから自業自得だ。それでも、喪失感はどこまでも気分を落ち込ませる。
気分とは裏腹、周囲の景色はとてものどかだ。
野に原生する林と、遠方の山。地表は荒野よりかは緑に富んでいる。馬車によってできあがったけもの道を辿り、明けた空を鳥がまわる。
まるで、すべてウソだったかのように静まりかえっている。
もう、あの本を読むことは叶わないのだろうか。
ミネルバの市場で古本を探せば、もしかすると。いや、でもまた入国できるかどうか。
落とした視線のさきで、地面を踏みしめる。揺れる銀色の毛先はぼさぼさだった。それをつかまえ、弄って。すぐに離す。
あー、ダメだダメだ!
落ち込んでばかりでは、トウに顔向けできない。約束したのだ、また会って、お酒でも飲みながら話すと。こんな調子では、本どころか夢の海でさえも楽しめない。
気を引き締めるつもりで、頬を叩く。
と、不意に声がかかった。
「スイ」
立ち止まる気配がして、顔をあげる。
わざわざ身体をこちらに反転させ、ギンがこちらに意識を向けていた。見える範囲には誰もいない。後ろから追いかけてくる一団なんかも見当たらない。
改めて安心し、また前に向き直る。
一本道で見つめ合うカタチになった。
「なんですか?」
「……」
黙っている。表情は今日も見えないし、当然感情も霧につつまれている。一度顔を背け、逡巡しているのが窺える。
探していた言葉を口にしたのは、一拍おいてからだった。
「スイは、俺を恨んでいるだろうか」
「――?」
思いがけず、きょとんとしてしまう。
ギンが自分のことを『俺』と言うのもそうだし、こんな弱気を露わにしたのも。素の彼を目の当たりにするのは、いつかの夜以来だ。あの日は背中越しに声を聞いただけだけど。
「どうしたんですか?」
首を傾げて尋ねる。だけど、ギンは黙りこくってしまう。
「あ、もしかして。ギンがマレクシドの騎士だったってことを隠してたの、気にしてるんですか?」
「……」
「それともあれですか? 実は暗殺のために私の依頼を受けたことですか? 別にいいですよ。ギンは結局、命令違反してまで私に付き添ってくれたんだから」
「……」
「……ギン?」
え、ちょっと、死んでないですよね? 立ったまま絶命とかやめてくださいよ。勇者でもそんな伝説残してないんですから。
しかしさすがに、ここまで返事がないと困る。
私は不安になって近づいた。袋を持っていないほうの手を掴んでみる。
すると、ギンの兜がぴくりとして、私に向いた。
「行きますよ」
仕方ないので、そのまま引っ張っていくつもりで歩き出す。
ギンは何も言わずされるがままだった。
彼が、何を思っているのかはわからない。何に対して負い目を感じているのかも不明だ。
そう。
私は彼のことを、何も知らない。マレクシドの騎士だったなんて今朝初めて知ったし、それ以外にも訊きたいことは山ほどある。
スターチス・フラワーについてのこととか、素顔を見せてくれないこととか。ああそうだ、私のことをどう思ってるのかも気になるな。
「……トウは、」
「ん?」
後ろから一言、ぼそりと聞こえた。
私は歩く速度を緩め、耳を傾ける。
「トウは、君の夢を応援していた」
「そうですね」
「だから、俺はスイの夢のために逃げることを選んだ」
「ええ」
「だが、今ここにいるのは、正しいと思うか?」
「……」
もしかしたら、私と同じように感じていたのだろうか。別れるのが名残惜しかったのだろうか。
別々の道を歩むよりも、一緒に引き返して、皮売りのおじさんを助けて。それで、私の置いてきた本も取り戻して。またあの酒場で騒ぐように話したい。
そんな、輝くような旅にしたかったのだろうか。
それはとても魅力的だ。
私だってそうしたい。あの時間を堪能したい。
だけど、それじゃあダメなんだと思う。
一貫して別れることを告げたトウは、おそらく知っているのだ。
出会いがあれば、別れもあるのが旅であると。明るいことばかりではないのが醍醐味であると。
だから。
「これでいい」
「……後悔はないのか?」
「ありますよ。でも、私には私の夢がありますから」
トウにはトウのやるべきことがあるように。
「ギン。あなたには、私を海まで連れて行ってもらう。それで一緒に水に浸かるの」
「いや、それは――」
「口答えしない。わかったらほらっ」
引っ張り、先頭を歩かせる。
私を振り返るギンに、目で『行け』と促す。
歩き出すギンの背中に、私はまたいつものように語りかけた。
「あとどれくらいですか?」
「……もう数日もかからない」
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