8章

かつては仲間、今は敵 1

 ミネルバの人々も、ほとんどが寝静まったころ。

 明かりの消えた部屋には、月の光を頼りにがさごそと蠢く影があった。


 ギンと私、それぞれが荷物をまとめ、旅立つ準備をする。

 彼は昼間に買い集めた食料や貨幣などを、私は数少ない旅道具を、麻袋に詰める。

 靴の錠も確認し、ベルトに吊されるちいさいナイフも確認。大切な本も袋に入れ、それから改めて手袋とマントを身につける。ぱちん、と胸の前で留めると、準備完了の意をこめてギンを見た。

 頷いた彼が、宿を借りた金額をすこし多めに取り出す。それを目につくテーブルに置くと、窓に近づきゆっくりと開け放った。


 冷たい風が舞い込む。

 視線の先にはポツポツとしか灯っていない街並みと、そこを満たす静寂が広がっていた。


 その窓枠に足をかけ、ギンが振り向く。

 月明かりに照らされた私の騎士が、影の内側にいるこちらに手を伸ばす。


「……っ、」


 こくり、と息を呑んだ。

 

 城の前から動けない自分を連れ出したときを思い出させる。

 今感じている恐怖は、あの日のソレとはまったく異なる。けれど、同じだけか、それ以上の恐怖ではあった。

 きっと、ここから出れば怖いことが待っている。いや、ここにいても逃れることはできないのだろう。危険はすぐそこまで迫っているのだから。

 つまりは、覚悟の問題。

 握り込んだ手のひらが、汗ばんだ。ふぅ、と短く息を吐くのが、存外に大きく聞こえた。わずかに早まる鼓動を意識した。

 また新たな一歩を踏み出さねばならないことに、勇気を振り絞ろうとする。


「大丈夫」


 ただ一言、こぼされた言葉。くぐもった声音。

 それを聞いて、私は今回も手を伸ばす。


 差し出された手に、そっと指を重ねた。






 抱えられ、窓から外に降り立つ。

 なるべく音を立てないように器用な着地を披露すると、ギンは優しく私をおろしてくれた。


「あ、ありがとう」

「いくぞ」


 交わす言葉は手短に、私は素早く移動するギンについていった。

 肌寒い風が頬に当たる。

 夜のとばりが降りたミネルバは昼間と大違いで、進む石畳みのさきは黒い口をあけているようにも見える。躊躇なくそこに踏み出せるのは、きっとギンがいるからに他ならない。

 私は次々と角を曲がる背中を追いかけ続けた。

 その最中、ひそめた声でギンに問う。


「本当に今日なんですか?」

「間違いない。詳しいことは言えんが、昼間の市場を見て確信した」


 曰く、今日――いや、昨日か。昨日は憲兵の数が日頃よりも多かったのだという。建国記念なのだから、憲兵が多いのはなんら不思議なことではない、とは思う。だが彼には彼の思うところがあり、こうして行動を起こしているようなのだ。

 頭を下げてまで頼んだギンの言葉を、トウもおじさんも否定はしなかった。もちろん私も無下にはできない。


「スイは一度、キツネの仮面をした男にさらわれただろう。あれはいわゆる、敵情視察だ。アシを辿られぬよう、秘密裏に雇われたに過ぎん」

「なんでそんなこと知って――」

「こっちだ」


 また角を曲がった。

 入り組んだ狭い通路がまたあらわれ、石畳みを駆ける。私たちは何かを避けるように遠回りしていることがわかった。

 私には見えないなにかが見えているように、迷いなく進むギン。

 目指している先は、私たちがミネルバに入ってきた方角とは真反対。南西に抜ける、正門とは異なる通用門らしい。だが、先に寄るところがあるようで、複雑な経路を辿り、東に走る。


 曲がる、曲がる。

 かと思えば引き返す。

 別の角から飛び出し、影で身を潜める。

 また駆ける。


 同じようで、目まぐるしく変わる景色。

 いつしか私は自分のいる場所を把握できなくなり、混乱していた。ただただ、一向に姿の見えない敵に怯え、必死についていった。


 私たちは、いったい何から逃げているのだろう。息を切らしながらそう思っていると、不意に視界の先がひらけた。


 一回り広い大通りに出た。

 水路の向こうに広がる木々と壁から察するに、ここは街の外縁のようだ。もちろん街灯は軒並み消えており、通行人の姿は皆無。

 しかし、ちょうどそこに停まっていた馬車に目がとまった。

 見るなり、ギンが大通りを横切る。私も続く。


「すまん、遅くなった」

「いいえ、予定より早いくらいよ」


 見覚えのある二頭の馬、御者台。そして繋げられた荷車にかけられた布がめくられた。


「わはは――おっと、今はだめだったねぇ」

「気をつけなさいよ、こういうの数年ぶりなんだから」


 こんな状況でも不敵に笑うトウ。御者台で手綱たづなを手に取るおじさん。二人がさっそうと準備をはじめた。

 ギンが飛び乗り、私はトウに引き上げてもらう。


「出せ。このまま外縁に沿って門までだ」

「あいよぉ!」


 グンッと馬車が走り出す。

 羊の皮を乗せていたときとはまるで異なる、力強い引きで景色がながれ始めた。顔にふきつける風も一層激しくなり、思わず尻餅をつきそうになる。

 トウはそんな私を支え、冷静に訊いた。


「巡回は?」

「やつらの装備は騎士団統一の剣のみだ。数も多く、歩きではどうしても見つかって戦闘になる。だがコレならば、見つかりはすれど、完璧な包囲網も突破できる」

「じゃあ危険はないってこと?」

「……いや」

「でしょうね」


 騎士団?

 剣?

 包囲網?


 私たちが逃げてるのって、まさか――。

 背後を見上げると、トウはフードを脱ぎさり、口元に笑みを浮かべていた。流れる夜闇に鋭い視線をむけながらも、どこか楽しそうであった。


 もしかして、みんな知っていて協力してくれているのだろうか。

 ……なんで、どうして?

 私が狙われる理由については些かの予想がつくが、トウたちがそこまでして危険に足を踏み入れる理由が見当たらない。


 いつかの日々と同じだ。


 罪人で、死ぬべき人間のために、執事も従者も、みんなが命を落としていった。身を削ってまで私を生かそうとした。

 なにがそこまでさせる?

 なにがそんなに命を粗末にさせる?

 私のどこにそんな価値がある?


 困惑に染まった視線を、前方のおじさん、背後のトウに向けてしまう。

 それを感じ取ったのだろう。

 トウは私を見て、口をひらいた。訊いてもいない『なぜそこまでするの?』という疑問に答えるように。


「あんたのこと、みんな好きなのよ」

「え」

「言ったでしょ。想いはさっさと伝えなさいって。向こうのチビ含め、ほとんどの人間は口にもしないでしょうけどね、こんなこと」


 ……なんて。

 この人たちは、なんて優しくて、それでいて強いんだろう。

 私なんか足元にも及ばない。誰かのために国を敵に回す? おかしすぎて思わず笑いが漏れる。同時にじんわりとした何かが溢れそうになる。

 けれど、なんとなく、理解できる。

 自覚せずとも変わっていたということか。今は理解できてしまう。

 きっとトウも旅で学んだのだ。そして勇者一行は、ううん、それだけではない。出会ったみんなが、きっと優しくて強い人たちだったのだ。彼女も、旅を経てそうなったのだ。今の私が変わるように。


「ま、死ぬつもりなんてさらさらないけどね」

「当然だな」

「わははははははは!」


 そのとき。

 流れる景色のなかから、唐突にカランカラン、とけたたましい音が鳴り響き、後ろに逸れていった。

 私たちはそれを呆然と見つめ、そして犯人と思しき人物を注目する。


「……気づかれたかぁい?」

「ちょっと! あんたのバカ笑いのせいでバレたじゃないの!」

「わは――ごめん」


 私もギンも頭を抱えた。

 なんでだろうか。こんなに切羽詰まっているのに、こんなに危険なことをしているのに。


 楽しい。

 旅というのは、やはりこういうものなのですね。

 怖くて、辛くて、とても楽しい。

 私はこんなにも、旅を通して世界を感じている。人を、生を、感じている。


 やはり旅に出て、よかった。


「気づかれたのは早いが、問題ない。このまま行け。通用門は正門よりも小さいとはいえ、兵がいる。それでも辿り着いてしまえば、強行突破できるくらいには手薄なはずだ」


 ギンが指示し、おじさんがさらに速度を上げる。


「閉じた門ごと燃やせばいいんでしょ?」

「頼む」


 トウがにやりと笑い、ギンが頷く。


 きっと大丈夫。

 ギンもトウも、おじさんもいる。

 このまま進めば、やがては門も見えてくるだろう。そこを抜けてしまえば一安心だ。だから大丈夫。

 私はぎゅ、と手のひらを握りしめた。あと、少し。




 だが。

 順調に見えた一夜の逃走も、やはり一筋縄ではいかないらしい。


 すっ、と月明かりに影が横切ったのを、確かに感じた。

 無視できない異変。

 私は荷台から上空を見上げた。



 大きな大剣を振りかぶる影が、欠けた月に浮かび上がった。

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