味のする食事 3
村から近い川は、人がよく利用するとのことだった。
そこを目指し、人や動物その他の足が踏むことで形成されたけもの道を辿る。
荷物がないぶん、かるい足取り。歩幅も大きすぎず、小さすぎず。
張り詰めていた緊張感が和らいだからだろうか。それとも単純に、ギンとの距離感を掴んだからだろうか。私の口調もいつもどおりに近づく。正確には、城で過ごす間、頭で考えていたいろんなことをこぼすようになった。話題に困ることなく、自然に言葉が浮かんでいた。
「ギン、愛されてますね」
「いや、あの者たちは森に入るまえ、宿屋で話し込んだだけの間柄だ。愛されているというほどのものでもないだろう。だが、まさかまだここに留まっていたとはな。正直驚いている」
「ふふ、いいじゃないですか。私は好きですよ? ああいうわちゃわちゃした雰囲気。まさにヒトって感じです」
隣を歩く彼を見上げると、ギンは今も表情を兜で隠し、前を向いていた。
「旅をする者の多くは、他人との距離が近いな」
「違いありませんね」
そして願わくば、私もそうありたい。
この胸に
「ああそれと。宿に戻っても、男たちの態度はあまり気にするなよ」
「どういうことですか?」
「なにせその容姿だ。汚れに
「……? その容姿?」
自分の身体を見下ろす。
おかしかっただろうか。もしやこの時代には即してない? あまり容姿を気にせず出てきたためか、急に不安になってきた。
森を生きて抜けることに頭がいっぱいだった。だからそれらしい服装など考えてもいない。当然髪だってぼさぼさだろうし、自分でもイヤな匂いがする。とうてい人と接する姿ではない。今の私を見れば、姫だったものが落ちぶれたものだ、とかつての従者は笑うだろう。
そんなことを思っていたのだけど。
「かわいい、という意味だ」
「は」
ギンの放った一言に、私はカミナリに打たれたように唖然とした。
今、なんと?
私の聞き間違いだろうか。こいつは今「かわいい」と言ったのだ。
丸くした目を向けるが、この無愛想な騎士は平然としている。まるで気にしてない様子。
「えっ、え、まって。待ってください」
「なんだ。川はもうすこしで見えるはずだ。おそらくすぐにでも、」
「ちょっ、うん、はい。そうではなく」
私が立ち止まり、額に手をあてる。
ギンの足音も一拍おくれて途切れる。
「かわいい? 誰が?」
「スイだが」
「んぐっ」
この人……よくもまあそんな褒め言葉をやすやすとっ。
なんだ? 私が世間知らずなだけなのだろうか? もしかしてすこし見ないうちに『こんにちは』と『かわいい』は同じ意味合いになったのだろうか?
じとー、と冷ややかに睨んでみる。
「……」
当然ギンは動じない。
なんだか無性に腹が立つと同時に、歯が浮くような感想に顔が熱くなる。
私は行き場のなくなった恥ずかしさを込めて、手のひらを振り上げた。
「なに言ってるんですかっ」
「いたっ」
泥を水で流し、服を着替えた私は、濡れた手袋とマントを木桶に突っ込んでいた。
そのため、現在の私は町娘のような格好をしている。小柄で細い体格がしっかりと見える、なおかつ袖の部分はひらひらの。
外で肌をさらすという行為は、慣れていない。それは私の特異体質ゆえに。マントのように何かを羽織っていないと落ち着かないのだ。
故郷特有のこの銀髪は、ただでさえ私を目立たせるというのに。
「……」
畑仕事をする男たち、談笑していた女たちが遠まきに私を一瞥する。さっきよりも道行く人々の視線が注がれる。
ああ、服装というものはここまで効果があったのか。ギンの言うとおり、宿に入るのが心配だ。お腹も痛くなってきた。出会ったときから『ずっと鎧を着てるなんて不便ね』と思っていたものだけど、このときばかりは羨ましかった。
ギンが変なことを言うものだから、なおさら恥ずかしいんですが。
私は顔を見られないよう、
と、そんな私に声がかかった。
「おねえさん、旅の人?」
「ん? あ、ああ……そうですよ」
私に話しかけているのだと遅れて気づき、足を止めて少年に意識を向ける。
丸くぶかぶかな帽子をかぶった男の子は、カゴに黄色の花を詰めている。しゃがんでそれをのぞき込むと、微かに甘い香りがした。
「セルマリーの花ね」
セルマリーは、西寄りのこの地域に咲くことがおおい花だ。湯に浸して
「おひとつ、いかがですか? 銅貨二枚です」
「まあ」
実際、この花は探せば一日そこらで見つかるものだけど。私には別種の魅力がある。
それは、取引きそのものだ。
金銭を渡し、その対価を得る。これもまた、長年失われてしまった人の営み。十年間触れることのなかった買い物を、いま初めて感じている。
「じゃあひとつ、いや、ふたつ。いただけますか」
ぱぁっと顔を輝かせる少年に、思わず笑みがこぼれる。
私は懐から銅貨を数枚とりだすと、彼の手のひらにのせた。
「ありがとうございますっ」
がさごそ。カゴの中に手を突っ込み、セルマリーを二本持つ少年。かと思うと、草で作られた包み紙でそれらを巻く。
「どうぞっ」
決して豪華でも、珍しくもない、ありきたりな買い物。銅貨数枚に相応しい花束が、小さい手で差し出された。
それを、受け取ろうとして。
「――っ、」
私の手が、こわばった。
手袋をはずした指先が、セルマリーの茎を巻く紙に触れた。だけど、そこから動かなくなる。触れてはいけないものに触れた気がして、ぱっと引っ込めてしまう。
脳裏によぎるイヤな光景。想像。
かつて起こった惨劇が再生され、目の前の現実をも侵食していく。少年の顔が草木とイバラに呑み込まれ、潰され、血が滴る。
私の顔は、どうなっているだろう。
恐怖し、蒼白に染めているだろうか。
「おねえさん?」
「ぁ、」
視線が、セルマリーと、
浅くなった呼吸に気づく。
声が絞り出せない。
落ち着け。
落ち着くんだ、私。
想像。これはわるい想像だ。私の呪いは、地面に触れたときにだけ牙を剥く。城では素手でいろんなものに触れていたではないか。手袋なんかせず、本を
単に外に出ただけ。花に触れるのが久方ぶりなだけだ。なにも怖いものはない。
「ご、ごめんなさい。大丈夫だから。ありがとうね」
肺に取り込んだ空気を短く吐き出し、必死に取り繕う。心配させまいと、笑顔を浮かべて小さい花束を受け取ろうとした。
が。
「あっ」
それは、少年の声だっただろうか。はたまた、私の声だっただろうか。
ムダにりきんでしまったのだろう、受け取ろうとした花束が指からすべり、地面に落ちる。私は半ば反射的にそれを拾い上げた。
拾い上げようとしてしまった。
人差し指に、冷たい感覚が走った。
ひやりとしたものが背筋をなぞる。光にも似た一瞬が視界の端で弾け。
次の瞬間。
「――、」
私の右手と、掴んだセルマリーの花束が。
緑色に覆われていた。
茶色い地面。
そこに触れた指を中心に、私と少年のあいだの空間が彩られる。
セルマリーとは異なる、小さい野花。しゃがんだ私の顔まで伸びた、丈の長い雑草。地面を這う細い茎、まだあおい葉、数多に顔を出した芽。
「あ、ぁあああ、」
恐怖に満ちた声がする。
おののく声がする。
それが、私のものだと意識する。
「ぁあああああああっっ!」
バッと手を振り上げ、左手で右手首をつかむ。情けなく尻餅をついて全身を震わせる。目を丸くする少年の前で、世界を見失う。
視界がぐにゃりとゆがみ、耳鳴りが襲う。自分の声も遠くなる。
「はっ、ァ、はぁっ、はぁあっ――!」
「スイっ!」
どこかで呼ぶ声がした。
駆け寄ってくる誰かの手が、私の肩を揺さぶった。焦点の合わない目が、にじんだ鉄の色を写す。
黒煙。
悲鳴。
流れる血。
家族。
国民。
消えゆく命。
地面。
革靴。
踏み込んだ足。
「ぁ、ああああ、ああああ、ああああアアアアアアッッッッ――!」
在りし日の情景が目まぐるしく切り替わり、ドクン、ドクンと心臓をしめつける。
やがて、ばつん、と。
私の意識に、暗闇が落ちた。
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