夢を叶える契約 4

 契約書にサインがされてから、数日が経った。

 騎士さまと私は、最後の数日間をこの城で過ごし、旅立ちの準備を整えた。


 報酬の金貨を地下の宝物庫に突っ込んで、騎士さまに装備も選んでもらった。装備といっても、普通の少女が身につけるものだけではない。こと私においては、護身だけに限らずおおくのものを必要とした。

 たとえば、底の厚い靴。

 肌――とくに足の裏が地面に触れてしまえば、そこは緑の焦土と化す。ゆえに、ふとした拍子に脱げない、かつ靴底がすり減らないものが好ましい。幸いなことに、遺品のなかには拘束具を兼ねた靴が多い。今は亡き親の用意してくれたもので、騎士さまは見合ったものを選んでくれた。

 そのほかにも、手袋や大きめのマントなども。

 肌を隠すために、危険をすこしでも減らすために、いくつもの装備を工夫した。


 そして今日ついに、私は外に出たのだった。




 大きな不安と、同等かそれ以上の期待で震えた。


 空気が吹き抜け、木々を揺らす音。

 葉の天蓋てんがいにのぞく青い空。

 厚底のブーツ越しに、硬い感触。

 どこまでも新鮮な土の匂い。


 何も言わず歩き出した騎士さまを目で追う。

 私が長年生活してきた城。おりのように私を閉じ込めつつ、安全も保証していた、私だけの領域。玄関の大扉のまえ、石畳の踊り場で、私は動けずにいた。外に出たいと願っていても、感慨深くはなるものだ。夢を抱く胸に反して、恐怖が足をとどまらせた。

 一段だけの段差。そこから先は雑草で覆われている。

 かつては石で舗装ほそうされていた道も、生命のチカラの前に砕け、土が露出したのだ。今やそこらに瓦礫がころがっていて、それを包むように植物が生い茂っている。雑草というものの生命力はすさまじいもので、砕けない岩だって割ることがある。そして、その原因は私。今ふたたび素足で触れてしまえば、どうなることか――。


「怖いのか」


 すこし進んだところで、騎士さまが振り返っていた。動けずにいる私に、感情の読めない兜を向ける。

 そうだ。怖い。はじめて水に触れるときよりも、はじめて目にするものを食べるときよりも、何倍も、何倍も。


「私、は、」

「なんだ」


 騎士さまの足元は、地面だ。

 踏みしめたいと願ってやまない、けれど怖くもある土の上だ。幼いころ、すべてを失った日以来、一度も立っていない場所だ。


「私は、歩いていいの、でしょうか」


 聞く人が聞けば笑いそうな疑問が、私の口からこぼれた。

 人の命を奪いかねないこの足で、踏みしめていいのだろうか。故郷を滅ぼしておいて、昨日までの私はよく旅に出ようと考えたものだ。

 冷えていく感情で、一歩さきの地面を見つめていると。

 すっ、と目の前に手が差し出された。手甲で覆った数本の指が、ダンスのお誘いをするかのように。

 視線を上げる。


「騎士、さま」


 何も言わず、私に手を差し出す彼がいた。

 段差の上で、おずおずと手を延ばしてしまう。

 怖い。震えが指先まで伝播する。それでも、指先は冷たい騎士さまの手をとった。


「――っ」


 ぎゅ、と目をつむった。視界が真っ暗になる。

 引かれるままに、エスコートされるままに、右足を動かした。

 段差の下に着くまでの一瞬が、とても長く感じた。

 ああ、怖い。

 いいいのか。このまま着けてしまって。大丈夫なのか。私は、


「んっ、」


 厚底を通じて、かすかな感覚。それ以上は埋もれない。さっきまでいた場所よりも柔らかく、不安定。かさりと何かの擦れる音が耳に届いた。とても新鮮で、懐かしい。

 さらに手を引かれ、肩を抱きとめられる。冷たい鎧が頬に触れた。


 ああ――ついに。


 残してきた左足も、右足に並んでいる。

 おそるおそる目をあけた。


 「……、っは、ぁ」


 吐息がもれる。

 下を見ると、私の両足は、生い茂る雑草に埋もれていた。


「なにも、な、い」

「ああ」

「立ってる」

「ああ」

「私は、外、に」

「ああ」


 くぐもった声を見上げた。

 無表情の兜が、私を見下ろしていた。かと思うと、そっと硬い身体が離れていく。

 受け止めていた肩から彼の手が離れ、騎士さまが一歩、後ろへと後退。

 私は目をぱちくりさせた。

 震える膝を意識する間もない。気づけば、自分は一人で世界に立っていた。

 足元を見て、騎士さまを見て、また足元を見る。

 踏み出しても問題はなかった。一歩を運ぶたびにまたカサリと音がするが、恐怖は薄れ、今度は自分から彼に近づいていた。


 私は、歩いていた。


「――ありがとう、ありがとうございます。ようや、く」


 騎士さまは、ぽん、とこちらの頭に手を置き。


「行こう」


 はじめて笑った気がした。

 それに影響されたのだろう。私も、自然と笑みを浮かべることができていた。

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