1章

夢を叶える契約 1

 幼き日。

 母が咲かせて見せた花がなんという名前だったのか、私は思い出せない。

 『花の魔女姫』とうたわれた彼女にとって、指先ひとつ振るうだけで花開くその魔法は、単なる戯れに過ぎなかったのだろう。

 けれど、娘の自分にとっては、この世界の奇跡にも等しい光景に見えたものだ。


 本のページに挟まっていた、枯れた一輪を手に取る。

 幼き日の私か、今は亡き母か、それともこの城に寄贈される前の持ち主か。しおり代わりに洒落しゃれた真似をしたようだ。

 今となっては、色褪せた雑草に過ぎないが。


「……ん」


 窓際の木イスに腰掛け、いつものように読書をしていた私は、ふと顔をあげた。

 城の門を叩く音を聞いた。

 この広大な城にはメイドたる者はいない。無論、私の親族も、料理人も、庭師だって。

 掃除に何日もかかかるソレを一人で行うのだから、客の出迎えもまた私の役目であった。

 今日だけ着ていたドレスを持ち上げて、私はイスを立った。



 物語における男女の出逢いは、どこまでも美しく、幻想的で夢のある瞬間へと美化されている。憧れをいだき、白馬に乗った王子様なんてものを想像する少女は数知れず。私も幼きころはそう夢見ていたこともあった。

 だが往々にして、現実における男女の出会いというものは、平凡だ。

 運命なんてものは金の卵より見つからないし、永遠ほど紙のように薄っぺらいものはない。

 死しても想いだけは続く、とのたまう本の著者も、心からそう思っているわけではないし。想いが続くのはせいぜいが指輪か絵画くらい。しかもいつかカタチをなくす。

 故郷を失った日、私は悟った。

 素晴らしい出来事があったから本に記された、というのは間違い。人が本という文字の世界で夢想してしまうほどに、人生はくそったれなのだ、と。

 静寂に包まれるムダに広い城内を歩き、階段を降りて玄関ホールを横切る。


「失敬。ミスタヴァニオ家の城というのはこちらだろうか」

「そうですが」


 重い両扉の片方をこじ開け、顔だけを覗かせると、鉄の甲冑に身を包んだ騎士さまが立っていた。

 視界確保のため、無数に穴の空いた兜。胸のアーマープレートに、肩から腕まで、それだけでなく下半身も隙間なくよろいに包んでいる。自分よりも身長があり、見下ろすように返事を待つ男が、とても新鮮だった。

 思わず足がすくんだ。

 人と対面したのは実に十年ぶり。玄関の大扉を押したのも、木々の間から差し込む光を直に浴びたのも久しかったのだ。

 だが、わざわざ練習した言葉を詰まらせたのは、それだけが理由じゃない。

 騎士さまが……お世辞にも綺麗とは言えなかったのだ。

 泥の中を這いずってきたかのように、土と千切れた雑草にまみれていた。


「あの、」


 私は言葉を失った。

 危険で鬱蒼とした森の中、最も近い村からでも歩いて四日はかかる。道なき道を進めばどうしたって汚れるし、ここだって壁面すべてにツタが覆っている。

 されど、城であることに変わりはない。

 例え住んでいる者が少女一人であっても、城として機能していなくても、城は城だ。少なくとも見た目は。そこで生まれ育った私からすれば、この騎士さまは礼節を欠いている。

 だから、言葉を失ったのも無理はない。

 私の視線を感じ取り、騎士さまは改めて自身の身を見下ろした。


「……失礼を。出直そう」


 非礼を詫びると、事もなげに踵を返す。それが常識的な判断だろう。

 ――ここが、普通の城であったなら。

 周囲は深い森で囲まれ、突然変異し「森の主か」と見まごう大きさまで成長した獣がいくらでも闊歩かっぽするこの地帯。

 ただでさえ長い道のりを休憩もなしに引き返すのは自殺行為に等しい。


「ちょちょちょ、ちょっと待ってください。え、帰るんです……か?」

「無論、そのつもりだが」

「いやいやいや、この距離をですか」

「無論、そのつもりだが」

「というか、帰ってどうするんですか。今度は替えの甲冑でも背負ってくるおつもりですか」

「無論、そのつもり――」


 私はがっしと甲冑を掴んだ。

 真っさらな本をめくっていた手が汚れたが、背に腹は変えられない。なんとしても引き留めなければならない。呼んだのは私なのだから。人なんてめったに来ない。彼を逃すわけにはいかない理由が、私にはあった。

 だが、実に十年ぶりのお客人がコレとは……少し頭が痛い。

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