ころしやさんの日常
三ノ神龍司
第1話 己の体質は深く理解すべきだ
摩天楼が建ち並び、風が吹き荒ぶ。人工的に造られた渓谷の風鳴りがその頂点に構える二人の鼓膜を震わせていた。
ビルの屋上は自然な形で人払いが為され、今はその二人だけだ。
双眼鏡を構えて遠くを見やる男とその隣には腹ばいに寝そべり、狙撃銃を構えた女性がいる。
二人は殺し屋だ。男はケベル、女はビィの名で通っている。
対面にあるビルに本日のターゲットがいる。もう少しで顔を晒すはずだ。それ以外は用心深く、まともなチャンスがないと入念な下調べで分かったことだ。
観測手を務めているケベルは静かに口を開く。
「もう少しでターゲットが到着だ。チャンスは一度きり。それも一瞬だ。ここを逃せば、二度目はないだろう」
「ええ。必ず決めるわ」
ビィがそう言って、ゆっくりと深く呼吸する。
ケベルはちらりと相棒の女性を横目で見やる。あまり表情が変わらないビィでさえ――相棒であるケベルでさえ感情が読めない――今回は緊張しているのか、額に玉の汗が浮き出ていた。
「信頼している」
「ありがとう」
ケベルが思わず口にしたその言葉に、ビィがわずかに口元をほころばせた。
――さて、しっかりと観測手としての役目を果たさなければ、とケベルは自分も集中しようとした。
それと依頼が成功であれ、失敗であれ、逃走は迅速かつ抜かりなく行わなければならない。銃の解体、階下で着替えて変装、逃走用の車に乗り込むまでに秒単位で決められている。一つでも間違い、少しでも遅くなれば、窮地に陥るだろう。
余計なことをしている暇などないのだ。
「一つ良いかしら、ケベル」
――そんな折、ビィが口を開く。
「なんだ? 手短に頼む」
「報告すべきことがあるのよ」
そう言うビィはスコープから目を逸らさない。ケベルも変わらず対岸を眺めたままだ。
「集中力というものを得る、もしくは保つためにはルーティンが必要になってくるの」
「……よくある話だな」
ルーティンとは、スポーツ選手などが集中するために、行う一定の動作のことだろう。極限の集中力を得る殺し屋とて、ルーティンを行う者がいるという。
「私も今回の難しさはよく理解していたわ。だから自分なりに集中力を得られる方法も探してみたし、試してみた」
「まあ、気持ちは分かる」
ケベルは効果があるか不明であるため、その手のことをしていないが、相棒の心境を慮れば『儀式』などと馬鹿に出来ない。顔に出ないと言ってもビィはかなり緊張していたのだろう。
「それで、私は牛乳を飲むとどうやら集中出来るようなの」
「そうなのか」
ルーティンは人それぞれで、場合によっては本人ですら分からないことがあるという。無意識にやっていることが集中する要因になることもあるようだから無理もないのだろうが。
「毎朝、牛乳を飲んでいたからでしょうね。実際好きだし」
「ルーティンは、やり過ぎると効果が薄くなると聞いたが」
「ええ、それに集中する時間も限られているから、確かめた後はあまりやらないようにしたわ。だからここに来る直前に牛乳を飲んだの」
確かに始める前に小さな牛乳パックを飲んでいたような。処理はしっかりと済ませているため、痕跡はない。
「それで聞いて欲しいのだけれど、私は日系の血筋らしいのよね」
「うん?」
いきなり話が飛んだ。どうしてここで子孫的な起源の話になるのだろうか。
「知ってる? 人種によって消化出来たり、そうでなかったり大きく変わってくるそうよ。たとえば日本人は海苔を消化出来るけど、他の国の人達はそうでなかったり」
「……ビィ? 一体――」
「それで、日本人は牛乳に含まれる乳糖を分解する酵素が少ないらしいの。だから、お腹がゴロゴロと鳴ったり、下痢になったりするらしいわ」
「…………おい、まさか…………」
ケベルの肝が一瞬で冷える。
ビィが、フッと笑った。
「お腹めっちゃ、やばいわ」
「OH……」
そう口に出すのが精一杯だ。ちなみに神には祈らない。
「なんだ……その汗は緊張からじゃない奴か」
「純度の高い脂汗よ。何度目かの波が来て、気が気じゃないわね。気が狂いそう」
「時間的にトイレは無理だぞ。次の機会とかも、ちょっと無理だ」
殺しの期限も決められており、かつ全ての要素が絡み合って自分達が無事逃走出来ること含めて今日以外はあり得ないのだ。
「ええ、分かってるわ。そして『あっ、大丈夫かも』と思ってトイレを済ませずに、出掛けた先で襲い来る、身動きが取れない便意ほど、強い後悔はないわね。改めて思い知らされているわ」
「車の運転中とかに来る奴な」
その時に限ってやたらと混んでいたり、信号に捉まったり、周りにトイレがある店がないことが多い。
その時の絶望感は計り知れない。何度も諦め、奮起を繰り返すことになるのだ。
そんな絶望を現在進行形で体感しているビィは、不適に笑った。
「でも、私もプロよ。もしもの対策はしているわ」
「それは?」
「オムツをしっかり装着済ね」
ビィは表情の変化が少ないながらも、渾身のどや顔をしていた。
「他に出来ることはなかったのか?」
狙撃手は待つ、という性質上、任務中それらは垂れ流すとは聞くけれども。
「それで心が軽くなるの。でも使わないわ。私達汚い殺し屋に尊厳なんて高尚なものはないけれど、一人の女として、決して、看過できることではないもの」
「ちなみに集中できそうか?」
「そこは抜かりなく。過去最高に集中しているわ。お腹に」
「駄目じゃないか」
ビルの方に集中して欲しいのだが。
「中々優しいわね、ケベル。今、私は愚かな自分自身を強く
「もはや末期だな。あと上手いこと言ったみたいな顔やめろ。余裕あるだろ」
なんだか相棒の感情が手に取るように分かる。こんなタイミング、シチュエーションで分かり合いたくなかったのだが。そういうイベントはもう少し、良さげなムードでやって欲しい。
「ないわよ。できるだけ話していないと意識含めて色々と落としそうなのよ」
「完全に末期だな」
もう駄目なんじゃなかろうか。
――そんな中、ターゲットをやってきたのを確認。
「……来たぞ」
「……無限に感じたわ」
やはりプロか、ビィの呼吸が瞬時に整った。
「歩速などからターゲットが目標地点に到達まで、一分弱」
「目標地点確認。風速、温度と湿度は?」
ビィに問われ、ケベルは計測機器に目をやる。
「風速2㏏、温度と湿度は――」
その情報を伝えると、ビィがわずかながら銃身をずらした。
「風速の変化には気を配ってて。一応、確認だけれどガラスは破れるわよね」
「強化ガラスだが、それを破れる威力はある。問題ない。その際の弾道の考慮は?」
「抜かりなく。体勢は?」
「横向き。ハートショットは不可。ヘッドショットを」
「オーケー」
直前だが、二人は確認を交わす。事前に何度も確認した。これは最終確認だ。信頼しているが故の問答。そしてある意味では二人のルーティンであった。
ビィの額から不思議と汗が引いて呼吸も浅くなる。
「……最後に。…………きっとこれ、反動もすごいでしょうね」
「そうだな」
「……知ってる? 私の『ビィ』ってコードネーム、ヘブライ語で『祈る』って言う意味があるのよ」
「そうか。――ターゲット目標地点、間もなく到達。……グッドラック」
「ええ、全てに」
その言葉の後に大きな銃声が鳴り響く。
「――ヘッドショット確認。ターゲット、沈黙。やったぞ」
「……えぇ、やったわ」
そう呟いたビィの目から一筋の涙が零れた。
その意味は確認するべきではないだろう。
ケベルとビィは即座に撤収を開始する。
何事も無く、順調に、全てを終えて逃げることに成功した。
ちなみに車の窓は全開だった。
ころしやさんの日常 三ノ神龍司 @minokami-ryuji89
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