stigmaNumb

鯰屋

回憶

 雨に濡れた畦道の匂いに閉じ込められていた。夏休みが始まって間もなく台風がやってきたのである。

 檻のように降り頻る五月雨をただ茫然と縁側から眺め、水色の鉛筆による斜線が絵日記の冒頭を埋めることとなった。

 蚊取り線香は湿気って火がつかず、座布団はじめじめするので敷いていない。強く風が吹いてやかましいからと、風鈴は祖母が持っていった。葉の舳先へさきにとまった蜻蛉とんぼは雨に怯んで飛べずにいる。


 俺が今まで繰り返して見知った夏は、どこにも無かった。


 そうして描き上がった日記の数ページと縁側の向こうを比べてみると、曇天も降る雨にも水色は見当たらなかった。灰色がふさわしかったのだろう。

 ごろんと畳に寝転ぶと、重そうな身体の蚊が飛んできた。鈍い動きの羽虫を柏手のように軽く叩く。手には血がついた。家の誰かが刺されていたようだ。


 連なった休日も、外に出られないならば閉じ込められているのと同じ。何度か読み終えた漫画を開き、時に狂ったように走り回ってみる。怒られて眠る。時間だけが遠く過ぎていった。

 何か夏らしいことがしたい。どうしても外へ出なくてはならない理由もないけれど、どこか焦燥の——そうめんばかり食べているのに、魚の骨か何かが喉の少し奥、胃の始まりに引っかかっている——ような心でいた。


 誰かの手本になれるような生き方をしろと祖母に勧められたので、無為の手本として眠りにつく。夕暮れごろに起きて菓子や葡萄を食って、嵐に怯む蜻蛉とんぼがいつまでつのか眺め、撫でようとした猫に逃げられた。

 そして夕飯を食べて、風呂で眠り、また夜を更かす。


 無風の中の帆にも近しい生活だったが、絵日記だけは毎日埋めるようにした。夏の終わりの夜中に白紙のページを焦って埋めていく徒労よりも、何も無い夏だったと回憶して落ち込みたくない。

 雨に濡れる蜻蛉を絵日記に収めようと庭を見たが……いなくなっている。しかしそれでよかった。毎日が灰色の斜線で済むのだから。

 


 ○



 曜日の感覚を失いつつあったある日、ジイジイと鳴く蝉の声で目を覚ました。雨が止んでいた。差し込む陽が天頂を過ぎて時間が経っている。昼を少し超えた頃のようだ。


 夜中に部屋の隅へと追いやった布団の上に膝で立ち、ずっと閉めたままでいた雨戸に手をかける。湿気を吸って重くなっていた。力を入れて少しだけ空いた隙間から細い涼風が流れ込んで布団とカーテンが膨らみ、部屋が青やかな空気に満ちていく。

 部屋の中に落ち溜まっていた俺の嘆息が洗い出され、長らく口元を覆っていた布が取り除かれた感覚にも近しくあった。呼吸するのが心地よい。


 少し乾いた土の匂いが吹き込んで、机上の絵日記のページが次々とめくられていった。

 水色の斜線、水色の斜線、水色の斜線、灰色の斜線、灰色の斜線——と、ぱらぱら開かれた末に真っ白のページに至って止まる。


 ここから先は晴れて外出もするだろう。ちゃんと風景を描かなくてはならない。自分は絵心のない人間だから、絵日記を書く瞬間だけ雨が降って欲しかった。

 しかし、嘘はついていないからといって、誤魔化すように斜線のページを描き連ねるのも気分が悪い。今日こそは何か違うものを描くべきだ。

 ひらがなだらけの日記ならば、せめて、良い絵を描かねば気が済まない。


 そこで、久々の快晴の喜びや開放感を絵にするのはどうだろうかと考えた。

 自分の性格上、部屋に吹き込んできた気持ちの良い風を黄緑色のうずまきと表現して良しとしそうだった。これでは雨の斜線と変わらない。


 なかなか頷けるアイデアを吐き出さない己の頭を抱えて、敷布団の上に寝転がった。

 目を瞑り、坊主頭をかいて膝を抱える。頬にひんやりと伝わる布団の冷たさに張り付いて離れたくなかった。

 網戸の外から風鈴の音が聞こえてくる。取り下げられた風鈴が、台風が去り退いたことによって再び鳴り出した——この情緒を絵にするのはどうか。


「水色の、半円だ」


 瞑目したまま呟いた絵日記の構想は、雨を斜線で描く域を脱していなかった。これでは駄目だ。こんな水母くらげとも月とも判らぬ絵では駄目だ。でも、これ以上どのように描けば良いのか俺は知らない。俺にはとことん絵心が無かった。


 視界の隅に入った本棚には、日焼けした昆虫図鑑と埃を被った地球儀。広く手を広げて、浅いままに投げ出す俺の生写しのようで不愉快だった。

 吐く嘆息も段々と熱を帯びてくる。やはり何かが喉の奥に引っかかっているような気がした。そっと凹凸のない喉仏に触れて撫で下ろし、何も引っ掛からないままに通り過ぎた。


「これは何なんだ……?」


 ほとんど吐息のようにこぼれた。内臓の奥から迫り上がるようなジリジリとした熱。正体がわからず、不気味な感覚である。


 振り払うように寝返りを打つと、畳の地平線に黒い列が見えた。滲んだ黒点に目を凝らす。畳の茶色が霞み、遠くの黒点群がありの群れへと変わった。


 身の丈の何倍もある細長い翅を、かさかさと運んでいる。


 目が離せなかった。胃の奥底が再び熱くなる。宿題の終わらなかった日曜の夜にも似た感覚——何かを思い出さなければならない。

 外に出なくてはならない理由があったはずだ。何かを忘れていることを、ひとつ確かに思い出した。しかし、それが何なのか判らない。背中がチクチクとむず痒い。


 この感覚はどこからやってきたのか。

 雨が止み、風が吹いて、土の匂い。ページがめくられ、風鈴の半円、日に焼けた図鑑と地球儀、蟻の列——


 運ばれていく蜻蛉とんぼの翅の縁紋stigmaが滲み、蟻たちは整列した黒点に戻った。立ち上がり、部屋の中を歩き回った。苛立ちに意味もなく拳を上下に振る。


 そもそも、この苛立ちの源流は何か。

 俺は何かを思い出そうとしている。けれども思い出せない。絵日記が上手く描けないことに苛立っているかと訊かれれば違う。

 その絵日記は誰に課されたものか、担任の先生である。担任の先生が生徒全員に向けて課した、夏休みの宿題だ。

 先生は何を話していた? 何を忘れているのか、俺だけに課せられた課題があったのではないか……


「かぶとむし」


 答えが己の口から垂れた。腹の底の熱が鎮まり、寒気へと変わっていく。

 全てを思い出した。担任が産休に入るから、その代わりに誰かが虫の世話をしてやることになっていた。そして、その誰かとは俺のことだった。



 ○



鍬形虫くわがたむしの食事のペースはゆったりとしていて経済的。対してカブトムシは極めて食欲旺盛。一日でゼリーが尽きることもあるため、多めに餌を与えておこう。長期の外出の際は、日持ちする林檎などの餌が好ましい。』


 昆虫図鑑を引っ張り出して、安息を得ようとした。結果として、その試みは失敗に終わった。

 カブトムシがどのくらい餌を食べていないかは、夏休みが始まってからの斜線のページを数えればすぐに解ることだ。虫が栄養を摂ることができない環境が数日にわたって続けばどうなるのか、学の浅い俺でも想像するのは難しくなかった。


 一度、頭まで布団を被った。

 自分がカブトムシの飼育を任された人間であること。それは教室の全員が知っている。ならば、カブトムシの死体が見つかるのは極めて、まずい。


「違う、そうじゃない」


 飢えて死にゆくカブトムシを憐れむ心や罪悪感よりも先に、教室という小さな社会においての俺の立ち位置へと目をやってしまった。学だけではない己の浅はかさに、また溜め息が漏れる。


 ひょっとすると、まだカブトムシは生きているかもしれない。生き物は時に残酷なほどに強い。同じ籠の中で生存競争が行われ、生き残っているかも知れない。しかし、飼育されているカブトムシはもとより一匹である。


 見に行く勇気は起きるはずもないが——俺のような愚か者が教室へ課題を取りに戻る。やんちゃ坊主は無邪気にカブトムシを見て帰ろうとする。籠の中のカブトムシは動かない。小さな社会で顔の広く声の大きいやんちゃ坊主はどうするか、と考える——そんなことを言っている暇はなかった。

 

 幾つかの逡巡の末、踵を潰した形のままのスニーカーを履いて駆け出した。


 黒板色の山々から風が流れ、凪いだ田んぼを揺らして、石灰色の雲が靉靆あいたいと膨らみ、震えるクヌギはあの机の色——目に映る全てが教室へと手招いているようで不気味である。


 上を向いて伸びる草花はつゆにしな垂れ、畦道の泥は飛沫と共に洗い流されていた。塩味の強い唾液が湧くまで走り続けて角を曲がると、風向きが変わり、学校へと吸い込むように背を押される。


 校門は空いている。

 みんなで植えたひまわりが全てこちらを向いていた。黄色い花弁を口のように広げ、一歩足を踏み入れた瞬間に全ての目蓋が開いたようだ。

 ひまわりに挟まれた校舎までの一本道、顔を伏せて歩いた。視線を感じる。こちらの歩調に合わせて首から上が動いているような気がした。息を止めて早足で歩く。


 引き戸を開き、自分の下駄箱へと向かう。痛いほどの静寂の中、ただ耳鳴りだけが止まない。下駄箱の前で靴を脱いだものの、上靴を持ち帰っていたから履き替えるものがない。外靴は仕舞わずに揃え、靴下のまま廊下へと踏み出す。

 足音を立てることが大罪のように感じられて、潜むように浅い呼吸を繰り返して歩いた。靴下が滑るから普段のように前へと進めない。


 ワックスの臭いが濃くなり、新品に戻ったような教室をいくつも通り過ぎた。滑る足が訳もわからず早くなっていく。

 水道の鏡の中を動く影に息が詰まり、己の姿と確認してから再び歩き出す。施錠されているかもと危惧しながら教室の扉に手をかける。が、間抜けなほど簡単に開いた。


 斜陽差す窓辺にカブトムシの入った籠はある。抜け殻の机に当たってはガタガタ音が鳴り、籠へと辿り着くまでに俺の気が狂いそうであった。

 籠には既に蟻が侵入し、解体が始まっていた。昆虫の特徴である六本の脚は明らかに足りず、片翅が欠損している。

 時折、角が上下に動くような気がするが、それは蟻が体内へと侵入しているからなのだろう。


 かちかち、という謎の音。蟻の顎の音なのか、角が動く音なのか。呆然と尽きた昆虫ゼリーを眺め——息を吸い込んだ。

 蓋を開けて蟻を手で払い、カブトムシを掴んでズボンのポケットへと入れた。元あった通りに蓋を閉めて、俺は教室から立ち去った。


 来た時よりも重く霧にも近しい茹だった空気の中を歩き、揃えた靴を履いて扉を押し開ける。


 ひまわりが全てこちらを見ていた。

 橙色に宵闇が染み出していく。儀式めいた温風が迫り、ひまわりがゆっくりと揺れた。伸びた影が秒針のように回り、太陽が動き、一斉に振り返ったのである。

 足は動かず、背中から退しさった。来たときと同じように俯く。踏みしめた土の下にまで花の根が伸びているような気がする。這い出して足首を握られるのではないか。


 跳ねる心臓を押さえて門をくぐり、視線と根の届かぬ場所まで走った。冷たい産毛がポケットの裏地を貫いて肌に当たる。少ない爪が擦れて角の輪郭が浮き出ていた。


「早く、早くどこかに……!」


 畦道を走り、小川を飛び越え、伸びていく己の影だけがいつまでも傍にいた。

 耐えきれず道を逸れてやぶに分け入った。背の高い草葉をかき分けて指の薄皮が切れていく。

 やがて見つけた樹木へと駆け寄り、根元を掘った。

 葡萄の実に似た弾力を指先に感じる。土色の仮面を被った白い物体、幼虫が埋まっていた。弱々しく起きあがろうとする前に土をかけて埋めた。


 ポケットからカブトムシを取り出し、浅い穴へと納めた。折ってしまった角もつまんで穴へと入れた。

 みんなでひまわりを植えた時のように両手で土をかけてならし、数歩下がって手の土を払った。かき分けた藪が閉じようとしているので、急いで家へと帰った。



 〜〜〜



 ずっと指先から土の臭いがしていた。風呂場で何度も手を洗ったのち、先生へと電話をかけた。 

 カブトムシは逃げ出した、と先生に伝えるためだ。


 ——本来、生き物というのは森の中にいるのが自然であって、教室の籠の中にいることは不自然なのである。我々は観察をさせてもらっている立場であり、カブトムシは自然の流れに従って帰るべき場所へ帰っただけなのだ。だから、自分を責めるようなことがあってはならない。帰ってしまったものは仕方がないのだから、またみんなで捕まえれば良いだろう。ちゃんと隠さず報告してくれたことを嬉しく思う。毎日しっかりと絵日記を描いて、お母さんお父さんの手伝いを進んでして、休み明けに元気に会いましょう。


 先生は難しい話をしていた。

 説くにあたって必要な語彙を噛み砕いて、浅学な俺にでも解るように、難しい話をしていた。しかし、何を言っているのか俺には解らなかった。


 開いた雨戸から流れるわずかな涼風が蒸れた空気に筋となり、風鈴を揺らして還っていく。時折、白紙のままの絵日記をめくっていった。

 全てが灰色の斜線で済むだろうから。もう一度、台風がやってきたのなら。


 眠ろうと目を瞑り、暑さに何度も寝返りを打つ。

 畳の地平線の奥——薄闇の中に黒い列が見えた。滲んだ黒点に目を凝らす。畳の茶色が霞み、遠くの黒点群がありの群れへと変わった。


 身の丈の何倍もある茶色く丸い前翅を、かさかさと運んでいた。

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