第17話 遊びの専門家
十四週の十日。朝早く、フリッツがマルクを連れてやって来た。
マルクは開口一番、
「この間はすみませんでした! 助けてくれてありがとうございました!」
と、寝癖だらけの茶色い頭を勢いよく振り下げた。
「うん。喧嘩はいいけど、家出先のことはよく考えるようにね」
「はーい」
「無事で良かったよ、マルク」
「ひひっ、まぁね先生、俺、運いいから」
マルクはにっかり笑って、彼らしい八重歯を覗かせた。直後、フリッツに「調子乗ってんじゃねぇ、馬鹿!」と後頭部をはたかれる。唇を尖らせて文句を垂れるマルクを押しのけて、フリッツは木箱を掲げてみせた。
「本当に世話んなりました、先生。これ、大したもんじゃねぇけど、お礼です」
「ありがとう。おや、服まで入れてくれたのか」
「お弟子さんの服、あの汚れじゃあきっと駄目になったろうって、うちんのがね」
「さすがおかみさん、目敏いね。ありがたい」
果物や野菜、日持ちしそうな焼き菓子なんかはドゥイリオのために選んでくれたのだろう。底に詰められたちょっと高級な缶詰は、いつもと同じお礼だ。
機嫌を直したマルクがひょいと首を突っ込んできた。
「なぁ先生、その、先生の弟子ってやつは?」
「裏で洗濯してると思うけど」
「ふぅん。ちょっといってくる」
彼はパッと駆け出すと、玄関を開けっぱなしにして行ってしまった。
「あっ、こら、ちゃんと閉めてけって――悪いね先生、調子ばっかよくって」
「いや、元気そうで何よりだ」
年をまたいだ数を年齢にするから、マルクもドゥイリオも今年でちょうど十五歳。といっても、ドゥイリオが生まれたのは二十三週目“雪雲”の頃だったというから、二週目生まれのマルクの方が少しだけお兄さんだ。けれど、マルクの振る舞いが年相応だとしたら、ドゥイリオはちょっと落ち着きすぎているように思えた。
「マルクに怪我はなかったんだね?」
「ええ、怪我は。ただ、あれでも一昨日まで熱がひどくて、寝込んでたんですよ」
「そうだったんだ」
「毒草に長く触ってたのが悪かったみたいで……ま、あんだけ元気になりゃもう心配ないって、お医者のお墨付きはいただきましたんで」
「そう。大事に至らなくて良かった」
フリッツは歯を見せて笑い、大きく頷いた。マルクとまったく同じ笑顔だった。
しばらくして、ばたばたばたと騒々しく駆けてくる音がしたと思ったら、マルクがドゥイリオを引きずるようにしながら飛び込んできた。
「なぁなぁなぁなぁ、先生! コイツ今日一日貸して!」
「ん? 貸す、って?」
「町ん中全然行ったことないって言うから、俺が案内してやる!」
ドゥイリオは「いや、あの、俺はいいって……」と言いながら、僕とマルクを交互にちらちらと見遣った。洗濯の途中だったらしく、腕まくりした手には石鹸の泡が付いていて、水もぽたぽたと落ちている。
僕は慎重に彼のことを窺った。嫌がっているというよりは持て余しているように見えたけれど、どうなのだろう。
「ドゥイリオが嫌じゃなければ、行っておいで」
「え、あの」
「よっしゃっ、じゃあ行こうぜ! な!」
マルクの押しの強さに気圧されたようにしながら、ドゥイリオは僕を見上げた。
「でもあの、師匠、お昼とか」
「気にしなくていいよ。適当に食べるから」
「でも……」
「行きたくない?」
「いえ、そういうわけではないんですけど」
ドゥイリオははっきりと答えておきながら、やっぱり戸惑っているように、濡れた手をズボンへこすりつけた。もしかしたら、理由もなく遊びに行くという感覚がしっくりこないのかもしれない。
僕は財布から銀貨と銅貨を適当に掴み、彼の手に握らせた。
「じゃあ、ひとつお使いを頼んでもいいかな。この間行った料理屋さん、覚えてる?」
「はい、覚えてます」
「帰りがけにそこで夕飯を買ってきて。僕ら二人だと、銅貨五枚か、六枚分くらいかな」
ドゥイリオはうろんげに手の中の硬貨を眺めた。
「六枚以上ありますけど」
「それはお使いのお駄賃ってことで。好きに使っておいで」
「わぁ! やっりぃ!」
歓声とともに跳び上がったのはマルクだった。
「さっすが先生、気前がいいな! それだけあったらリュティーフェン食って、プレッツェル食って、あっ、アルムスターの店が新しい味のボンボンを出したって聞いたぜ、そこにも行こう!」
「食べてばっかりだね」
「おっと、分かってないなぁ先生。美味しい店ってあちこちに散らばっててな、次の店を目指して歩いている内にお腹が空いてくるし、食べ歩いてけば気付いたら町を一周してるって寸法になってんだよ!」
「おや、そうだったんだ。マルク特製のツアーだな」
「そうそう、そういうこと! そうと決まったら早く出ないと回り切れないぞ! 行こうぜ!」
マルクは遠慮なくドゥイリオと肩を組んだ。ドゥイリオの方が少しだけ背が低くて、半分引きずられるような形になりながら、しかし彼は断固として言った。
「待った、洗濯がまだ終わってない!」
「えー、洗濯なんていーじゃん」
「よくない。それは駄目」
「じゃあ急げよ」
「なら手伝って。ほら」
今度は逆にドゥイリオがマルクの腕を引っ張って、家を出ていった。「ドア閉めて」とドゥイリオの声。それで玄関がぱたんと閉まる。ちょっとした人使いの荒さが意外なような、似合うような、不思議な感じがした。
「なんだか足して二で割りてぇなぁ」
「あはは、そうだね」
フリッツの感想に、僕は笑って同意した。
日が落ちる少し前にドゥイリオは帰ってきた。フリッツが手綱を握る荷馬車から身軽に飛び降りた彼は、この一日でだいぶ日に焼けたように見えた。
「じゃあな、ドゥーイ! また遊ぼうぜ!」
マルクが荷馬車の上で飛び跳ねながら、ぶんぶんと手を振る。
「うん! またな!」
ドゥイリオも手を振り返して、マルクたちが山道の向こうに見えなくなるまで見送っていた。それから振り返って、僕と窓越しに目が合うと、はにかんだようにちょっとうつむいて足早に入ってきた。
「ただいま戻りました、師匠」
「おかえり。楽しかった?」
「はい!」
彼は満面の笑みを浮かべて即答した。そして夕飯の支度をする傍ら、どんなことがあったのか全部話してくれた。それはさながら汲んでも尽きぬ湧き水のように、キラキラと輝きながら流れ出てきて、聞いている僕の方まで潤うような気分になった。
「最初にベルタさんが小さなお財布をくださったんです。これなんですけど、あ、使わなかったお金はお返しします」
「いや、いいよ。また遊びに行く時のために取っておきな」
「いいんですか? ありがとうございます! それで、それからリュティーフェンを食べたんですけど、それがすごい美味しくって――」
彼の話は尽きなくて、皿の上が空になってもまだ続いていた。
ボンボンが口の中でパチパチと弾けて驚いたこと。マルクの友達と一緒に陣取りゲームをして全勝したこと。流しの吟遊詩人の歌を聞いたこと。料理屋のおじさんにレシピを教えてもらったこと。他にも、たくさん。
すべて、当事者以外からすれば些細なことにしか聞こえない話だった。なのに、それを聞いているのがすごく楽しくて、底抜けに嬉しいのである。これまでに味わったことのない温度が、心の中をじんわりと満たしていた。
話が一段落したところで、ふとテーブルの上に目を落としたドゥイリオが、はたと唇を引き結んだ。
「すみません、俺、話し過ぎました」
「そんなことないよ。楽しかったなら本当に良かった。君から話が聞けて、僕まで楽しかったし」
ドゥイリオは恥じ入るようにうつむいて、「コーヒー淹れてきますね」と立ち上がった。
いつもより時間がかかったのは、自分を落ち着けるためだったのだろう。湯気を上げるマグカップを持って戻ってきたドゥイリオは、すっかりいつも通りに、ちょっと冷たく見えるぐらいの落ち着き払った表情をしていた。“落ち着いた”を通り越して、“落ち込んでいる”ようにも見えたぐらいである。
「どうぞ」
「ありがとう」
するすると食器を回収して、また水場に戻っていく。
コーヒーはいつもの味だった。飲みやすい温度で、その苦味は鈍った舌にも届く。もしかしたら、わざわざ濃く淹れているのかもしれない。それぐらいのことをしてくれる子だ。しっかりしていて、気遣いが出来て――
僕はふと振り返った。いつもなら食器を洗う音が聞こえてくるのに、まったく聞こえてこなかったからだ。見ると、ドゥイリオは洗い場に両手をついて、じっと固まっていた。細い背中はなにか緊張したように張り詰めていて、頭は見えなくなるほど深く深くうつむいている。
どこか具合でも悪いのだろうか。
(そういえばマルクも寝込んだって言ってたな……)
僕は慌ててマグカップを置いて近寄った。
「どうした? 大丈夫?」
ドゥイリオは声をかけられて初めて気が付いたように、びくりと肩を震わせて顔を上げた。
「はいっ! あの、すみません大丈夫です!」
目が宙を泳いで、僕とは一瞬も合うことなく食器の方へ戻った。
「ちょっと……疲れた、みたいで、ぼーっとしてました」
「片付けはやっておくから、休んで」
「いえ、大丈夫です。本当です。すみません」
そう言うが早いか水に手を突っ込んで、猛烈な勢いで洗い始める。こうなると彼はひどく頑なだ。僕は諦めてテーブルに戻る。せめて何か起きた時にすぐ対応できるように、と思って、さりげなく背中を見守ることにした。
リズムを取り戻した彼はひと時も休まず食器を洗い上げた。
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