第16話 逆位置のコーヒー


 それから僕はずっと、おかみさんがハンカチに顔を埋めながら「ごめんなさい、先生。ごめんなさい、お弟子さんを巻き込んでしまって。ごめんなさい……」と呟くのを聞き続けた。「大丈夫、平気だよ、心配はいらない」と返す自分の声が、自分でもそうと分かるほど白々しくて嫌になった。

 ああ、本当に嫌になる。

 思えばいつだって、占術師はこういう役回りなのだった。言うだけ言って、あとは何もしない。何も出来ない。ただ待つだけ。待って、待って、この足元からじわじわと溶かされていくような時間を耐え凌いで、それで――


『陛下はご無事だ。……だが、王女様のお命が奪われた』


 パキンッ、とテーブルの上で不吉な音が鳴った。びくりとしてそちらを見る。

 木製のカードが割れていた。すべて。カードは十五枚で一つであり、替えは利かない。十五枚はすべて同じ材料から作られていて、魔術的にもリンクしているのだ。だから、一つでも破損すると同時にすべてが壊れることになる。

 すぅっと血の気が引いていった。


「何かあったんだ」

「何か? 何かって」

「分からない。分からないけど、でも……」


 ドゥイリオに預けたカードが壊れたのだ。それはつまり、彼にそれだけの危険が迫ったということである。

 僕は耐え切れず顔を手で覆って、膝に突っ伏した。どうしよう、彼が戻ってこなかったら。僕の占いはまた人を殺したことになる。それも、未来ある子どもを。かつての被害者を! 彼は僕の占いに二度大切なものを奪われることになるのだ。そうなったら僕は、僕は――これ以上、どうすればいい? なぜ僕はさっき未来を見なかった? 暴走を抑える薬がなくたって、見ることは出来たのに。その後死ぬまで暴走が止まらないというだけで、そんなこと彼の命が失われることに比べたらとんでもなく些細なことなのに!


「やっぱり、僕が行けばよかった……」


 そして犠牲者になってくれば良かったのだ。そうすればすべてが丸く収まったのに。


「先生、大丈夫だよ。大丈夫。先生のお弟子さんは、先生を置いていくような子じゃないよ」


 おかみさんの慰めが白々しく、けれどいやに優しく聞こえた。


「本当に良い子だもの。先生のために、孤児院から薬をくすねてくるような、良い子なんだから。大丈夫さ。絶対に帰ってくるよ」

「……薬?」

「ほら、あの子が熱を出した時があっただろう? その時にね、小さな瓶を持っててさ、何かと思ったら孤児院からこっそり持ってきたって。先生のお体に悪いところがあるって、先に聞いてたんだってさ。それをこっそり、どうにかしようって……先生のために……本当にいじらしいこと」


 そんなことを、今まで? 僕は驚きのあまり目を落としそうになった。全然気が付かなかった。

 おかみさんは「恥ずかしいから秘密にしてくれって言われてたのに、言っちゃった。秘密よ、先生」と弱々しく笑った。


「だからね、大丈夫。みんな戻ってくる。先生の占いは、そう言ったんだろう?」

「……うん」

「あたしはそれを信じてるからね。大丈夫」

「でも、占いは所詮占いだ。外れることもある」

「そうだろうとも」

「外れたら、どうする? 外れて、みんな戻ってこなかったら」

「やだよぅ先生、そんな縁起でもない!」


 おかみさんの手がひゅっと空を横切った。悪いものを断ち切るみたいに。

 それから、こみあげるものを抑えるように頬を引き攣らせながら、気丈に言った。


「そんときは、運命だったってことだろうね。やれることみーんなやって、それでも駄目だったなら、それはもう“そうなる”ってさ、決まってたんだろうよ。もちろん、諦められることじゃないけどさ……いくら先生だって、神様の腹の中は覗けないだろう?」


 神様の腹の中。その表現がなんだか妙にしっくりときた。人の腹の中だって見通せないのだ、いわんや神様をや。それは占いがどうにかしてくれるものではない。


「待つしかない、か」


 分かり切ったことを呟いて、僕は両手を固く組み合わせた。こうべを垂れる。ろくに唱えたこともない祈りの文句を、胸の内で何度も繰り返す。待つしかないのだ。僕には他に出来ることなど、何一つとして無いのだから。



 ガクンッ、と頭が落ちて、飛びかけた意識が戻ってきた。ふと見上げると、天窓の向こうは白んできている。もうこんな時間になったのか。おかみさんはソファの背に突っ伏して眠っていた。


(みんなはどうなっただろう……)


 朦朧とする頭を片手で掻き撫でる。髪を引っ掻くようにすると、大して力も入れていないのに抜けた髪の毛が四、五本、指に絡まっていた。

 テーブルの上には真っ二つになったカードが散らばっている。朝の日差しに照らされると、それはことさら遺骸のように見えた。

 片付けてしまおう、と重たい腰を上げた、その時だった。

 ドンドンドン、と扉を叩く音。

 心臓が跳ねて、僕の足をそちらへ向かわせた。ドアノブに飛び付く。開け放つ。


「師匠」

「ドゥイリオ」


 彼の顔は泥だらけだった。けれど朝日の中、その表情は晴れ晴れとしている。


「ただいま戻りました。フリッツさんもマルクも無事で」


 す、と言うのを僕は耳元で聞いた。それから彼の戸惑ったような声が「師匠、服が、服が汚れます! 沼地で転んだから、泥が……師匠!」と言い募るのを聞いた。それらすべてが彼の命を証明していた。彼の灯りが、まだ消えることなく、温かく灯っていることを示していた。その火にあぶられるようにして、僕の目頭は柔らかな熱をもった。


「すまねぇなぁ、先生。騒がせちまって」

「いや、いいんだ」


 僕は意識的に瞬きをしながら、ドゥイリオを放した。


「マルクも無事だね?」

「おうよ。ったく、本当に人騒がせな小僧で……」


 フリッツが頭を下げる。彼の背中にはマルクが乗っていて、泥まみれだが安らかな寝息を立てていた。

 中に招き入れると、飛び起きたおかみさんが悲鳴のような歓声を上げて、フリッツを抱き締めて、次の瞬間「やだっ、くっさいわね!」と怒鳴りつけた。

 それから、おかみさんは泥だらけになるにも構わずドゥイリオをしっかりと抱き締めて、頭を撫でて、何度も何度もお礼を言った。フリッツは愛おしむようにマルクを背負い直して、今度お礼の品を持ってくると約束した。

 そうして三人は僕の家を後にした。白く照らされた山道の向こうに三人の姿が消える。ようやくこの長い夜が明けるようだった。


「あの、師匠」


 振り返ると、ドゥイリオが申し訳なさそうな顔をして僕を見上げていた。彼はズボンのポケットから手を出して、真っ二つに切り裂かれたカードを差し出した。


「すみません。お預かりしたカード、魔物に襲われた時に壊されてしまって……」


 そう言われて改めて見ると、彼の服にはちょうど胸ポケットの辺りから右脇腹へ向かって斜めの亀裂が入っていた。そのことにハッとして僕は膝をつき、彼の肩を掴んだ。


「君に、怪我は?」

「いえ、ありません。けどカードが」

「そんなのどうでもいいよ!」


 思わず出てしまった大声に、ドゥイリオはびくりと身を引いた。


「そんなこと、どうだっていいんだ、本当に」


 気を抜くと倒れてしまいそうだった。ドゥイリオの肩に負担を掛けていることが分かったけれど、そこを離すと本当にくずおれるという確信があった。心臓が変な音で脈打っていた。


「はぁ……良かった……本当に良かった。君に何かあったらどうしようかと思った」

「そんな大げさな」

「大げさなんかじゃないよ。カードは替えが利くけれど、君の命はただ一つしかない、大切なものなんだから」

「大、切?」

「そうだよ。大切だ。誰の命だってそうだけどね。みんな等しく大切だから、簡単に失われてはいけないし、奪うなんてもってのほかだ」


 言い終えてから自分があまりに厚顔無恥であることに気が付いて、「僕が言えたことじゃないけどね」と慌てて付け足した。本当に、僕が言えることではないのだ。

 ドゥイリオの手が泥だらけの服の裾をぎゅっと掴んだ。今にも泣きそうな顔で、重たげに口を開く。


「あの、師匠」

「うん」

「奪われたらどうすればいいですか」


 心臓を冷たい針に貫かれたような感じがした。


「奪われたなら奪い返せ、と言った人がいます。それは、正しいことですか」

「……難しい質問だね」


 分からない、と言うのは簡単なことだった。そんなこと誰にも分からないのだと。そう言って終わらせてしまいたい、という気持ちすら湧いて出てきた。

 あるいは大人らしく“正しくない”と断言すべきだろうか。よく聞く言説のように、復讐は何も生まないのだと、悲劇は連鎖するものだからどこかで断ち切らなくてはならないのだと、はっきり言った方が彼のためになるのかもしれない。けれどそれは、奪われた側である彼に一方的な我慢を強いる言葉である。

 迷った挙句に、僕は逃げ出した。


「少し、考える時間を貰ってもいい? 必ず答えるから」


 ドゥイリオはわずかに頷いた。


 風呂場に行って「今日だけ特別だよ」と魔法で水を出す。魔力で水を生成するのはわりと疲れるからあまりやりたくないのだけれど、今のドゥイリオに川まで行ってこいなんて言う気にはなれなかった。

 沼地の泥は粘性が高く、まったく乾いていなかった。しかも泥から滲み出た紫色の液体が染みになっている。


「その服はもう駄目だね。捨ててしまいな」

「はい。あ、でも、師匠のは洗えば落ちると思うので、あとで置いておいてください」

「うん、分かった」


 出ていこうとした時にふと見ると、彼の足首の辺りがかぶれたように真っ赤になっていることに気が付いた。僕は慌てて指差した。


「ドゥイリオ、そこ、触っちゃ駄目だよ」

「え?」

「タボルティコっていう毒草が当たったんだね。あとで薬を塗ろう」

「タボ……?」

「そう。日の射さないところに育つ特殊な毒草だ。触っただけでかぶれるし、飲み込んだら即死する。二十一週目くらいに実をつけるんだけど、それがコーヒー豆によく似ていてね。間違って挽こうものならそれは人を殺すコーヒーになるから、“逆位置のコーヒー”って呼ばれたとかいうエピソードもあるくらいだ。元々コーヒーは薬用だったからね。その反対という意味で」

「そうなんですね」

「うん。だから、痒いと思うけれど我慢するんだよ」

「はい」


 風呂場の戸を閉める。

 僕は自室に戻って着替えた。洗濯物は洗濯カゴに入れておいて、デスクに座る。さっきの占いの結果をまとめなければ。それに割れたカードの片付けも。やることはたくさんあるが、良い結果の後処理は苦にならない。

 ふいに咳をすると、喉の奥に血の味を感じたような気がした。

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