第23話 兄弟子と弟弟子
――いつの記憶か、分からない。
「お前らは正反対だな」
真っ白い髪と髭。整えれば神様のような威光を纏うのに、師匠はいつも浮浪者のようにボサボサにしている。
彼は僕とバルタザールを指して何度も言った。
「正反対だ。何もかも。生まれも育ちも考え方も、得意不得意も」
言われなくても分かってる。と、反発するように思っていたことを、師匠は見透かしていたのだろう。
「だが、その差は優劣じゃない。お前らは対等だ。見てる方向が真逆なだけなんだ。それをよく理解しておけ」
右手に僕の頭を、左手にバルタザールの頭を収め、髭を揺らして笑う。
「間違ってもいがみ合うなよ。俺は、弟子が殺し合うところなんて見たくないからな」
師匠はなんとなく予感していたに違いない。
バルタザールは不服そうにしながらうつむいて、僕の方などちらりとも見なかった――
夜の病院でふと目を覚ます。
すぐ傍らに人の気配があった。周囲には魔力が霧のように立ち込めている。沼地のような重たい濃霧によって、外界と完全に隔絶されているのが感じ取れた。
「あなたがこんなに生き汚い人だとは思いませんでした、ジークムント」
姿は闇に沈んでいたが、声と話し方で分かる。
僕は平静を装って言った。
「久しぶりだね、バルタザール」
「呑気なご挨拶をどうもありがとうございます」
彼は相変わらず、抑揚のない淡々とした口調をしていた。声も十年前とまったく変わっていなくて、氷の下を流れる川のような鋭い冷たさを持っている。
「まさか懐にカードを隠し持っていたなんて。
「はは。まさか」
偶然だよ、と僕は呟いた。
あの時ドゥイリオの短剣は、懐に入れてあったカードの箱の隅に当たって、僕にはほとんど刺さっていなかったのだ。痛みなど無いわけだった。倒れたのは単純に、遠出して疲れただけである。ちょうどいいからと病院に放り込まれて、そのまま療養する羽目になったのだが。
こちらにとっても都合が良かった。
「来ると思っていたよ。君の手駒はもう無いけど、僕にとどめを刺さずに終わりはしないだろう、と」
「予想していたわりには警戒が薄いですね。一人二人の護衛は殺すつもりで来たのですが」
「だから警戒しなかったんだろ」
「……わざわざ、そうした、と?」
バルタザールの声音に若干不満の色が滲んだ。分かりやすいことだ。
それから彼は鼻でせせら笑った。
「殊勝なことで。自らを囮にしたつもりでしょうが、無駄ですよ。私の結界を破れる者など今の騎士団にはいません」
「それはどうだろうね。汚い魔力は脆いし、君の精神は弱いから」
「その虚勢がいつまでもつか、見せていただきましょう」
僕は大きく息を吸った。闇に侵食されたような重苦しい空気が入ってきて、内臓が重たくなる。もしかしたら何か仕掛けられているのかもしれない。けれど今さら、そんなことはどうでもよかった。
ここですべてを絶つのだ。
「聞きたいことがたくさんありすぎて、どこから聞いたらいいのか分からないんだけど」
「どこからでもどうぞ」
「君は、師匠を殺したのか?」
沈黙。否定できない時、彼は黙り込む癖があった。
腹の底がぐらぐらと煮えたぎる。
「どうして? 君は師匠に心酔していただろう。君の名字だって師匠のものだ。あんなによくしてもらっていて、なのにどうして」
「どうして、などと、あなたが聞きますか」
私から師匠を奪った張本人が。
その言葉が終わるより早く、僕の喉に何か冷たいものが掛かった。バルタザールの手だ。喉仏にぐっと圧力がかかって、僕は息を詰まらせる。生存本能が彼の手を引き剥がそうとしたが、まったく無駄だった。
目の前に白い光がチカチカし始めた時、ふと喉が解放された。
「けほっ、げほっ、ごほっ……ん、ぐ」
僕は咳き込みながら彼に背を向けた。が、髪を掴まれて無理やり上向かされる。
闇の中から、声。
「あなたが来さえしなければ、私はすべてを手に入れていたんですよ。すべてに恵まれているあなたが、私が行きたくても行けなかった学校をあっさり捨てて、師匠に無理やり弟子入りしてきて……それですべてを奪っていった!」
「っ!」
いくらベッドの上だといっても、思い切り叩きつけられたら相応に痛い。空気の足りていない頭がぐわんと歪んだ。
「占術師長の座を、師匠は私にくださらなかった……あなたを追い出してほしいという願いも、私だけに特別な授業をしてほしいという望みも、何も!」
「それが、君の望んだ、“特別”か」
「ええ、そうです。結局私には何も与えられませんでしたが」
バルタザールのしゃべり方は脈絡なく乱高下した。周囲の黒い霧が不安定にうごめく。
「それに引き換え、あなたは。コーヒーなんてものを要求して。それのために師匠はコーヒーの淹れ方を学ばれたんですよ。――そんなどうでもいいことのために! 師匠の時間を浪費させて! ――よくも平然としていられますね。忌々しい」
元通り静まり返った闇の霧の中で、彼が薄く笑う。見えないけれど気配ではっきりと分かった。
「だから、お命をいただきました。私だけ、特別に」
「……理解できない」
「しなくて結構。されたくもありません」
それでは話にならない。けれど食い下がる気力がないのは僕も同じだった。
「タボルティコの実は天日にさらすと毒性が弱まるのです。けれどその毒は完全には消えず、摂取すれば体内へ蓄積されていき、少しずつ内臓を壊していきます。この事実は誰にも知られていませんからね、医者に見せても分かりません。ゆっくり、ゆっくり飲ませれば、周りからはただの老衰のように映る。――あなたも大人しくしていれば、穏やかに死ねたのに」
「やっぱり、ドゥイリオに接触したのも君なんだな」
「ええ、もう少し役立つと思ったのですが」
その言い草に僕はカッとなった。
「役立つ?! 君は彼を何だと思っているんだ! あんなに彼を追い詰めて、傷付けて……自分が何をしたのか分かっているのかっ!」
「何を言っているんです? 彼を苦しめるそもそもの原因を作ったのはあなたでしょう」
「っ……」
バルタザールは僕の目を覗き込むようにした。ようやく彼の顔が見えた。それは記憶の中にある顔よりも、一回り細くやつれていた。濁った青色の瞳が弧を描く。悪魔の首を取ったような微笑み。
「いかがでしたか? 許されるような気分になれましたか? 彼に尽くすことで、過去の罪を洗い流せるような夢を一瞬でも味わえましたか?」
「……」
「すべてが判明した時、どんな気分でしたか? あなたが好んで飲んでいたコーヒー、彼が一杯ずつ丁寧に淹れていたコーヒー、あれに毒が入っていると知った時、どう思いましたか? 絶望しましたか? ――理解できましたか? 他人に人生を狂わされる苦しみを!」
「理解されたいのかされたくないのか、どっちなんだ、君は?」
小鼻の辺りが痙攣するようにピクリと動いた。
「脱獄を手伝ったのは、騎士団を潰すためだろ。警備責任を問い、権力を削いで、貴族の私兵団が騎士団に取って代わるために。僕を殺すのも半分はそのため、騎士団の解体を邪魔されないためだった」
「……」
「レッフラー公の指示だったんだよな」
「……」
「でも、レッフラー公は君を見捨てた」
「っ、黙りなさい」
「君は誰にも助けてもらえない。君を助ける人間なんか一人もいない」
「黙れ!」
また首を掴まれそうになったが、ギリギリのところで防ぐ。手首にバルタザールの爪が食い込んだ。筋力は劣っているけれどここで黙るわけにはいかない。咳は無理やり抑え込み、猛り狂う青色に向かって言う。
「どうしてドゥイリオを巻き込んだ?! 最初からこうやって、君が、直接、僕を殺しにくればよかっただろ! この臆病者!」
「違う、私は――」
「自分の手を汚す度胸もない君が、ドゥイリオの光を踏みにじるな!」
「違う! 黙れっ!」
闇がぐらりと揺らいで、どこかからみしりと軋むような音がした。魔力が歪み、悲鳴を上げている。
もう少し。だが僕の腕がもつかどうか。皮膚が破けて血が頬に落ちた。
「なるほど、君とドゥイリオは確かによく似ている。君だって彼と自分を重ね合わせていたんだろ? お互い孤児で、僕に人生を狂わされた者同士だ。君を理解し、仲間になってくれると思ったんじゃないか?」
「違う。あれはただの手駒だ。貴様を殺すためだけの」
「だろうね。本気で仲間になれると思っていたなら、洗脳なんかするはずがない」
バルタザールはドゥイリオを信頼しなかった。彼を見出しておきながら、疑った。あるいはどこかで直感していたのかもしれない。彼の灯りの美しさを。
「本当にひねくれているな、君は」
理解されたいのに、されたくない。
仲間にしたいのに、したくない。
思えば昔からそうだった。彼はいつだって僕たちの作る輪の少しだけ外側にいて、冷たい視線を向けてきた。僕は、どうして不快になるのにわざわざ目に入る位置にいるのだろう、といつも不思議に思っていたのだ。入りたければ入ればいい。見たくないなら見なければいい。どちらを選んでも、それを咎める人などいなかったのに。
「師匠に言われなかったか? 良くも悪くも正直者であれ、と」
言った瞬間、闇が大きく揺らいで掻き消えた。
顔中を怒りに染めたバルタザールが吠える。
「貴様が師を語るなっ!」
ぐい、と腕を引かれ、ベッドから引きずり落とされた。落ちた衝撃で視界が一瞬真っ白になり、咳が飛び出て止まらなくなる。反射的に口元を押さえようとした手が動かなかった。肩を膝で押さえ込まれている。
コルクの栓を抜く小さな音が聞こえた。
口に指を捻じ込まれる。涙で滲んだ視界に、ガラスの小瓶と、その三分の一ほどを満たす茶色い粉が映った。
そして、
「――できるかぎり――」
バルタザールは何かを言ったらしかった。
だがその言葉は、飛び込んできた騎士たちの怒号に押し流されて、まったく聞き取れなかった。
すでに夜は明けていた。兄弟子は朝日から遠ざけられるように、手荒に拘束されて引きずられていく。僕は床に横たわったまま、彼の姿を見送った。
白々しい朝日に照らされると、僕の感情はことさら死骸のようだった。
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