第22話 真面目な手駒

 最後の記述があるページに手をかざす。


(簡易的なことしかできないけれど……)


 集中する。このところ体力の低下と一緒に、魔力も弱まってきているのを感じていた。きちんと集中してかき集めて、それでようやく発動させる。


「《染み込んだ偽りは淀みとなれ、真の心のみ上辺に残れ》」


 文字列がふわりと紙から離れ、ふと形を崩した。液体にまで戻ってから別の形に変わる。そして再び紙面に。

 定着させたにもかかわらず、数文字がまだ丸く滲んでいた。


『俺は師匠を殺せない。殺したくない。だからこの場を去らなくては。罪を償うんだ』


 元に戻したはずの文字はまたすぐ形を崩して、呪いの言葉に置き換わった。クヴァの革は精神に異常をきたす魔法と相性がいい。ノートが魔法を強化しているのだろう。

 僕は顔を手で覆って、背もたれに体を預けた。危うく新しい滲みを作り出してしまうところだったのだ。

 改竄されている。誰かが改竄の魔法を仕込んだノートをドゥイリオに渡したのだ。おそらく、僕を殺す決意を鈍らせないために。きっと“あの人”とやらがそうしたのだろう。ここまで強力で精巧な魔法を仕込める人間は限られてくる。きちんと魔力を分析してもらえば、誰がこんなことをしたのか分かるはず。

 目を手のひらで強く押さえる。眼球が潰れるのではないかと思うくらい、強く。いっそ潰してしまいたいくらいだった。


「ごめん、ドゥイリオ」


 これは、洗脳だ。

 全然気が付かなかった。書いた記憶のない文章が自分の筆跡で綴られ、書いたはずの文章が消えていることに、彼は恐怖したことだろう。恨みと憎しみを抱えたまま僕の近くにいて、身を焦がすような思いをしていたのだろう。そんなこと何も考えずに、思いもせずに、僕は今まで何をしていた?!

 己の鈍さに溜め息も出ない。心底嫌になって、僕は深くうつむいた。


「……毒を持たせたのも、“あの人”か?」


 齟齬がある。ドゥイリオは僕の味覚と嗅覚のことを“カーミラから聞いた”と言った。けれど商店のおかみさんは“ここへ来る前に僕の体が悪いことを知って、孤児院から薬を持ってきた”と言った。

 噛み合わないのは、ドゥイリオが嘘をついていたから?


「ここへ来る前に“あの人”から僕の体のことを聞いて、毒とノートを貰った、としたら話が通るんだよな」


 そうすると“あの人”も僕を殺したい人間だということになる。

 僕を殺したい人間なんかたくさんいるだろう。けれどその中で、こんな貴重なノートを用意できて、改竄の魔法を仕込めて、毒を用意できて――僕の体の都合を知っている人。ドゥイリオのコーヒーに感じていたあの苦味・・が毒の味だとしたら、味覚がほとんどないということを知らなければ盛れなかったはずだ。

 僕がコーヒーを常飲していることを知っている人。

 僕に恨みがある人。


師匠が・・・コーヒーを淹れたのではなく、師匠の師匠が・・・・・・、淹れてくれたんですか』


 不意に、確認を取るような問いかけを思い出した。あの時は取り立てて引っ掛かることのなかった問いが、今になって脳に刺さる。


「ドゥイリオは、僕が師匠にコーヒーを淹れていたと思っていた、ってことか? そう思うってことは、事前に誰かからそう聞いていたっていうことで……そういう話が出来るのは……」


 条件は絞り切った。もう一人しか残っていない。

 今もまだ捕まっていないという彼が、ドゥイリオを脅かしていたのだとしたら。


(本当に、何を考えているんだ……バルタザール……っ!)


 僕はデスクに手のひらを叩きつけ、憤然と立ち上がった。日記帳の分析を騎士団に頼み、それから占うのだ。同じ一門の弟子として、尻拭いをしなければいけないだろう。それに、彼の心に傷を付けた奴を許してはおけない。改竄と洗脳は犯罪だ。必ず償わせなくては。

 そんなことをしても彼が戻ってこないことは分かっている。けれど、必ず。


(責任を取る、って、どうやって……?)


 頭をよぎった最悪の展開は見ないふりをした。鞄に日記帳を入れて、懐にカードの箱を放り込む。

 家を飛び出そうと玄関を開けたら、ちょうどそこにカーミラが立っていた。


「あら、どこか行くの?」

「ちょうど良かった、カーミラ。急いで王都へ行きたいんだ。馬を貸してくれ」

「貸すのはいいけれど、あなた乗れないでしょ」

「うん。だから、君ごと欲しい」


 カーミラは一瞬押し黙ったが、すぐに「分かったわ、私ごと・・・、ね」と呟くと踵を返した。


「急ぎなんでしょう。ワケは移動しながら聞かせてもらうわ。さぁ乗って」

「ありがとう。話が早くて助かる」


 僕はカーミラの手を借りて、彼女の愛馬によじ登った。


 彼女の走らせる馬はあっという間に王都へ着いたけれど、今起きたことをすべて話すには充分な時間があった。カーミラはドゥイリオのことにも僕のことにも、バルタザールのことにも、何にも言わないでただ相槌を打つだけだった。

 確認したところ、やはり彼女は僕の味覚と嗅覚のことを教えてはいないという。「あの時にはそんなおしゃべりをする余裕なんて無かったわ」と一蹴された。

 彼女が僕に聞いてきたのはひとつだけ。


「本当に捜索願は出さなくていいの?」


 二度目の確認に、僕はやっぱり同じ答えを出す。


「いい。ドゥイリオが出ていくと決めたんだから、それでいいんだ」


 カーミラもまた同じように、「そう」と不満げな頷きを返した。

 馬を騎士団本営の裏門前に止めて、カーミラはひらりと飛び降りた。


「ほら、降りて。鞄、預かるわよ」


 僕は十数年ぶりの乗馬でがくがくと震える足を叱咤し、馬から降りた。


「うわっ、とと」


 よろめいたところを支えてもらって事なきを得る。


「おじさんを通り越しておじいさんね」

「ごめん。ありがとう」

「馬を繋いでくるわ。それとあなたを通す手続きもしてくるから、ちょっとその辺に座って待ってなさい」

「うん」


 言われた通り、裏門脇の花壇のふちに腰掛ける。しばらく馬に揺られていたせいか、なんだか体中が気怠くて熱っぽかった。やはりまだ体力が戻っていないのだろう。嫌になる。少しだけ咳き込んで、溜め息。

 久しぶりに見た騎士団本営は、記憶にあるのとまったく変わらず、厳めしい灰色の石造りだった。裏から見てもこの威圧感があるのだ、表はもっと勇壮で厳格な面持ちをしていたことを思い出す。


「あ、鞄」


 カーミラに預けたまま持っていかれてしまった。なんとも手持ち無沙汰。仕方なく裏通りを行き交う人々に目をやる。

 王都は変わらず賑やかだ。騎士団本営の周りは充分なスペースが取られている。だから最も人通りの激しい辺りからは少し離れているのだが、距離があっても分かるほど賑わっていた。時間はちょうどお昼前。仕事に一段落付けた人、買い物かごを抱えて足早に行く人、はしゃぎまわる子どもたち、呼び込みの声。空を旋回する小さな鳥は、ライム鳥だ。滅多に鳴かない緑色の美しい小鳥。


(ん、今、鳴いたな。誰に向けた警告だろう)


 ぼんやりと眺めていた僕は、ふと視線を下ろして、息を呑んだ。

 粗末な服に身を包んだ痩せた少年がこちらに向かって歩いてくる。足取りはふらつき、長く伸びた前髪で顔は見えない。空は晴れ渡っているのに、彼の周辺だけ土砂降りの雨が降っているような暗い湿気を感じた。

 僕は思わず立ち上がった。


「ドゥイリオ」


 彼はふらふらと僕の前までやってきた。

 前髪の隙間から青い瞳が覗く。その瞳は壊れてしまいそうなほど大きく揺れ、せわしなく開閉する瞼の向こうへと不規則に隠れた。なんだか熱に侵されているような表情をしていた。目で見て分かるほど息遣いが荒く、頭が揺れている。

 僕は彼の肩を掴んだ。


「大丈夫? 具合が悪いのか」


 彼は僕の家へ来た時と同じ格好をしていた。ぎゅっと握りしめた手の中には小さな布の鞄。中身はほとんど何も無いような感じだった。


「――せ」

「え?」

「返せ、俺の家族を。返してくれ!」


 叩き付けるような叫び声が目の前で響き、そして。

 鞄から抜き放たれたのは、鈍く光る短剣だった。


「うあああああああああっ!」


 頭から突っ込んできたドゥイリオを、僕は受け止めた。

 ドン、と胸元に衝撃があって、それで刺さった感覚が掻き消されたようだった。僕もドゥイリオもずるずると膝をつく。痛みはほとんどなくて、ただ僕は咳き込んだ。せり上がってきた血の塊を、彼にかけてしまわないように気を付けて吐き出す。

 群衆の悲鳴や何かが聞こえたような気がしたけれど、すべて遠い世界の話と思えた。僕はただドゥイリオを抱き締めて言い続けた。


「大丈夫、君は悪くない。ごめん、ドゥイリオ。気付かなくてごめん」


 ドゥイリオは泣きじゃくっていた。僕にしがみついて、わぁわぁ声を上げて泣き喚いていた。いつも必ずどこかに落ち着きを残していた彼が、こんな幼い子どものようになるほどつらくて苦しかったのかと思うと、足元に転がった短剣を拾い上げて自分で自分を貫きたくなった。

 だが、そんなこともできないほど体が重い。


(嫌になるね、本当……生きていくことも、死ぬことも)


 結局誰かを傷付けなければ、何も出来ないのだ。

 僕は溜め息をついて、意識を手放した。

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