第20話 錯乱する弟子

 次に目が覚めた時もカーミラが傍らにいたから、ほとんど寝ていなかったのではないかと疑ってしまった。けれど、彼女いわく丸一日寝ていたらしい。今日は十五週目の十日。いつもなら三日くらいで起きるところを、倍以上眠っていたようだ。

 カーミラの手を借りて起き上がる。相変わらず体は重たいけれど、動けるようになっただけ進歩だ。

 控えめなノックがあって、扉が開いた。


「ドゥイリオ」

「はい、師匠」


 彼は片手にトレイを持ち、器用に扉を閉めた。トレイにはふわりと湯気を上げるリゾットが載っている。いつかと同じ。けれど前より明らかに、ドゥイリオは憔悴しているように見えた。


「ごめんね、放っておいてしまって。なにか不都合はなかったかな」

「大丈夫です。何事もありませんでした」


 彼は早口でそう言って、なんだか苦しそうに微笑んだ。そしてリゾットをサイドテーブルに置くと、すぐに部屋を出ていってしまった。その態度に僕は察する。


(ああ、やっぱり……彼のご家族は、内紛の中で殺された・・・・んだ)


 確認すればきっと分かる。生まれた地区を聞くだけでも充分だ。たぶん、いや確実に、彼は僕の占いのせいで虐殺された地区の生き残りなのだろう。イェルンとの会話を聞いて、僕が原因になったということに気付いたに違いない。彼は頭が良いから。

 カーミラに手伝ってもらってリゾットを口に運ぶ。匂いは何も感じなかった。嗅覚も完全になくなったらしい。もう僕には温かさしか分からない。


「脱獄した二人は六日、王都内の貴族邸の地下室で見つかったわ」

「貴族邸?」

「そう。レッフラー公の別邸よ。レッフラー公は関与を否定しているけれど、どうかしらね。彼はバルタザールと仲がいいから」


 僕が目を上げた理由をカーミラはきちんと察したようだった。


「地下室にかけられていた隠蔽の魔法を解析した結果、彼の魔力だと判明したの」

「っ……じゃあ、彼は、本当に」

「ええ。夜番の看守には洗脳の魔法がかかっていて、それもバルタザールの手によるものだった。マヌエル・クンツも彼の手先だと分かったわ。自供したの」

「それで、彼は、バルタザールはどうなった?」

「今も逃走を続けているわ。騎士団が総出で捜索中」


 情けない、という気持ちが真っ先に浮かび上がってきた。そしてそれはすぐに怒りへと変わった。ああ、情けない。恥ずかしい。同じ師を持つ弟子として。許せない。師と仰いだ人を裏切るような真似をするなんて!


「バルタザールは洗脳の魔法が得意だったの?」

「さぁ……でも、苦手な魔法はない、って印象だったな。どんな魔法でもすぐに物にしてみせたから、洗脳の魔法だって真剣に学べば得意になるだろ。たぶん」

「そう。じゃあ、潜伏先に心当たりとか」


 あるわけないわよね、とカーミラは言を翻した。僕とバルタザールの折り合いが悪かったことはカーミラもよく知っている。実際心当たりなどまったくなかったから、僕は黙って頷いた。

 騎士団が総出で捜しているならば、彼はすぐに見つかるだろう。そして正当に裁かれる。

 僕はじっと考え込んだ。

 どうして彼は、あんなに望んでいた地位を、わざわざ捨てるような真似をしたのだろう。彼はアラスタ地区出身ではないし、内紛で何か大切なものを失ったりもしていないはずだ。なのに何故。


(たとえ脱獄幇助が発覚しなかったとして、得をするのはバルタザールじゃないよな)


 しばらく考えたが、見当をつけることすら叶わなかった。


「ねぇ、カーミラ」


 半分ほど食べたところでなんだか疲れてしまって、僕は匙を置いた。のろのろと食べていたせいで、器はもう温度を失っていた。


「僕の命はそう長くないと思う」

「そうかしら」

「たぶんね」

「一度病院へ行くべきよ。いくらなんでも、老衰と呼ぶには早すぎるわ。あなたのお師匠様だって、知らないだけで病気だったかもしれないでしょう」

「どうだろう」


 金色の目が“行きなさい”と命じた。僕は逆らえずに頷く。


「分かったよ。病院へは行く。でもさ」


 行ったところで意味のない可能性が大いにあった。師匠と同じ。こんなこと占わなくても分かる。

 カーミラは落ち着いた目をしていた。


「僕の死体は君が焼きに来てくれ。悪いけれど、これは君にしか頼みたくない」

「分かったわ」

「それと、ドゥイリオのことを頼む。あとできちんと書面にしておくけれど……僕が遺すものはすべて彼にあげる。成人するまでは君に管理権を預けたい。それで、どうか、彼が行きたい道へ行かせてあげてほしい」

「ええ」

「頼むよ」

「ええ、任せて」


 カーミラは僕と手を重ねて、深く頷いた。僕は少しだけ過去の選択を後悔した。


 それからしばらくの間、カーミラは毎日来てくれた。引き継ぎもほとんど終わってちょっと暇らしい。

 ドゥイリオは毎日欠かさず決まった時間に食事を出してくれて、僕が立ったり座ったりするのも手伝ってくれた。けれど、僕が食事をする間、彼は絶対に近寄らないようになった。カーミラがいるからだろうと思ったのだが、彼女がいない朝と夜もそうするのだ。顔を合わせることが減ったから、その分会話も減った。そんな当然のことを寂しいと感じてしまって、わがままな自分を恥じる。

 いつの間に、だろう。一人での食事が味気なく思えて仕方がなかった。味を感じないのは前からそうなのに。

 コーヒーはまだわずかに苦いような気がした。そう感じたいだけだとは分かっている。


 手を借りなくても歩けるようになった、十五週目の終わり頃。

 僕はデスクで手紙を二通書いた。ちょうど封をしたときにドゥイリオがコーヒーを持ってきてくれたので、引き換えるようにそれを渡す。


「いつ何があるか分からないから、先に預けておくよ。飛ばし方は分かるね」

「はい。分かりますけど……あの、これは」

「カーミラとエッダに宛ててある。僕が死んだら、飛ばしてくれ」


 ドゥイリオは手紙を持った手をびくりと震わせた。

 僕は曖昧な表情になって、うつむきがちに続けた。


「ごめん。一年っていう約束だったけれど、そこまで体がもつかどうか、分からないんだ。申し訳ない」

「いえ……いえ、あの、師匠……」

「何があっても、君がきちんと生きていけるように頼んであるから、心配はしないで。もちろん、僕も出来るだけ頑張るけどさ」


 そこまで言って、僕はようやく微笑むことができた。ほわほわと白い湯気を上げるコーヒーカップを慎重に持ち上げる。

 その直後に起きたことを、僕はしばらくの間理解できなかった。


 右手に衝撃。コーヒーが床に飛び散る音。カップが粉々に割れる音。


 ドゥイリオに手を払いのけられたのだ。


「あ……」


 彼は自分のしたことがよく分かっていないような顔をして、僕の手を叩いた格好のまま固まっていた。

 その顔がみるみるうちに真っ青になっていく。細かく首を左右に振る姿は、吹雪の中で打ち震えているみたいだった。手が神経質に二の腕を擦り、足はずるずると後退る。


「あの、ごめんなさい。違うんです、師匠、俺……」

「ドゥイリオ」

「ごめんなさい、すぐに片付けます!」


 彼はパッと背を向けて、キッチンに飛び込んでいった。

 僕は床に飛び散ったコーヒーを見下ろしながら、自分が呆然としているのを感じていた。彼の行動が理解できないのはそのせいなのか。それともいろいろのことを見落として、彼のことをまったく理解していなかったからなのか。そんな判断すら付かなかった。

 払われた右手が、かすかに震えている。小さな痺れと痛みが残っている。


(……どうして)


 本当は分かっている。きっと憎しみを抑えきれなかったのだ。彼は知らなかった。僕があれほど直接的に虐殺と関わっているとは知らずに弟子入りしたのだ。知ってしまった以上、つまり僕は彼にとって親の仇であって、そんなやつから施しを受けるのが許せなかったのだろう。

 僕は拳を握りしめ、目を瞑り、ひとつ深呼吸をした。


(悲しむな。そんなことは許されない。これは罰だ、僕が犯した罪の)


 キッチンからドゥイリオが戻ってくる気配はなかった。たぶんもう少しかかるだろう。僕の顔などもう見たくないに決まっている。

 僕はゆっくりと席を立って寝室に引っ込んだ。決して音が出ないように。間違っても転んだりして、彼の手を煩わせないように。

 そしてベッドへ倒れ込んだ。

 びりびりと痺れを訴える心をそのままに、泥沼へ沈むように眠りに落ちる。


 そうしたことを後悔したのは、翌朝になってからだった。


 寝室を出た瞬間、違和感に気が付いた。

 家中がいやにひんやりと静まり返っている。この感じを僕はよく知っていた。この十年間、慣れ親しんだ空気。このところ、すっかり忘れていた寒さ。


「……そうだよね」


 デスクの上に、ノートの切れ端が置かれていた。いつかのお小遣いが重しになっている。そして、ちょっと形の崩れたドゥイリオの文字。


『ごめんなさい。もう俺は、あなたを師匠とは呼べません』


 それでも“復讐”を選ばず、ただここを去るだけにした彼のことを、僕は心から尊敬するような気持ちになった。本当に優しい、心根の美しい少年だった。


 ――ところが、その続きに目を走らせた瞬間、僕は大いに戸惑った。

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