第19話 うつくしいひと
部屋中を銀色の光と謎の生物たちが飛び回る。立ち尽くす補佐官の頭の上を少女が横切り、イェルンの膝の上に猫がよじ登った。
僕はこれまでにない全身の痛みに体を折りそうになった。座ったままやったのは正解だった。不規則な心臓の音がいやに大きく響き、他の音が三歩向こうに遠退く。まるで水底へ突き落されたようだ。体が重い。喉の奥が金臭い。
意識を手放してしまいたくなったのを必死に抑えこみながら、声を張り上げる。
「さぁ、未来を見せてくれ! 騎士団はどこへ行けば尋ね人を見つけられる?!」
ランタンを掲げた小さな男がぐるんと振り返って、スキップをしながら突っ込んできた。視界が灰色に揺らぎ――石壁の小さな部屋に二人の男が座っている――明かり取り用の窓はずいぶんと高い位置に付いている――扉は木製で複雑な魔法陣が刻まれている――階段を登るとそこは行き止まりのようだった――なるほど、見つからないわけだ!
僕の背中から出ていった男は、ランタンを振り回しながら踊るように飛び跳ねていく。
「どこかの隠し部屋だ! 石で出来た地下室、明かり取り用の小窓があるけれど、物理でも魔法でもしっかり隠蔽されている! 次――」
ふいに、腹の奥の方から気味の悪い塊がせり上がってきた。咄嗟に片手で口元を押さえこむ。
(駄目だ、まだ、せめてもう一つ……!)
僕は奥歯を食いしばって、塊を飲み込み、叫んだ。
「次……騎士団に敵対するのは誰だ?!」
天窓の近くを漂っていた少女が、ふわりと下りてきた。僕の目の前で心配そうに眉根を寄せて、それからまたふわりと宙返りをすると、背中側から飛び込んでくる。
そうして見えたのは――茶色の長い髪を背中で一括りにして――藍染めの衣のような深い青色の瞳をして――うっすらと笑っている――
「……嘘だろう?」
胸の辺りから出てきた少女は、悲しそうに微笑んで、僕の額をちょっと撫でると浮かび上がっていった。
僕は信じられない気持ちでいっぱいだった。けれど、見間違うはずがない。三十を越えた人の姿なんてそうそう変わるものでもないし、見ていない時間より見ていた時間の方が長いのだから。見間違うはずがない。
「バルタザール……」
呟いた直後、僕は思い切り咳き込んだ。とても抑え切れるようなものではなかった。槍で突き上げられるみたいに、体の中が痛み、軋み、咳が、咳が止まらない。苦しい。
そして。
目の前に広がった赤色。それがくるりと黒に変わって、何も分からなくなった。
何日経ったかなど分からない。いつもと違って、僕の世界はうっすらと明るくなったり、また闇へ沈んだりを繰り返した。暗くなるといつも通り昔のことが僕を責め立てて、明るくなると誰かの声が聞こえてくるような気がした。その声はか細く、泣いているような感じだった。
泣かないでほしい。泣かないで。君が何に悩んでいるか、僕には分からない。教えてほしいけれど、それを話すのはきっとつらいことだろうから、聞くこともできない。予想はついているけれど、それを問われるのはきっと苦しいことだろうから、確認することもできない。ああ、だったら黙って泣かせてあげるのが正しいのだろうか。泣かないでほしい、なんていう言葉も、しょせん僕のわがままなんだから。
「――……――」
すすり泣く声が遠退いていく。
(あ……)
世界が闇に沈む。
(そういえば、カーミラから何か聞くんだったな……)
頭の芯に鈍痛。手足に痺れ。このまま寝たら二度と起き上がれないのではないか、という本能的な恐怖に背筋が凍る。
(……ドゥイリオは……そうだ、質問の答え……)
沼地の泥のような暗闇がどろりと流れ込んできて、視界を塗り潰した。
洗濯されたように泥が消えていくと、今までよりも明確に世界が見えた。まだ輪郭はぼやけているけれど、その明るさはまるで違う。
そしてその中に、美しい
「ジーク」
僕は彼女の名前を呼び返した、つもりだった。僕の声はあまりにもひどく掠れていて、ほとんど音の体をなしていなかった。けれど彼女はきちんと聞き取ったらしい。
彼女の手に頬を包まれる。しっかりとした硬い手のひら。ほんのりと温かい。
「良かった。もう起きないんじゃないかと思ったわ」
金色の瞳が僕を見ている。世界の輪郭はだんだんとはっきりしてきたのに、その瞳はまだぼやけていた。僕の傍らでずっと泣いていたのは彼女だったのだろうか。
僕は彼女の髪に触れたくて、鈍重な手をようやく持ち上げた。しかし布団から手が出たところで、彼女に手を取られる。僕の手はひどく冷たく固まっていた。けれど彼女から温度を貰って、少しずつ溶けていく。
それでようやくまともな声が出た。
「カーミラ」
彼女は微笑んで、僕の手に頬を寄せた。
「私服なんて、珍しいね」
「あら、気付いた?」
カーミラはいつもの騎士団の制服ではなく、もっとゆったりとした簡素なブラウスを着ていた。けれどスカートではないところが彼女らしかった。
「実は私、退団するの」
「え?」
「この間のドラゴン討伐の時、怪我をしたでしょう。それの後遺症で、左腕が前のように動かせなくなったの。生活に支障はないんだけれど」
僕は「そっか」と呟いた。片腕の損傷は騎士にとって致命的だ。
「ごめん。僕がもっと、ちゃんと、伝えられたら……」
「いいえ、関係ないわ」
カーミラは即断した。
「怪我をしたのは私の実力不足だし、たとえ怪我がなかったとしても、私はきっとこのタイミングで辞めていたわ。もういい歳だし、そろそろ後進に譲りたいと思っていたの。ちょうどいい言い訳ができてありがたいくらいよ」
「君の、そういうところ、素敵だと思う」
「ありがとう。そういえば、私の隊が捜索していないってよく気付いたわね」
「そりゃ、気付くよ。君の隊が、あるかどうかは、重要なことだから」
「占いにとって、ね」
補足するように呟いて、カーミラは目を伏せた。長い睫毛は昔ほど密ではない。目の下には深い皺が入り、頬も唇も痩せた。
「それでも、綺麗だね」
「それでもって何?」
「歳を取ったけれど」
「余計なことは言わない方が身のためよ」
きっ、と僕を睨みつけた金色の瞳が、ふわりと緩む。
それから、柔らかなガーゼみたいに温かな声が僕を包み込んだ。
「二十年前にもこういうふうに、私のこと――あなたがきちんと見てくれていたら、こんなことにはならなかったのに」
僕は喉の奥を詰まらせた。だがカーミラはすかさず「なんてね。冗談よ。ごめんなさいね、弱ってるところにとどめを刺すのが癖になっちゃったの」と笑って、満足そうに僕の眉間へ触れた。
「嗜虐的だ」
「そうよ。だから結婚できなかったの。あなたが婚約破棄したせいじゃないわ」
大昔の話だ。占術師になった直後。親が勝手に決めた婚約を、僕は断固として突っぱねたのだった。カーミラのことなど見ようともしないで。ただ、占術師の道を究めることを誰にも邪魔されたくない、というだけの理由で。
それ以来、僕たちは当然恋人になんかなれず、かといって敵対することもなく、共犯者のような不思議な関係を深めていった。元々同期であったし、仕事上顔を突き合わせることも多くて、嫌でも僕らは互いのことを知っていった。
――一度は、改めて、という話にもなった。ちょうどその時に内紛が発生したから、それどころでなくなってしまったけれど。
「私は感謝しているのよ。あの時あなたが、婚約を破棄したこと。当時はちょっと恨んだけれど、でも、今なら分かるわ。あのまま結婚していたら、私はすぐに騎士団をやめる羽目になっていた。それで、やりたいことをやれないまま“普通の女”として過ごして……あなたのことまで嫌いになっていたかもしれない」
「……」
「ありがとう、ジーク」
彼女は僕の手にそっと口付けを握らせて、布団の中に押し込んだ。
「もう少し休んで。そうしたら、事の顛末を教えてあげるわ」
「事の、顛末……そうだ、どうなった? 脱獄した二人は――」
記憶がきちんとよみがえってきたから、僕は息せき切って尋ねた。反射的に起き上がろうとした体は、しかし重た過ぎてぴくりともしなかった。
カーミラが優しく微笑む。
「ちゃんと騎士団が捕まえたわ。市民への損害はもちろん、ゼロよ」
「良かった……」
ほぅ、と息を吐いたら、ふと瞼が重たくなった。意識が揺らぐ。といってもさっきまでのような恐ろしいものではなくて、もっと柔らかくて優しい感覚。ちゃんと起きられる、という安心感があった。
それはあるいは、カーミラが近くにいたからかもしれない。
意識を手放す直前、どうしても聞いておきたいことがあって、僕は口を開いた。
「バルタザールは?」
彼女は首を横に振った。あとでね、と言われて額を撫でられ、僕は逆らえず目を瞑る。
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