第10話 温かな人々

 雨が、降り出したのかと思った。

 僕は手の震えを抑えこんで、読んでいた論文をそっと床に置いた。エッダに送ってもらった教育指導論の結論部分。その中途だったが、そんなことどうでもよかった。

 ドゥイリオの柔らかな黒髪が、湿気を孕んだようにふわりと持ち上がっていた。規則正しい呼吸に合わせて、銀色の光が膨らんだり萎んだりを繰り返している。光の発生源は当然彼だ。曇天の下で、その淡い光は確かに輝いている。

 やがて呼吸はいっそう深く、長くなる。呼応するように銀色の光も大きな変動をやめ、彼の体を包む膜のように留まった。

 しん、とした集中。呼吸音が沈んでいく。もうほとんど聞こえない。同時に、彼を包んでいた銀色の光もまた沈んでいく。彼の体の中へ。それがすっかり消えてしまうと、代わりとばかりに彼の黒髪がその色をわずかに変じた。漆黒からダークグレーへ。そう見せたのは彼の魔力である。きらきらと舞い散る、鱗粉のような銀色の粒子。体内を循環する魔力を認識したことで、輪が満たされ、そして溢れ出たのだ。


(っ……できた。繋がった……!)


 思わず拳を握りしめた。そうしていないと、腹の底から湧き上がってきた感情のままに飛び跳ねてしまいそうだったのだ。自分のことでないのにもかかわらず。

 一度静かに息を吐いてから、彼の集中を崩さないようそっと近寄る。


「ゆっくり、目を開けてごらん」


 彼の薄い瞼はわずかに震えながら持ち上がった。初秋の晴天を思わせる瞳が、銀色の光に覆われて、神秘的に輝いている。

 ドゥイリオは自分の周りに漂う小さな光を見て、胸を膨らませた。

 瞬間、光は消えた。


「あ」


 と彼が呟いたときには、髪も目もすっかり元通りになっていた。

 僕はドゥイリオが落とした肩を軽く叩いた。


「あれ以上繋げていたらまた倒れていたよ。分かるだろ?」

「はい。分かります」


 ドゥイリオは頷きながら、額に滲んだ汗を拭った。かなり疲れているようだが、その表情は充足感に満ちている。出来た、分かった、という喜びが彼の口元を緩ませ、鼻を膨らませて、瞳を煌めかせていた。それは僕にまで伝播した。実際のところ僕はほとんど何も教えていないのに、それでも彼の歓喜の瞬間に立ち会えたことが、他に並び立つもののない幸福のように思えた。


「今のが正解だ。その感覚を忘れないで」

「はい!」

「よし、じゃあ、今日はもうおしまいだ。少し休憩して――そうだね、四時頃に出ようか」


 ドゥイリオはきょとんと首を傾げた。


「何かご用事ですか?」

「麓に美味しい料理屋があるんだ。今夜はそこへ行こう。君のお祝いに」

「えっ! お祝いなんて、そんな……」

「ここにいると、焼きたての肉とか、新鮮な野菜とか、そういうのが食べられないだろ? 栄養の偏りも解消しないと。君はこれから成長するんだから」

「でも……」


 彼は言いにくそうに眉根を寄せた。


「でも?」

「師匠は、食べても分からないんですよね」

「ああ。なんだ、そんなことか」


 本当によく気を遣う子だ。頭が回るし、自分の感情よりも周りのことを優先している。やっぱりアイツなんかとは違う。同じくらい頑なで思い詰めるタイプであっても、アイツはどこまでも自分勝手な奴だった。


「お店には少し申し訳ないと思うけどね。でも、食感と温度だけでも楽しめるって教えてくれたのは君だよ、ドゥイリオ。気にすることはない。あ、僕がその店を知ったのは、舌がこうなる前だからね。代替わりしたとも聞いていないから、味は保証できるよ」

「……」

「どうしても気になるのなら、帰ってきてからコーヒーを淹れてくれるかな。コーヒーならまだ、かろうじて味が分かるんだ」


 そう言うと、ようやくドゥイリオは「分かりました」と頷いた。



 四時少し前に家を出て、山道を下っていく。一時間かけて麓に着いた時には、僕の息はすっかり上がっていた。まぁね、そりゃあね、家から出たのなんて数年ぶりだよ。それはそうだ。でも思っていたよりも体力が落ちている。これはちょっとまずいかもしれない。


「大丈夫ですか」

「うん、平気」


 答えながら、僕はこっそり、時間を作って少し動こうと決意した。

 麓の町は夕暮れに備えて少しずつ灯りを灯し始めていた。王都の一番北端にある小さな町。流通の主要ルートが変わったことからやや廃れたものの、かつては守りの要として栄えていた要塞都市である。だから堅牢な雰囲気がある灰色の石壁や、舗装された広い街道が、今も悠然とした構えを見せていた。

 その中心部にある小さな店は、すでに温かな光と空気でいっぱいになっていた。丸いテーブルがぎっしり並べられていて、そこにぎっしり人が詰まっている。入っていくと、四方八方から声が寄せられた。


「おお、占いの先生じゃねぇか!」

「下りてくるなんて珍しいな」

「そっちの子が噂のお弟子さんかい?」

「なんだ痩せっぽっちだなぁ!」


 商店のおかみさんに知られた時点で分かっていたけれど、ドゥイリオのことはすでに広まっているようだった。労働者の大きな手があちこちから伸びてきて、ドゥイリオの柔らかな黒髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。


「こらこら、ほどほどにしてやってくれ」


 戸惑ったように硬直するドゥイリオを助け出して、店の一番奥に行く。カウンターはちょうどよく二つ並んで空いていた。彼が背の高いスツールに座るのを見守ってから、僕も隣に座った。


「やあ、久しぶり」

「おっす、先生! もっとちょくちょく来てくれよ」

「これからはそうするよ。育ち盛りがいるうちはね」

「おっ、やったなお弟子さん! うちの儲けになってくれてありがとう! 歓迎するぜ!」


 調子のいい店主はそう言って、ドゥイリオの頭をガシガシと撫でた。


「なんか適当に出してくれる? 肉と野菜多めで」

「はいよぉ!」


 店主が奥に引っ込むと、ぴたりと固まっていたドゥイリオがそっと動きを再開した。ぐしゃぐしゃにされてしまった髪の毛を、まるで腫れ物に触るかのような手つきでなぞっていく。

 今度心配するのは僕の方だった。


「平気?」

「あ、はい。大丈夫です。なんていうか、その……慣れていない、だけなので」


 そう言って彼は泣き笑いのような表情を浮かべた。十五の少年の顔にしては陰りが強いように思えて、僕は一瞬言葉に詰まった。だから、ようやく絞り出した言葉はひどく小さくなってしまって、周りの声に押し流されて、ドゥイリオには聞こえなかったらしい。


「きっと、すぐに慣れるよ」


 彼は頷くこともなかった。



 ドゥイリオに絡もうとする酔っ払いたちは容赦なく追い払えた。けれど、どこからか僕らが来ていると聞きつけた奥様たちの襲来は無下にできなかった。僕が占えとせがまれたり、話を聞かされたりする分には問題ない。けれど、ドゥイリオは「可愛い」「偉い」「いい子」の三言とともにもみくちゃにされて、かなり疲れたようだった。

 十週目の十日とはいえ、夜が深まるとそれなりに冷える。ましてあの暖かさの店内から出てくれば、夜陰の冷たさはひとしお身に染み入った。


「寒くない?」

「はい、大丈夫です」


 魔法の灯りを浮かべて、僕らは山道をゆっくりと登っていった。ドゥイリオは奥様たちに押し付けられたクッキーやパンの包みを抱えて、僕の少し後ろを付いてきた。木々の隙間からウゥフコール鳥のくぐもった鳴き声が聞こえてくる。時々がさりと茂みが揺れて、そのたびドゥイリオはパッとそちらを向いた。


「ごめんね。思ったよりも騒がれてしまって。落ち着いて食べられなかっただろ」

「いえ、そんなことは。すごく美味しかったですし……」


 楽しかったです。と、噛み締めるように彼は言った。

 ウゥフコールが鳴く。彼らの声は知恵と平和の象徴であり、こうやって絶え間なく聞こえてくるということは平穏な日々が続くという証だった。


「あの、師匠」

「うん。なに?」

「歴史の教科書、読みました」

「うん」


 ドゥイリオはわずかに間を開けて、ためらいがちに言った。


「教科書には“アラスタ蜂起”と書かれているんですね」


 もうそこまで読んだのか、という驚きと、ついにその話をする時が来たか、という緊張が、稲妻のように胸に走った。風が吹いても変わらない灯りがわずかに揺らいで、影を不気味に歪ませた。魔法は心の動きを映す。


「そう。王国側では、そう呼んでいる。南の方では“アラスタの悲劇”とか、“アラスタの大虐殺”って呼ばれてるんだったね」

「はい。……師匠のお名前も載っていました。王様の暗殺計画を予言した、と」

「うん」

「師匠はどうして、占術師長を辞めたんですか」


 端的な質問。灯りが大きく揺れる。


「……逃げたんだ」


 そう言う他に思いつかなかった。逃げた。そう、僕は逃げ出したんだ。耐えられなかった。僕の不完全な占いのせいで、誰かが傷付いたり、苦しんだりするのだと思うと、怖くて仕方がなかった。これ以上、国という大きな単位の中で占いをすることは出来ない――してはいけない、と思った。

 なのに、占い以外で僕に出来ることなど何ひとつとして無かったのだ。結局中途半端にしがみつくことになっている現状が、なんとも醜くて情けない。本当に嫌になる。


「僕の占いが不完全だったから、あの内紛は悪化した。そのせいでたくさんの人が傷付き、命を落とした。……ドゥイリオ、君のご家族も」


 振り返ると、彼は包みの山に顔をうずめるようにしていた。

 謝るのは違う気がした。それは許しを乞う行為だから。かといって、復讐しろと唆すのも違う気がした。それは他人が促すことではないから。この件に関して僕は何の権利も持っていなかった。ただ、彼の望みに応える義務だけが科せられている。


「師匠」

「うん」

「師匠は、王の暗殺を予言した後、他に何か占いましたか」

「……どうして、そんなことを?」


 思わぬ質問だったから、咄嗟に聞き返してしまった。占い。確かにやったけれど、あれは――口ごもっていると、ドゥイリオはすかさず首を振って「いえ、なんでもありません。忘れてください」と頑なな口調で言った。

 僕は何かひどい間違いを犯したような気分になったが、ドゥイリオはすべてを拒むようにじっと地面を睨みながら歩いている。だから再び聞き返すことは憚られた。

 ウゥフコールの鳴き声だけが、山道にこだまする。


 家に着くと、ドゥイリオはコーヒーを淹れるだけ淹れて、すぐに寝てしまった。僕は一人、寝室でその苦味をゆっくりと飲み込みながら考えた。

 彼が僕のために用意するもの。そのすべてを受け取ろう。それがたとえば、恨みとか、復讐とかであったとしても。一滴残さず、すべてを飲み干そう。そしてその代わりに、彼の望むものをすべて与えよう。知識も、財産も――望みとあらば命だって。

 灯りを消してベッドに潜る。久しぶりに動いたせいか、ひどく気怠い体は、あっという間に睡魔に連れ去られていった。

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