第9話 師匠の師匠と兄弟子
結局、おかみさんは夕方まで残ってドゥイリオの面倒を見てくれた。彼女は「あんっなにいい子、他にいないよ。あんたのためを思って――っとと、これは秘密だった。とにかく、大切にしてやるんだよ、先生!」と言いながら帰っていった。彼のことを随分と気に入ったらしい。
夜、寝る前に様子を見に行ったら、彼はすっかり熟睡していた。うなされているような様子もない。おかみさんが用意した果物をちゃんと食べたらしく、デスクの上には空っぽのお皿だけが置かれていた。
(良かった。いくら通過儀礼的なものとはいえ、苦しいのは嫌だからね)
僕は彼を起こしてしまわないよう静かにお皿を回収して、注意深く扉を閉めた。
ドゥイリオは次の日にはすっかり回復した。
「ご迷惑をおかけしました」
「ううん。迷惑なんかじゃないよ。迷惑と言ったら僕の方が、ずっと君にお世話されてる」
彼は何て返したらいいのか分からなかったようで、黙ってパンをかじった。そうです、とも、そんなことは、とも言えなかったらしい。まぁそうだろうよ。
「魔力切れの感覚、ちゃんと覚えておいてね。次からは倒れる前に気が付くこと」
「はい」
僕は二日ぶりのコーヒーを啜って、ふと思い出した。
「そういえば、どうして昨日キッチンにいたんだ?」
「え?」
「ほら、フリッツとぶつかりそうになってただろ」
「あ、ああ……ええと……」
ドゥイリオは不自然に目を泳がせた。
「お客様に、お茶か何かお出しした方がいいかと思いまして」
僕はその態度が少しだけ気になった。けれど、たとえ嘘だったとして何を隠そうとするのだろう? 彼の言動のすべてを暴くことは、僕にとってどうしても必要なことだろうか? なんて考えて、信じた振りをした。
「なるほど、そうだったのか。気を遣わせてしまって悪いね」
「いえ」
「昨日はろくに紹介できなかったけれど、彼らは麓で商店をやっていてね。三週に一回、生活に必要なものを持ってきてくれるんだ」
麓からこの家までは、歩いて一時間といったところ。馬で走れる程度には舗装されているけれど、それにしたって遠いし面倒だ。それでも彼らが来てくれるのは、僕があまりに出不精で心配をかけたからであり、かつて占いが上手い具合に当たったからだった。
「だから、何か食べたいものだったり、服だったり……そうだ、ノートとかね」
言った瞬間、ドゥイリオの肩がわずかに震えた。
「一冊で足りなくなったらすぐに言ってくれ。ペンとか、インクとかも。フリッツたちに持ってきてもらうから」
「……はい……ありがとうございます」
どこか引き攣った顔をしながら、彼は歯切れ悪く言った。
「あの……ノートの、中って……」
「個人的なものを覗き見するほど野暮じゃないよ」
僕の声がわずかに冷えたのを敏感に感じ取ったらしく、ドゥイリオは「すみません」と目を伏せた。
僕はわざと明るく笑った。
「まぁ、僕の師匠はそういうの頓着無かったんだけどね」
ドゥイリオがちょっと目を上げる。
「師匠の、師匠、ですか?」
「そう。ヨーゼフ・ガブリエル・レームブルックっていって、僕よりもよっぽど“予言者”と呼ばれるにふさわしいお人だったんだ。あの人の占いは本当に、外れることがなかった」
それは事実。師匠が占いを外すところなんか一度も見たことがない。あの人が「降る」と言ったら雨でも雪でも、お菓子であっても降ってきたくらいである。
「性格は最悪だったけどね。馬鹿だの阿保だの言いたい放題言うし、他人の日記を勝手に見て音読するし、こっちが論文を書いてる真っ最中だって知ってて朝まで飲み会やるし、恋愛話が大好きで適当に首突っ込んでは引っ掻き回すだけ引っ掻き回して放置したりするし」
残念だが、これもまた事実。ちなみに音読されたのはエッダの日記で、あのあと彼女は一週間師匠と口をきかなかった。
ドゥイリオは困ったように苦笑した。僕もたぶん似たような表情をしていたと思う。
「でもね、占いは本当にすごかったし……優しいお人だったんだよ。弟子が三人いたんだけど、一人に一つずつ、“特別”を用意してくれてね」
「特別?」
「そう。占術師の試験に合格した時に聞かれるんだ、好きなものを。僕はコーヒーって言った。そうしたら、それ以来ずっと、僕にだけは師匠がコーヒーを用意してくれるようになったんだよ。ぐうたらで面倒くさがりで、酒の王冠を取ることすら誰かにやらせるようなお人が、欠かさずね」
「……
「うん」
確認するような呟きに頷いて、マグカップの底の方に残っていたのを飲み干す。鋭い苦味は鈍った舌にもきちんと届いた。ドゥイリオの瞳がこちらをじっと見ていた。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
懐かしいことを思い出して、僕はちょっと温かな気持ちになった。キッチンを出てデスクに着く。
師匠が用意する“特別”。些細といえば些細なことなのに、これだけで他の諸々の横暴や無体を許せてしまうのだから不思議だ。反則だと思う。エッダは「酒」と即答して、頻繁に師匠におごってもらっていた。兄弟子がなんて答えたかは知らない。
「……そういえば、何か言い争ってたな」
基本的に、大事な報告は二人きりですることになっていた。だから、僕はちらりとしか聞かなかったのだが。
(確か、「それは出来ない」とかなんとか、師匠が言っていたような気がする)
師匠は地声が大きいから。隠すような何かもそういう気持ちも持っていないお人だったし。
それよりも、彼はあの時いったい何を頼んだのだろう。師匠が断るような何か、というのは、そうとうな無理難題だったのかもしれない。別に興味もなかったから、追及しなかったけれど。
彼のことに思いが及んで、温かな気持ちが消えた。代わりに湿り気が増える。
「バルタザール」
久々に呟いた名前は、全く知らない人のもののようだった。
「まだ恨んでるよな、僕のこと」
十五年前に師匠が老衰で亡くなった時、看取ったのは僕だった。そして、その後遺言によって占術師長に任命されたのも僕だった。一番弟子のバルタザールではなく。だから、僕が臨終間際の師匠に何か吹き込んだのだとバルタザールは主張した。僕は師匠が遺言書を作っていたことすら知らなかったのに。
それ以前から彼とは何かにつけて意見が合わなかったけれど、この一件で決定的になった。それきり僕らは決別して、僕は王宮と騎士団に、バルタザールは貴族やその私兵団に、それぞれ肩入れするようになってしまった。本来、占術師は中立でなくてはならないのにもかかわらず。
だから、内紛をきっかけに僕が占術師長を辞めた時、彼だけは満足げだった。
――これでようやく、正当な形になりますね。
そう言った彼の柔らかな微笑が今も目に焼き付いている。内紛があったことや、そのせいでたくさんの人の命が奪われたことなど歯牙にもかけないで、ただ僕が消えることだけを喜んでいる、暗い笑みを。
溜め息。首を振って思考を追い出す。
「まぁ、僕一人が嫌われて済むならそれでいいんだ」
幸いエッダは上手くやっているようだし、僕はそれほど王宮や騎士団に執着していない。好きなことをしながら生きていけたなら、それ以上のことはないのだ。……たぶん、こういう態度も彼が嫌うところなんだろうけど。
ドゥイリオはいつもより少し遅くキッチンから出てきて、次は洗濯をしに向かった。
(そういえば、“死のにおい”って言ってたな)
僕はひょいとカードを取り出して、ドゥイリオのことを思いながら掻き混ぜた。
自他を問わず、人の死期を占うことは出来ない――とされている。本当は出来るのだが、禁止されているのだ。死期というものは決まっていて、たとえ占いの結果明日と判明したとしても、決して変えられるものではないから。確定している未来を知ることは占いではない。見通せない未来にわずかな光明を見出そうとするのが占いである。
だから、占術師が見るのは“いつ死ぬか”ではなく、“これからどうなるか”だ。
カードをまとめて切り、上から三枚をめくる。人の行く末を占う場合、一枚目が現状、二枚目が近い未来、三枚目が遠い未来を表す。
「ふむ」
窓から捻じれたレンガの小道を見下ろしている――『静寂の西側』の正位置。
金槌と天秤を両手に持った子どもが微笑んでいる――『幼い信仰心』の逆位置。
それと、『桃色の小包』の逆位置。
どう解釈したものか。正位置の『静寂の西側』は見通しの悪さを表している。何かを隠しているとか、何かに悩んでいるとか、そういう場合に出てくるカードだ。『幼い信仰心』は、まだ知り合う前のドゥイリオを占った時にも出てきたはず。強い想いや妄信、企てを示すが、それが逆位置になったということは、想いに揺らぎが発生するらしい。そして、順調に進んでいたことが失敗する。
「……弟子でいるのが嫌になる、ってことかな、これ」
そうとしか解釈できない。そうすると、現在の時点ですでに悩みは始まっているということになる。
「僕のところからいなくなるのはどっちでもいいんだけど……最後が失敗、っていうのが気になるな」
僕のせいで修業が嫌になった挙句、魔導師になりたいという望みすら叶わないとなったら、それはなんとも気の毒だ。胸の奥がきゅっと絞られたような気になった。
「改善。改善しよう。うん、まだ間に合うはず」
占いはそういうためにある。不確定の未来をわざわざ見るのは、悪い予兆を改善してよりよい未来を掴むためなのだから。
手始めに僕はエッダに宛てて手紙を書いた。ドゥイリオのための歴史や数学の教科書、それから教育論に関する論文や書籍を手当たり次第に送ってほしい、という旨をしたためて。
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