第8話 頑なな粗忽者
ドゥイリオの細い背中がゆらりと揺れて、確かだった足元がふらついた。膝から力が抜けていくのが手に取るように分かった。
予想通りの展開。警戒は充分。なのに、いざ目の当たりにしたら少し焦ってしまった。
僕は本を放り出して駆け寄った。床に倒れる直前で抱きかかえる。ドゥイリオの顔は真っ赤に染まり、明らかに熱を持っていて、柔らかな黒髪は汗に湿っていた。
「う……な、に、これ……」
「これが魔力切れだ。二日も休めば治るから、何も考えずに寝るといいよ」
ドゥイリオはつらそうに顔を歪めた。発熱と眩暈と頭痛。症状は風邪と大差ないけれど、彼の場合は元々持っていた魔力が大きい分きついかもしれない。
僕は腰を痛めないように細心の注意を払いながら、ゆっくり彼を持ち上げた。思っていたよりは軽くて助かったけれど、十五の少年がこの軽さでいいのだろうか。食生活を改善しなくてはいけないような気がする。
「《開け》」
両手が塞がっているから魔法で扉を開けた。
この家に来てからも数度しか入ったことがなくて、ドゥイリオのものになってからは一度も入っていない部屋へ足を踏み入れる。魔法で組み立てた簡素なベッドとデスクしかない、というかそれ以上は何も置けないほど狭い部屋。
服を頼んでしまったけれどクローゼットとかどうしよう。なんて思いつつ、ドゥイリオをベッドに寝かす。毛布を掛けてやって、手を取り脈を測る。
「……うん。大丈夫だね」
弱々しくはあるが正常だ。間違いなく魔力切れ。これなら心配いらない。
僕は不安そうな目でこちらを見上げているドゥイリオに「大丈夫だから、よくお休み」と言って立ち上がった。
彼のなけなしの荷物をまとめた鞄が、椅子の背に掛かっていた。デスクの上には一冊の綺麗なノート。表紙には何も書かれていないが、きっと日記だろう。あるいは勉強でもしているのかもしれない。どちらにせよ、文を書く経験を積むことは良いことだ。
僕はそっと部屋を出た。
その日の夕食は久々に、缶詰をただ開けただけのものになった。
「なんだか懐かしいな」
この味気のなさ。缶詰にそのままフォークを差し込むのも、一人きりの食卓も。
「これが日常だったのにね」
ゴミの山を綺麗に片付けられてしまったせいか、独り言の響きも空しいものに思えた。嫌になる。だから食事も風呂も適当に切り上げて、さっさと寝てしまった。
翌朝、僕が寝室から出てくるのと、ドゥイリオが部屋から出てくるのが同時だった。僕を見た青い瞳が焦るように揺れた。
「お、おはようございます、師匠」
「おはよう。……まだ寝てた方がいいよ、ドゥイリオ」
「いえ、もう大丈夫です!」
ドゥイリオはハッキリとそう言ったが、空元気なのは明らかだった。キッチンを目指すその足取りはふらついている。頬も普段より赤い。無理をしているのが丸見えだった。
それを隠すようにまくし立ててくる。
「師匠、昨日何食べましたか? 缶詰だけで済ませてませんよね?」
「ドゥイリオ」
「朝食、すぐに作るのでちょっと待ってください。それとも先にコーヒーを――」
さすがに我慢ならなくなって彼の腕を掴んだ。彼はびくりとして、口を閉じた。
僕は軽くかがんで、彼の青い瞳を覗き込むようにした。
「今日は一日休みなさい」
「……ですが……」
「うん。何?」
ドゥイリオは言葉を探すように宙へ視線を走らせた。
「……この程度、孤児院では普通でした。これくらいなら充分に働けます」
「ここは孤児院じゃないよ。働かなくていい」
「でも、動いていないと落ち着かないんです。迷惑はかけませんから……お願いします」
その必死さは僕にアイツを思い出させた。覚えず奥歯に力が入る。僕より年下の、僕の兄弟子。現在の占術師長。アイツもたいがい真面目で、融通が利かなくて、思い詰める――どうしようもなく厄介な――性質の奴だった。
「駄目だ」
僕はハッキリと言った。揺れていた瞳がさらに揺れる。熱っぽいせいなのか不安のせいなのか僕では判別できなかった。
「魔導師になるなら、休むべきときを知りなさい。無理をする魔導師は早死にする。それどころか、仲間を巻き込むことだってある。休むことも立派な仕事の内だよ」
ドゥイリオは考え込むようにうつむいた。ここまで言ってもまだ休もうとしないなんて、頑固な子である。僕は溜め息をついて、彼の腕を引いた。
「ほら、部屋へ戻りなさい」
「……」
「ドゥイリオ」
彼は両足を踏ん張って、かすかに首を振った。それは駄々をこねる子どものよう――いや、比喩ではなくまさに子どもの態度だった。
どうしたものか。これ以上何を言ったらいい? 駄々をこねる子どもへの対処なんて、無理やり引っ張っていくほかに知らない。僕は心底嫌になった。魔法でも何でも使ってベッドに縛り付けてしまおうか。
なんて思ったその時。威勢のいいノックが響いた。
僕は仕方なくドゥイリオを放して、玄関を開けに行った。きっと商店の人だろう。
扉を開けた瞬間、ノックよりもさらに威勢のいい声が飛び込んできた。
「おはよう先生! 持ってきたぜ!」
予想は的中。麓で商店を営むフリッツとベルタ夫妻だ。
「おはようフリッツ、おかみさん。今日もありがとう」
「いいってことよ。んじゃ、失礼しますぜ。キッチンに適当に放り込んでおきますんで」
「うん。よろしく」
「それで先生、お弟子さんっていうのは?」
おかみさんは好奇心で目を爛々とさせていた。フリッツが「すまんねぇ、先生。コイツってば昨日手紙を貰ってから、ずーっとこの調子なのさ」と木箱を抱えたまま器用に肩をすくめた。
僕は思わず苦笑したけれど、どちらにせよ紹介は必要だ。寝ているならば起こすつもりはなかったんだけど。あれだけ駄々をこねられるなら、挨拶ぐらいは出来るだろう。
だが、僕は部屋を見回して首を傾げた。
「……あれ、部屋に戻ったのかな」
ドゥイリオの姿はなくなっていた。
「おわっ!」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
二人の声はキッチンの方から聞こえた。どうやら、フリッツが入ろうとしたところにドゥイリオが扉を開けて、危うくぶつかるところだったらしい。キッチンから出てきたドゥイリオが頭を下げながら扉を開け放ち、フリッツを通す。
なんで彼はキッチンに行っていたんだろう?
「まぁ、それじゃ、あんたが先生のお弟子さんね!」
おかみさんがするりと近寄って、ドゥイリオの肩に手を置いた。
「あたしはベルタ・アンデ。そっちは旦那のフリッツ。二人で小さな商店をやっててねぇ、先生にはお世話になってるのよ。三週に一回はここへ食べ物とか持ってきてるから、何か必要なものがあったら言ってちょうだい。困ったらいつでも頼ってくれていいからね!」
ドゥイリオはおかみさんの勢いにやや押され気味だったが、ようやく頷いた。
「はい。あの、ありがとうございます。俺は、ドゥイリオと言います」
「ドゥイリオ! そう、ドゥイリオ。聞いてるよ、部屋の掃除も料理も全部してくれてんだってねぇ、まぁ本当に良い子だこと! うちの子なんて、あんたと同じくらいなんだけど、もう本当に何にもしないったら! 良い子で羨ましいわぁ!」
「いえ、そんな……」
顔をうつむけたドゥイリオの頭を撫でて、おかみさんは「やだ!」と大声を上げた。おかみさんのふくふくの手に挟まれて、ドゥイリオの顔は半分ぐらいに縮んだようだった。
「あんた熱があるじゃない! ああ、熱を出す子ってあんたのことだったのね! やだもう先生、何やってんのよ、駄目じゃない熱のある子を起こしておいちゃあ!」
「うん。僕もそう言ったんだ。けど言うことを聞いてくれなくて」
「そりゃあ先生、あんたの生活力のなさが原因だね!」
「うっ」
痛いところを突かれた。薄々感じてはいたんだ、彼に責任感を覚えさせているのは僕なんじゃないかって。あまりに情けなくて口には出せなかったけど。
「いいよいいよ、今日はあたしが先生の食事を用意してってやるから。あんたは寝てなさい、ね!」
「でも……」
「ほら、とっとと寝た寝た! 部屋はどこだい?」
真ん中の扉だ、と言うと、おかみさんはドゥイリオの肩を抱いて問答無用で連れていってしまった。ドゥイリオはなんとなく逆らえないようで、素直に引きずられていった。
「なるほど。困ったらおかみさんを呼べばいいのか」
「ヒトの家内をいいように使うのは勘弁してくだせぇよ、先生」
「はは。冗談だよ、フリッツ。でも本当に困ることがあったら、頼らせてほしい」
「そりゃもちろん。先生でしたらいつでも」
フリッツは頼りがいのある笑みを浮かべて、筋肉だらけの太い腕を組んだ。……今さら生活力は無理かもしれないけど、筋肉なら付けられないかな、なんて思ったのは秘密である。
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