第4話 見つけられない探索者
翌朝。朝食を済ませて本棚の前に立ち、立ち尽くした。我ながら何という冊数だろう。嫌になる。
ダイニングキッチンや寝室の扉の反対側は、壁一面すべてが本棚になっている。床から天井まであるそれは、ありとあらゆる本、図鑑、標本、書類でぎゅうぎゅう詰めになっていた。
よく片付けたものだ、と僕は改めて感心した。僕だったら絶対にやらない――実際やってなかったからあの有り様だったんだけど。彼の根気強さは素晴らしいものだ。
とはいえ著者や分類はよく分からなかったらしい。代わりに大きさと色別に陳列されていた。内容を気にする人にとっては気持ちの悪い並び方だろうけど、レイアウトとしては非常に美しい。僕としては使えさえすればどちらでもよいから、部屋が綺麗に見えることを素直に喜んでおく。
「さて。問題は、この中に適当な教材があるか、ってことだ」
自分がいつどこで何を買ったのかなんていちいち覚えちゃいない。まして初心者用の入門書なんて、引っ越した時に捨てた可能性が大いにある。
本棚を端から順に眺めていく。いっそカードに聞いてみた方が早いだろうか、なんて思っていたら、片付けを終えたドゥイリオがやってきた。
「何かお探しですか、師匠?」
「ああ、うん、ちょっとね」
咄嗟に、君のための教材を、と言えなかった。自分で自分の蔵書を把握していないなんて、とか、いきなり弟子に頼るなんて、とかいう思いがよぎったのだ。だが、ここを片付けたのは他ならぬ彼だ。僕よりもこの蔵書を理解しているはずである。
……仕方ない。僕はこめかみを掻きながら、振り返った。
「ねぇ、あの、ドゥイリオ」
「はい」
「ここの本を片付けた時にさ、入門とか概説とか基礎とか、初心者向け、とか、そういう感じの言葉があるタイトル、見なかった?」
「ええと……ああ、見ましたよ」
彼はアッサリ頷いて、確かこの辺りに、と本棚の隅を指差した。そこには『魔法学基礎』と書かれた古い本が置かれていた。
僕はそれを引っ張り出して、思わず声を上げた。
「ああ、懐かしい! 捨てたとばかり思ってた」
それは僕が学校へ入った時、最初に手にした教科書だった。パラパラとめくってみると、占いのところだけ熱心に書き込みがしてあって、あとはほとんどまっさらだった。好き嫌いがはっきりしすぎていて、我がことながら笑ってしまう。
僕はそれをドゥイリオに差し出した。
「お古で汚くて悪いけれど、とりあえずここから始めよう。最初に言った通り、僕は占い以外ってほとんど出来ないから、本当に基礎の基礎だけ、ってことになるけど、入試に必要なくらいは身に付けられる……はず、だから」
確約できないところが重ねて情けない。でも、絶対大丈夫と言えるほどの自信は持てなかった。
ドゥイリオはびっくりしたようにちょっと固まった。真ん丸になった青い目が、ぴたりと教科書の表紙に釘づけにされている。それがちらりと僕の方を見て、また教科書に戻っていった。それからおずおずと手が伸びてきた。そして、なんだか神聖なものを捧げ持つかのように、妙にうやうやしい仕草で教科書を受け取る。
その顔がほころんだ――と思ったのもつかの間、次の瞬間には泣き出す直前のようにくしゃりと歪んだ。
あまりの落差に僕はうっかり硬直した。弟子入りを志願してきたのだから、教えてもらえるのは当然のことだろう? なのにどうして、こんなに感極まったような――なんなら罪悪感すら抱いていそうな顔をしているのだろうか。
ドゥイリオはわずかに震えた声を上げた。
「ほ、本当に、いいんですか? 教えていただけるんですか?」
「そりゃ、うん、もちろん。だって、君はそのために来たんだろう?」
僕の戸惑いをよそに、ドゥイリオは教科書を胸に押し抱くようにして、パッと頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします、師匠!」
頭を振り上げた彼は、いつも通りの“よく出来る子”の笑顔を浮かべていた。
僕はそれに安心するような、かえって不安になるような、奇妙な心持ちになった。けれど僕は、僕に対しても彼に対しても、曖昧な心情を追及する術を持っていなかった。
「じゃ、午後から始めよう」
「はい!」
ドゥイリオは元気に返事をして、自分の部屋に戻っていった。未成熟の細い背中が扉の向こうに消える。すぐに出てきた彼は、両手にベッドシーツと服を抱えていた。
「師匠、寝室失礼しますね」
「うん」
彼は当然のことのように、僕の部屋からも洗濯物をすべて持っていって、外に出ていった。本当にマメで真面目で、よく働く子である。礼儀もあるし気遣いも出来る。きっと孤児院でも重宝されていたことだろう。
「……教育論みたいな本、なかったかな」
僕はもう一度本棚を見つめる作業に戻った。今度は僕が見つけるんだ。
本棚の良くないところは、本がたくさんあるというところである。当たり前だと言わないでほしい。本当に良くないんだ。
うっかり没頭してしまうから。
きっちり片付けられたおかげで、今まですっかり忘れていたタイトルがたくさん目に入るのだ。この本何だっけ、と手に取ったが最後、あれもこれも気になってしまって、当初の目的など空の彼方。意識は完全に本の中――
「師匠」
「……」
「師匠!」
「おわっ」
肩を叩かれてはたと我に返った。
「お昼の用意が出来ましたが」
「ああ、うん、ありがとう」
よっこいしょ、と立ち上がった時に、いつの間にか出来上がっていた本の山を蹴倒してしまった。どかどかどさぁっ、と盛大な音を立てて山が崩れる。
それで気が付く。
僕の周りは読み散らかした本で囲まれていた。
当然ながら、教育論みたいなのを扱った本は見つかっていない。
「部屋が汚くなるのって、占いのせいだけじゃなかったんですね」
呆れの滲んだ声にも返す言葉がない。
「えーと……すぐに、片付けるから」
「俺がやっておきますよ。それより今はお昼です」
「でも……」
「温かさは分かるんでしょう? だったら、冷めないうちに食べてほしいです」
ドゥイリオの気遣いを無駄にするわけにはいかない。僕は自分の情けなさを呪いながら、「ありがとう。じゃあ、そうさせてもらうよ」と上辺だけ取り繕ってキッチンに入った。
お昼はパンとスープだった。パンは少し焼いたのか、パリッとした感じが舌先に刺さって新鮮だった。スープ――色からしてたぶん、ロンクのポタージュ――はとろみがあって、温かいだけじゃなく、包み込まれるような感触があった。
ドゥイリオは僕の分だけコーヒーを淹れると、席を立った。彼はコーヒーが苦手らしい。
「さすがに、コーヒーの味はまだ分かるな」
匂いもかろうじて分かる。淹れ方が僕より丁寧で上手なんだろう、自分で淹れていた時とは少し違って、味も香りも苦味が深まっているような気がした。気のせいかもしれないし、そう思いたいだけかもしれないけれど。判断が付かない。
他人に淹れてもらったコーヒー、というやつに、僕はなんだか特別な意味を付けてしまうのだ。それはたぶん、ドゥイリオが好きだと言ったクッキーの切れ端と同じ意味。
(……師匠が唯一、魔法以外のことで、僕のためにしてくれたことだったから)
僕が学校を途中でやめて師事した人は、稀代の変人で、超が付くほどわがままな人だった。部屋は僕よりもさらに汚いし、食事は僕よりもさらにないがしろにしていた。三日三晩飲まず食わずで研究室に閉じこもり、挙句の果てに本の山に埋もれていたのを発見した時は、本気で死んだと思って肝を冷やした。
でも、誰よりも偉大で、完璧な占いをする魔導師だった。
(『占いに完璧なんてものはない』っていつも言ってたけど。……予言者と呼ばれるべきは僕じゃなくて、師匠の方なんだよなぁ)
カーミラや他の騎士が占いを求めてくる度に、思ってしまう。
「師匠が生きていらっしゃったら、僕なんかいらなかっただろうな」
無茶な手段を取らなければ説得力を持たせられない、未熟な僕なんか。
ああやって未来を見ている僕を、きっと師匠は叱るだろう。思い切り罵って、殴って、蹴飛ばして、そして「次やったら破門だからな、破門!」と怒鳴るだろう。
怒っている師匠を思い出して、僕は少し笑った。髪を振り乱して怒る師匠の姿は、当事者にとっては非常に怖いのだが、傍から見ていると少し滑稽に映るのだ。
(……そもそも、師匠がいれば、あの時だって――)
誰も死なせずに済んだかもしれない。内紛は悪化しなかっただろう。そうすれば、僕が魔導隊を辞してここに籠ることも、ドゥイリオがここへ来ることもなかったのだ。
コーヒーを啜る。鈍った舌に苦味が染み込む。
「なんでだろうなぁ……なんで僕はあの時、しっかり出来なかったんだろう……」
この十年間、ずっと考え続けている問い。答えの出ない問い。
分かっているのは、僕が罪深い人間である、ということだけ。
コーヒーを啜る。苦い。
飲み終えたタイミングでドゥイリオが戻ってきて、食器をするすると回収していった。その手際があまりに良すぎて、手伝おうか、と言い出すことも出来なかった。
その代わりに、というわけではないけれど、僕はそのまま食卓に座って待った。食器が触れ合うわずかな音。水が跳ねる涼やかな音。窓の向こうからはムベータ鳥のさえずりが聞こえる。なんだかものすごく健康的な感じだ。久しぶりに、聴覚が削られなくて良かったと思った。
しばらくして、片付けを終えたドゥイリオが振り返った。そのちょっと不思議そうな顔に向かって言う。
「それじゃあ、勉強を始めようか」
ドゥイリオは目を輝かせた。
「はい!」
今はこの目に応えよう。苦味を抱えたまま、この若々しくて純粋な目に。浅はかな償いとしてではなく、関わりを持つことを選んだ大人として。
キッチンを出ると、本は綺麗に片付いていた。
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