第3話 猫舌の師匠


 こうやって占ったあとは、いつも同じ夢を見る。夢というか、記録の再生だが。自分が持っている中で、最も見たくない記録。最も目を逸らしたい記憶。


『教科書には“アラスタ蜂起”と書かれているんですね』


 一四九一年。元々他国だった南部地域『アラスタ』が待遇改善を申し立てて王都へ乗り込んできた。原因は堤防の決壊。決壊の予兆があったにもかかわらず工事が後回しにされ、その結果多大な被害が出たことから、人災だと判断されたのである。

 当初はまだ――和やか、とは言えないが――まっとうな話し合いだった。アラスタの代表者は人格者だったし、代替わりしたばかりの王は待遇改善に前向きだった。

 だから、師の跡を継いで占術師長になっていた僕も、安心して成り行きを見守っていたのである。これならばどうにかなりそうだ、と。


『言い訳はそれだけか?』


 そう、事態は急変する。

 アラスタの過激派集団が、会談の裏側で、王の暗殺計画を進めていたのだ。

 誰も、何も、気が付かなかった。だが、僕の占いは示した。貴き命を脅かす者が近くにいること、国の行く末が揺らぐこと、大きな犠牲者が出ること――

 僕は正しく解釈したはずだった。行動だって遅くないはずだった。王の命が危ないと進言し、そのような輩が来るならばむしろ捕らえるべきだという判断を騎士団長がして、その通りに。


 した結果。


 王の命は助かった。

 だが、彼の娘の命が絶たれた。


 その上実行犯の二人を取り逃がした。


 これをもって、王女と婚約を結んでいた貴族が激怒。彼に従ういくつかの家が私兵を集め、取り逃がした実行犯二人と計画犯の捜索を決行した。それがまた乱暴な捜査になり、アラスタ内で不満が噴出。過激派のリーダーが人を集め、煽り、ついに武力蜂起に出たのである。戦いは長引き、半年後にようやく収まった。


 これが、十年前の内紛――アラスタ蜂起だ。


 僕は何も出来なかった。王女の命が失われることも、実行犯を取り逃がすことも、後から見れば明白な予兆が現れていたのに。僕はすべてを見逃したのだ。気付いていたら対策が打てたのに! その後の悲劇だって防げたのだ!


『あなたがきちんと見てくれていたら、こんなことにはならなかったのに』


 王女の亡骸を抱えて慟哭する王の悲痛な叫びが、まだ耳に残っている。

 内紛に巻き込まれて家を焼かれ、泣き喚く子どもの声が。

 アラスタ出身というだけで迫害され、自殺した学生の嘆きが。


『返せ、俺の家族を。返してくれ!』


 僕は取り返しのつかないことをしたのだ。僕のせいで一体何人が死んだだろう。何人が苦しんだだろう。何人が消えない傷を負っただろう。

 黒い炎が押し寄せてきて、僕の体を焼く。


『――できるかぎり、苦しんで死ね』


 起きたくない、と思いながら目を覚ました。


 窓から黄金のように輝く西日が射し込んできている。寝室だ。カーミラが運んでくれたのだろう。ああ見えて筋肉モンスターだし、魔法も使えるから、そう手間はかけなかったと思うけれど。


「はぁ……」


 だるい。眠い。気持ち悪い。頭痛い。体が重い。いつもの五重苦だ。嫌になる。また生き延びてしまった。

 僕は目を瞑り、ゆっくりと寝返りを打った。申し訳ないが起き上がる気にはなれない。

 暴走させた魔力はちょっとした劇薬・・で抑えられる。もちろん、本来ならば緊急事態における例外措置だから、副作用はなかなかキツい。具体的に言うと、三日間眠りっぱなしになる(運が悪ければそのまま永眠することになる)うえ、五感の一部が削られていくのだ。

 僕の場合、それは味覚と嗅覚だった。


(そろそろコーヒーと紅茶の見分けも付かなくなるかな……)


 もともと食事に対するこだわりなんか持ち合わせていない。だからどうでもいいといえばいいのだが、コーヒーが分からなくなるのは少しだけ嫌だった。

 だからといってやめるつもりもないけれど。

 意識を失う直前のことを思い返す。最後の予言だけはできなかった。あの時見たはずの光景ももう覚えていない。


(あのカードは『思わぬ轢死』で……背中から来たから、逆位置だ)


 ということは、そう悪い結果にはならないはずである。『思わぬ轢死』の正位置は“自分で自分の首を絞める”だ。その反対ということは……。


(……ちょっとだけ、嫌な予感がしないわけではないんだけど)


 それでも、最低限のことは伝えられたはずである。あとはカーミラたちの実力を信じるほか、僕にやれることは何も無い。それは分かっているのだが、どうしてもモヤモヤとしたものが心にわだかまる。体調が悪くなるせいもあって、未来を見たあとはいつもこうなるのだ。体と同じくらい、心が重い。

 溜め息。


(さーて、もう少し寝よう、っと)


 欠伸をして寝る体勢になる。

 ――なったその時、寝室の扉が遠慮がちに開かれた。

 僕は一瞬びくりとした。物取りかと思ったのだ。こんな山奥にわざわざ押しかけてくる強盗なんているもんか、いやいないとは言い切れないか、もしそうだったら今の僕には何も抵抗できないし、しかもちょうどカーミラからの仕事で報酬が入った直後を狙ってくるとはなんて運のいい強盗なんだろうか――とまで考えて、ふと正気に戻る。

 今は一人暮らしではなかった。


(そうだった……しまったな。彼のこと、すっかり忘れていた)


 自己嫌悪と罪悪感を覚えながら、ゆっくりと上体を起こす。すると、ドアノブを掴んだまま呆然と立ち尽くしたようにしていたドゥイリオと目が合った。


「あー……おはよう?」

「……師匠」

「悪いね、放っておいてしまって。なにか不都合はなかったかな」


 ドゥイリオは深くうつむいて、ふるふると首を横に振った。ドアノブを握ったまま、入ってこようとしない。その態度に僕は察した。


「どこか別の働き口を紹介するよ。きちんと学べるようなところで――」

「いえ!」


 激しい声に遮られて、僕は口をつぐんだ。


「いいえ、ここにいさせてください。……師匠の、お邪魔でなければ」

「……僕は別に構わないけれど」


 そう言うと、ドゥイリオはホッとしたように微笑んだ。それからようやく扉を開けきって、ドアノブを離した。


「何か食べますか? すぐに作りますよ。簡単に食べられて胃に優しいものがいいですよね。リゾットとかでいいですか?」

「なんでもいいよ。任せる」

「分かりました。では、すぐに」


 彼が出ていくときにちらりと見えた客間兼仕事部屋は、また綺麗に整えられていた。本当にきちんとしている子だ。


(……明日から本格的に、教えてあげないと)


 現状を鑑みると、彼は弟子でなく家政婦だ。したがって僕も師匠でなく……なんだろう。気分的には介護されている感じだ。どう考えても、このままではいけない。彼がここへ来た意味がないし、僕が受け入れた意味もなくなる。

 彼がここにいたいと望むだけの価値を用意しなくては。


(新人教育なんて久しぶりだ。……参ったな、良いテキストがないかもしれない)


 それに“新人教育”といっても、学校を出た新兵とは勝手が違うのだ。相手は完全な素人。初心者向けの書籍なんか持っていただろうか。知識と実技、どちらから入った方がいいだろうか。そもそも読み書きは大丈夫なんだろうか。家事を全部任せきっているのに、勉強も始めたら、負担が大きくないだろうか――

 などと、一度考え始めたら止まらなくなった。少し遅いかもしれないが、ようやく僕の頭は“弟子”というやつを理解したようだった。おかしな話だ、僕だって昔は弟子だったのに。 “弟子になること”と“弟子を取ること”は随分と違うらしい。

 僕はなんだか妙な気分になって、こめかみを掻いた。



 弟子の教育計画をつらつらと考えている内に、ドゥイリオは戻ってきた。片手で器用にトレイを支えて入ってきた彼は、僕の顔を見てふと眉の辺りを陰らせた。


「どこか痛むのですか?」

「え?」

「なんだか難しいお顔をしていらっしゃったので……」

「ああ、いや、別に。体調はもう大丈夫だよ」


 やや疑わしそうな顔になりながら、ドゥイリオはトレイをサイドテーブルに置いた。そしてテーブルごと動かして、ベッドのすぐ脇に置いてくれる。


「ありがとう。助かるよ」

「いえ」


 リゾットはちょうど良い温度だった。味は分からないけれど温かさは分かるし、嗅覚は味覚ほど削られていない。僅かに届く柔らかなハーブの香りは、確かな味を保証している。

 だから「美味しいよ」と言ったら、ドゥイリオは首を傾げた。


「師匠は、味が分からないのでは……?」

「あれ、そのこと、君に話したっけ」


 ドゥイリオはふと視線を落とした。口元に迷うような色が浮かんでいる。


「カーミラがしゃべったのかな」

「えっ、あ……」


 弾かれたように顔を上げて、しばらく瞳を宙に彷徨わせてから、ようやく彼は頷いた。第三者から聞いてしまったことを気に病んでいたのだろう。真面目な子だ。

 僕は安心させるように笑った。


「いいよ別に。もともと隠していないのだし、誰から聞いたところで事実は変わらないのだから」


 ドゥイリオの肩から力が抜けた。ごくごく小さな感謝の言葉を、僕は聞かなかったことにする。リゾットを口に運ぶ。義務感以外の気持ちで食事をするのは久しぶりだった。

 気遣うような上目遣いが僕を窺った。


「……どれぐらい、分からないのですか」

「味はもうほとんど無理かな。鼻はまだ平気。だから、これがきっと美味しいんだろうなってことは分かるよ」

「温かいとか、冷たいとかは」

「それは分かる。猫舌だから、何でもあまり熱くしないでもらえると助かるな」

「分かりました」

「君は?」

「え?」


 ドゥイリオはぱちりと瞬きをした。


「嫌いなものとか、好きなものとか。ないことはないだろう?」

「あ、ええと……嫌いなものは、たぶん、ないんですが……好きなものは……」


 少しだけ考えたと思ったら、彼は急に頬を赤くした。


「その……孤児院の先生が、特別な時にだけ作ってくれる、クッキーがあるんです。それ……それの、切れ端が……」

「切れ端?」

「はい。手伝うと、余った材料を全部まとめて焼いたのをくれるんです。それが、すごく……めちゃくちゃなんですけど、特別な感じで、美味しくて……」

「そう。それはいいね」


 初めて年相応の顔を見たような気がした。それがなんとも子どもらしくて、うっかり頬が緩む。

 だがドゥイリオはそれが気に入らなかったようで、ちょっと視線を尖らせた。


「子どもっぽいって、そう思ったでしょう?」

「ぽいもなにも、君はまだ子どもだろ?」

「そうですけど……」


 ドゥイリオはまだ不服そうだったが、僕はそれ以上何も言わなかった。特別な思い出の味を持っていることは誇ってよい、それが支えになることもあるのだから――と思ったけれど、なんだかあまりに師匠然とし過ぎた言葉に思えて、なんとなく口にできなかった。

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