第32話


 車が停まったのは、明かりの灯らないコインランドリーの駐車場。オープン前の店舗だった。


 どうしてここなのかと、不思議そうに島津の横顔を見遣る菊を、島津は一度も見ようとはしなかった。


 ただ、エンジンを切ると、シートベルトを外し、ハンドルに持たれるように島津は俯いていた。


「………」


 菊は暗がりの中で不安を圧し殺しながらシートベルトを外して、太股の上でぎゅっと握った拳に視線を落とした。


 不安だったからこそ菊は黙っていられず、心のままに、ゆっくりと丁寧に言葉を紡いだ。


「…私を助けたくて支援をしてくださったのならなおさら、私は貴方の恩に報いたいんです。あれほどの支援に甘んじてばかりはいられません。キッチンカーが軌道に乗ったら、必ず、お金は少しずつでもお返しします。」

「………」

「でも、貴方に頂いた大恩は、お弁当を買いに来てくださったお客さんたちに、真心として差し上げていきたいと、今は心から思います。」

「………」

「そう思えたのも、貴方の優しさに触れたから。『ころりん』が解体されているときに貴方に声をかけてもらったから。何度も腐りかけてた私に声をかけてくれたから。叱咤してくれたから。「いいね」をたくさんくれたから。支援をたくさんしてくれたからっ」

「………」

「全部、貴方の優しさだったから!だから、」


 黙って聞いていた島津は、いつの間にか顔を上げ、真っ直ぐ菊の横顔を見つめていた。

 その視線に気がつき、菊は島津を見遣る。


「………」

「………」

 

 お互い視線を外すことができなかった。


 だが菊の瞳はどんどんと潤んでいき、島津の顔がぼやけてよく見えなくなっていった。


 菊は涙と共に溢れる情を抑えられずに唇を震わせた。


「私、貴方が好きだったんですっ、こんなに人を好きになったことなんてないから、どうしていいのかわからないけど、…たくさん支援してもらったから好きとか、現金すぎですよねっ」

「はは、」


 泣き声で捲し立てられ、思わず島津は吹き出した。


「何がおかしいんですか!」


 泣きながら怒る菊の頬に、島津は両手を伸ばした。

 そして菊の涙をそっとぬぐい、


「キスしても、いいですか?」


 低い声で静かに問った。


「そんなことどうして聞くんですか!」

「ははは、」


 若干パニックになっている菊を、島津は笑いながらゆっくりと抱き寄せた。

 そしてそのまま菊を上向かせ、唇を重ねる。


 一度離れて再び重なる唇が熱い。



 唇が離れた途端に、菊は声をあげて泣いた。

 子供のように泣く菊を再び抱き寄せて、島津は菊の背中を優しく擦る。


 しゃくりあげる菊の背中はひどく震えていた。


 島津は、宥めるように、優しく穏やかな声で菊の耳元で静かに語を連ねた。


「……俺は、あなたが俺を知るよりもずっと前からあなたを知っていましたし、あなたの笑顔に何度も救われてきました。」


 島津の、菊を抱く腕に力がこもる。


「あなたに一目惚れしたときから、あなたの力になりたかった。あなたの支えになりたかった。俺のやったことに報いたいと言ってくれるのはありがたいけど、俺は、あなたの力になれたことで、もう報われているんですよ。」


 島津の腕の中で菊は、いっそう激しく泣きじゃくった。


 島津はそんな菊の肩に顔を埋め、


「あなたが好きです。瀬戸さん。おそらく、あなたが思うよりもずっと。」


 島津の声はわずかに震えながらも熱く、確かに菊の心へと染み込み溶けていった。





     ※ ※ ※


「お母さん!早く早く!早くしないと『ころりん』のおむすび無くなっちゃうよ!」

「ちょっと陽菜、そんなに走ったら転けるよ!」

「だって急がないと!ほらお母さん早く!」


 小さな街を走る小さなキッチンカーは、今日も人々に笑顔を届ける。

 

 昨日よりも少しだけ幸せな今日のために、菊は笑顔でおにぎりを握った。


「いらっしゃいませ!いつもありがとうございます!はい、陽菜ちゃんの好きな昆布入りだよ!」

「わあ、ありがとう!」


 小さな手に乗せられたおむすびは、じんわりととても温かかった。



                了




 



 

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