第30話
午後6時。
菊は、墓苑側にある、小さな寺の境内へと登る階段脇に座っていた。その寺は無人らしく、境内を見上げてみても静まり返ってガランとしている。
墓苑もこの時間になると花を手向けにくる人もなく、辺りは静寂に包まれていた。
ただ時折カラスの声がして、菊は何度か空を見た。
その度に、空はどんどん薄暗くなっていく。
既に太陽は西の彼方に消え去っていた。
「…はあ。」
重い息を一つ吐き捨て、菊は鞄からスマホを取り出す。そして画面をタップしては何度もメールを開いてみた。
数日前に届いた『アウローラ』からのメールには、午後6時半にはこちらへ到着できる旨が記されている。それは何度読み返してみても変わらない。
菊はスマホを鞄に戻すと、何度目ともしれない深呼吸をした。そして小さく呟いた。
「……怖いな。」
家を出る前からずっと緊張し続けている。
心臓はずっと早鐘を打っていた。
神経は痛いほど張り詰めており、身体の芯は冷え、胃はキリキリと激しく痛む。
(早く来て欲しいけど、…会うのが怖い。)
左右に激しく揺れ動く想いに翻弄され、菊は固く瞼を閉じた。
どれくらいの時が過ぎた頃か。
「………!」
不意に、墓苑へと続く道の、砂利を踏みつける音が耳に響いて、菊は恐る恐るそっと目を開けた。
刹那目は見開かれ、そして息を詰まらせた。
「…あっ」
息を吸ったのか声をかけたのか、自分でもわからなかった菊は慌てて立ち上がる。
「…島津、さん、」
その声に、薄暗い中現れたスーツ姿の影は、墓苑入り口の外灯に照らされて立ち止まった。その手には白い花の束が握られている。
「島津さん、」
『アウローラ』は、やはり島津だった。
その事実は、菊の緊張を熱く煽り、心臓を何度も跳ねさせた。
顔に血液が集まっていくのがわかる。
そんな菊の震える声に、島津は一瞬視線をさ迷わせたが、すぐさま菊を捕らえて真っ直ぐに見据えた。
しかしその顔には、いつものあの穏やかな微笑みがたたえられていない。
「……あの、」
普段とは雰囲気が違う。その疑念が、にわかに菊の言葉を詰まらせた。
それを敏感に察したのか、刹那、島津はいつものように穏やかに微笑んだ。
「すみません、お待たせしました。」
「…あ、いえ、」
咄嗟にはうまく声が出せなかった。
菊は口淀み、歩み寄るべきか迷って足元へと視線を落とす。
「もうお墓に参られましたか?」
すると少し離れた位置で島津はいつもの低い声で問ってきた。
その声に、菊は何度も頷くことでしか応えられなかった。
「…っ」
ただただ激しい拍動で心臓が痛かった。
胸に手を当て、眉根を寄せる。
俯いたままの菊は今、息をするのがやっとだった。
しかし、
「………。じゃあ、僕もちょっと行ってきますね。」
そう言った島津の声が、少し上擦ったように聞こえた。
「……!」
慌てて菊は顔をあげたが、既にそこには島津の姿はなかった。
(どうしよう、私、感じ悪かったかもしれないっ)
困惑が熱く目頭を刺激する。
朝から続いた緊張のせいで、菊は正常な判断が難しい状態に陥っていた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)
答えのない不安に苛まれ、菊は小さく震えながら口を押さえた。
追いかけなくてはいけないと思っても、足は一歩も前に出ない。
(それでいいの?私はそれでいいの?)
菊はもう一度固く目を閉じて、歯を思いっきり噛み締めた。
「……違う、違う!」
自分の感じの悪い態度で嫌われたとしても、受けた大恩には報いたい。報いなければならない。
その強い意思は、菊の顔を前へと上げさせた。
菊は急いで服の袖で滲んだ涙を拭うと、動かない足を拳で何度も叩いた。
そして、
「島津さん!」
菊は声の限り叫び、転がるように走り出した。
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