第29話
『ころりん』初代社長は、菊がクラウドファンディングを行い、『ころりん』のおむすびを復活させようとしていたことを、知らなかった。
「ただ、今朝息子から、人が訪ねてくるかもしれないから失礼がないように、とは言われていたんだよ。それがまさか菊ちゃんだったとはね。息子も粋なことをしてくれるねぇ。」
「…はは、…そうですね。」
菊は曖昧に笑いながら、必死で困惑を圧し殺そうとしていた。
(『アウローラ』さんは、あの『2代目』なの…?違う。きっとそんなはずがない。)
一抹の不安を抱え、太股の上で拳をぎゅっと握る。
それでも接客を目指すものとして、菊は凛と背を伸ばして顔をあげていた。
「それで社長、今日お伺いしたのは、」
そしてはっきりとした声で、『アウローラ』の希望したリターンである出張販売に向け、まず試作品を持ってきた旨を伝える。
伝えながら、傍に控えておいた保温バッグを開け、現物の弁当を取り出すと、立派な木目のテーブルの上に置いた。
「お口に合えばいいんですけど、」
「なに、菊ちゃんの腕は紀子の折り紙付きだから、心配はしてないよ。」
そう言って初代は割り箸を割り、「いただきます」と両手を合わせる。
「うんうん、うまいうまい。」
初代は菊の弁当を、とても喜んで全て平らげた。
そして食べ終えると、初代は徐に立ち上がり、奥の部屋へと向かった。すぐさま戻ってきたときには何やら黒革の手帳を手にしていた。
「まだわしの顔が利けばいいんだけども、申し訳ないがそれは約束できない。それでもやっぱり交渉は有利な方がいいからね。」
初代は、手帳を開き、一枚ちぎると菊に差し出す。そこには、『ころりん』時代に懇意にしていた米の卸し問屋の連絡先が記されていた。そして海苔や佃煮の卸し問屋の連絡先も同じく記して菊に渡す。
「わ!ありがとうございます!助かります!」
喜びの中で菊は笑顔のまま頭を下げた。
すると初代は、不意に大きく息を吸い込み、身を正す。その顔からは穏やかな老人のそれを捨て去っており、
「瀬戸菊さん、どうか、紀子と二人で築いてきた『ころりん』の名を、引き継いでやってくれませんか。」
初代社長としての威厳を保ったまま、深く頭を下げた。
「そんな!社長!頭をあげてください!」
菊は慌てて初代に頭をあげるよう懇願しても、初代は頑として頭をあげなかった。
「どうか、どうか、」
「もちろんですから!社長!そのために、今日まで頑張ってきたんですから!」
「ありがとう、菊ちゃん。ありがとう。」
顔をあげることができない初代のしわだらけの手は、溢れる幾つもの涙で濡れていった。
菊も呼吸が乱れるほどの嗚咽を漏らす。
そして菊は初代の手を取り、二人は日が沈むまで静かに泣いていた。
※ ※ ※
心臓の拍動が、朝からずっと忙しない。
空気がうまく吸えなくて、菊はずっと泣きそうな顔をしていた。
とある水曜日。午後5時半すぎ。
菊は、初代から教えてもらった紀子の墓の前でしゃがみ込み、花を手向けていた。
(…紀子さん、遅くなってすみません。)
そしてそっと手を合わせる。
紀子は「菊」という名がとても好きだと言っていた。
だから今日はいろんな種類の「菊」を買ってきた。
その色とりどりの花を見つめながら、菊は高鳴る鼓動を押さえきれずにそっと胸に手を当てた。
※
数日前。
初代の家を出て車に戻ると、菊はすぐさま鞄からスマホを取り出した。
【お世話になります。瀬戸菊です。
本日、アウローラ様のご希望されました出張販売に向け、打ち合わせもかねて白石様宅へ試作品のお弁当を持参しました。】
事後報告を入力し、だがその後、指が止まる。
心臓が痛いほどの拍動を刻み、息をすることさえも困難だった。
それでも、意を決して菊は再びスマホに文字を刻む。
【あなたが望んだリターンさえも、私のためだったんだと今日、改めて気がつきました。
これほどの大きな恩恵に、私はどうすれば報いることができるのですか?
できれば、せめて、直接会ってお礼を言わせてくださいませんか?】
その日の夜遅く、菊のスマホがピロリンと鳴った。
うつらうつらとしていた菊は、慌てて飛び起き画面を見遣る。そこに届いた一通のメール。
「……!」
電気をつける余裕もなかった。
息を飲み、震える指でメールを開く。
【お疲れ様です。連絡ありがとうございます。
私のリターンを叶えてくださり、ありがとうございました。
私への謝意はそれで十分です。
ただ、もし私の願いをお聞きくださるなら、一つ。
来週の水曜日は、白石様の奥様の月命日です。よろしければ、お墓参りにご一緒していただけませんか?】
文面の途中から、スマホの画面が揺らいで字がうまく読めなかった。
「…アウローラさん、…アウローラさんっ」
アウローラの心根の優しさが、乾いた大地に染み込む水滴のように、菊の心にじんわりと広がっていくのがわかる。
「アウローラさんっ」
暗い部屋の中で一人、声を殺して小さく震えながらただただ菊は、瞳が溶けるほどの熱い涙を流し続けた。
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