第23話


 小料理屋『あや』でのアルバイトは、人脈を広げる手段だったのだと、勤めはじめて2週間経った頃に、菊はようやく気がついた。


「おや女将。珍しいね、若い子を入れるなんて、」

「ああ、「菊さん」て言うのよ。近いうちに彼女、お弁当屋さん始めるから懇意にしてちょうだいね。源さんとこの若い職人さんたちにも声かけておいてよ。」

「そりゃもちろん。しかし楽しみだね。いつオープンなんだい?」

「今、資金集めの最中だから、ほら、菊さん、何て言ったっけ?クラウド、」

「あ、はい、クラウドファンディングです。今、クラウドファンディングで支援してくださる方にご協力をいただいているところで、」


 亜矢子に声をかけられて、小鉢に小松菜の和え物をよそっていた菊は振り返り、にっこり笑って源さんと向き合った。



 こうして亜矢子に常連客を紹介してもらう中で、ある日、息子と一緒に来ていた中年男性に、


「で、今はどんな調子なの?進捗状況とかって俺ら知ることできねぇのかね?SNSとかでさ。アンタも若いんだし、そういうの利用しねぇと。こいつなんかほら、スマホ手離さねぇからよ、情報発信結構大事なんじゃねぇか?」


 息子の頭をポンポン叩きながら、不思議そうに聞かれた。


「…あ、本当だ。」


 中年男性の前の空いた皿を下げながら、菊ははっと目を丸くして男性を見た。


 なぜ気がつかなかったのか、まさに目から鱗だった。この時はじめて、菊はSNSの存在に思い至った。



 次の『あや』手伝いの日。

 菊は、SNSを始めたから『あや』の写真をアップしたいと願い出ると、亜矢子は二つ返事で了承してくれた。


「アタシ、こういうの詳しくないんだけどさ、そもそも何を載せるの?」


 亜矢子は菊のスマホを覗き込みながら不思議そうに問う。


「基本的にはクラウドファンディングの進捗状況と、あとは現在の活動内容とかかなって考えてます。惣菜メニューはこういうのを提供したいです、とか、こういうキッチンカーを購入予定です、とか。」

「へー。面白いね。ついでに『あや』の宣伝もしておいてよ。」

「はい!もちろんです!」


 菊は満面の笑顔で頷いた。


 

 SNSを始めて一週間が経った頃。

 菊の記事に「いいね」が一件、必ず付くようになっていた。

 「いいね」を押してくれたアカウントを確認すると、朝焼けらしきアイコンの『アウローラ』という人物だとわかる。


「誰なんだろ。」


 全く身に覚えがないだけに最初は気にも止めていなかったが、日が経つにつれて、菊は『アウローラ』の「いいね」に少しずつ励まされていることに気がついた。



「あ、今日も『アウローラ』さん、「いいね」くれたんだ。よかった。」


 それは多忙な日々において、菊の密かな癒しであり楽しみとなっていった。


     ※ ※ ※ 


 梅雨入り前だというのに、その日は朝から雨が降っていた。夜になり、闇に飲まれた街のアスファルトは濡れて、街灯に照らされるとテラテラと光る。


 そんな街灯の下で、ただ立ち尽くしていた。


「………」

 

 鞄に忍ばせていた折り畳み傘は、思いの外小さい。そのため革靴の中はずいぶんと濡れている。


「………」


 打ち合わせが終われば、すぐに帰るつもりだった。

 だがこの地域に来る毎週水曜日には、気がつけばこの小料理屋の前を通ってしまう。


(…まるでストーカーだな。)


 自身の行いに失笑が漏れた。


「………」


 そもそもあれほど傷つけておいて、今さら顔を出すつもりなど毛頭ない。

 

 雨が一段と強くなる。

 小さい傘を目深に差した。

 早くここから立ち去らねばと思うのに、きっとこの雨が、自分の鬱々とした感情を醜くなぶっている。


「ちょっとお客さん、いつまでそこにいるつもりなの?入りたいんだろ?」


 不意に女の声がして、島津は顔をあげた。


「ほら、今日はお客さんもいないし、雨宿りがてら、寄っていけばいいよ。」


 女将らしき女は、夜にも雨にも負けることなく、快活に笑った。


(…今日は、雨が降っているから、)


 そんな言い訳を抱えて、島津はゆっくりと一歩踏み出した。



 暖簾をくぐると、カウンターキッチンには先程の女が一人、立っていた。

 だがそのさらに奥へ、島津は自然と視線を投げていることに、島津自身は気がついていなかった。


「菊さんなら今日はいないよ。何かの講習を受けなくちゃいけないからって休んでるよ。」


 そう声をかけられて、刹那島津は顔を曇らせた。だがそれも一瞬で、島津は即座に笑って「そうなんですか。」と乾いた低い声で答えた。


「…何か飲むかい?一杯だけなら奢ってあげるよ。呼び込んじゃったしね。」


 島津が席に座ると、女将は屈託なく微笑みながら、小鉢に入った付け出しを差し出した。


 付け出しは酢漬けのミョウガの和え物だった。鮮やかなピンク色が胃を刺激する。


 手を合わせ、綺麗な所作で島津はそれを口にした。


「美味しいですね。」

「だろ。アタシが教えて、菊さんが漬けたのさ。夏場でも傷みにくい酢漬けのメニューは弁当販売に役に立つかもしれないからね。」

「………。そうですね。」


 島津は張り付いたような完璧な笑みを浮かべて、再び箸を進める。だが、


「…あんたは、見た目にそぐわず不器用な男だね。」


 不意に言われた。

 その女将の言葉に、島津は箸を止め、顔をあげる。


 女将はそんな島津をじっと見つめたまま、少し哀れんだように眉根を寄せた。


「伝えたいと思っていても、その手段を間違えば、何一つ伝えることなんてできないんだよ。」

「もちろん、知っていますよ。」


 この期に及んで穏やかに微笑む島津に、女将はそっと息を一つ吐いて、この店で一番度数が高く高価な酒をそっと島津の前に差し出した。


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