第20話
4月。
久しぶりに『武田モータース』を訪れた菊は、少し痩せていた。
松原はそれに気がついたが、何も言わなかった。
「おー、どうした菊ちゃん、ちょっと痩せたんじゃないか?ごはん食べてるか?」
恰幅のいい武田社長は菊の父親よろしくデリカシーに欠ける。知っていた菊は苦い笑みをこぼした。
話を反らすためも含めて菊は、本来の目的を武田社長に切り出した。
「社長、…あの、今日、キッチンカーをちょっと見せてもらってもいいですか?」
「もちろんだよ!でも早く菊ちゃんが買ってくれないと車も寂しがるよ?」
「………」
菊は曖昧に笑う。
流石に思うところがあった松原に小突かれて、武田社長は大袈裟に肩を竦めた。
それを見て菊は可笑しそうに笑った。
それでもやはり顔に陰が差すことは、松原も武田社長も気がついていた。
※ ※ ※
あのキッチンカーは、武田モータースの整備工場内の一番奥で、銀色のカバーを掛けられていた。
それを剥ぎ取ると、見覚えのある可愛いフォルムが姿を表す。
武田社長は菊に、見やすいよう、車を表に出すことを提案した。だが菊は緩く首を横に振って断った。
「そうかい?まあ、今日は整備も少ないし、菊ちゃんも久しぶりに来てくれたんだ。心置きなく見てっていいからね。」
「ありがとうございます。」
武田社長はひらひらと手を振りながら、気を利かせたのか早々に立ち去っていった。
薄暗い工場内に一人残された。
辺りからは何かの機械のエンジン音と油の匂いが立ち込める。
菊はそっとキッチンカーに近寄り、その車体に触れた。
鉄の冷たさは、菊の手の温もりにも溶けずにいつまでも手に冷たい。
「……やっぱり可愛い。」
このキッチンカーを初めて見たときの興奮は、ここに立てば昨日のことのように思い出す。しかし、家に帰るとその気持ちを思い出すことは難しい。
それでも、こうしてキッチンカーを目の当たりにすれば、やはり心がざわめく。
(…やっぱり、諦めきれない。だけど、)
せめぎあう思いの狭間で、菊は両手をキッチンカーにつけたまま、固く瞼を閉じた。
「このキッチンカーの前のオーナーさんの話はしましたっけ、」
不意に声をかけられ、菊は慌てて振り返る。
そこに居たのは、黒いツナギを着た松原だった。松原は汚れたタオルで手を拭きながら菊の真横に立った。
菊は車体から手を離し、松原を見上げる。
松原はそんな菊を一瞬見下ろした後、すぐさま視線をキッチンカーに投げて、言葉を紡いだ。
「前のオーナーさんはご夫婦でサンドイッチの移動販売をされておられた話はしましたよね、」
「はい。」
「そもそも移動販売自体がご主人さんの夢だったらしくて、しかも奥さんのサンドイッチが絶品だからって、かれこれ15年近く前にご夫婦でこのキッチンカーを始められたそうですよ。」
「…へえ、素敵ですね。」
「ですね。けど、一昨年ぐらいにご主人さんがご病気になられて、それで、辞められたそうです。」
「……」
「ご主人さんは続けてほしかったみたいですが、奥さんが運転ができなかったのと、あまりにもご主人さんとの思い出が詰まっているから、自分はできないと奥さんがおっしゃられて、」
「…そうだったんですね。」
「けど、このキッチンカーを手放す時に、奥さんがしきりに言われていたのは、『お客様に真心を差し上げたいと思われる方にお譲りしたい』ってことでした。」
「…真心、」
菊の言葉に、松原は照れくさそうに頭をガシガシ掻きながら、「真心とか、俺のガラじゃないですね」と笑った。
菊は力強く首を横に振る。
松原はそんな菊に視線を投げた。そして一瞬口を開きかけて閉じる。だが次の瞬間には黒い瞳に強い光を込めて、言い淀むことなく言った。
「キッチンカーはそんなに儲かる仕事ではありません。企業からの委託販売ではない場合は、知名度がない分、販売に苦労すると聞きます。それでも、キッチンカーで働く方は、少なくとも俺の知る限りでは、とても楽しそうに仕事の話を聞かせてくれます。」
菊は、そんな松原の黒い瞳を直視できずに、視線をキッチンカーに向けた。
「わかる気がします。」
「個人事業主になるから、全ての責任を負わなくてはならないし、資材なども含めた仕入れや出店場所の確保も全部自分でしなくてはいけない。…正直俺は、雇われてる方がよっぽど楽だとも思ってしまう。」
「けど、」と言いかけて、松原は言葉を飲んだ。
菊は、松原の言わんとすることを察して、しかしその先を口にする勇気もなく、二人はしばらく黙ってキッチンカーを見つめていた。
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