第19話


 送ると言った島津を無視するように、途中まで歩いて帰った。

 とはいえ、自宅から反対方向にあった店だっただけに、歩くだけでは家にたどり着けない。仕方なく、乗ったことのない方面のバスに乗る。


 車内の明るさに一瞬目が眩んだ。暗い外に対比するこの明るい車内で泣くわけにはいかないと強く思う。


 菊はずっと唇を噛み締めたまま、好きでもない流行りの歌を脳の中でエンドレスに流し続けた。


「ご乗車ありがとうございました。」

「…ありがとう、ございました。」


 小さな声でバスの運転手に礼を言い、バスを降りる。乗り換えのためだ。

 次のバスまで少し時間がある。辺りを見渡すと、少し離れた道路向かいにコンビニがあった。


 むしゃくしゃした気持ちをもて余していた菊は、足早にそのコンビニに向かった。コンビニで、度数の高さのみに着目して缶酎ハイを一本、適当に手に取る。


 レジに並びながら財布を取り出す段になって、菊は持ち金の全てを島津に叩きつけたことを思い出した。


「……はぁ。」


 ため息が漏れる。


 菊は苛立った思いを抱えたまま、缶酎ハイを冷蔵ケースに戻した。



 バスに揺られて10分。

 ようやく帰宅してすぐ、冷蔵庫を開けた。

 奥の方に隠すように置いてある、父親が買い置きしていたらしき最後の一本のビールを取り出す。そして迷いなくプルトップに爪をかけた。


 つまみも食べずに立ったまま、腰に手を当て一気に飲み干した。


「あー!お前!それは俺の週末用に取ってたやつじゃねぇか!!」


 風呂上がりの父親が聞いたこともない悲痛な声を上げたが、菊は振り向くことさえもしなかった。


     ※ ※ ※


「おはようございます!今日もよろしくお願いします!」


 土曜日からのスーパー中松惣菜コーナーでの仕事。菊はいつもの1、5倍大きな声で挨拶した。

 

 早番のパート従業員は一様に眉をひそめたが、菊は気にすることなくいつものようにエプロンをきつく結んでフライヤーの前に立つ。


 山ほどのブラジル産の鶏モモ肉の切身を次々唐揚げにした。


 一昨日までは、時間給の菊は、時間内に自分の仕事を終わらせばいいと思いながら作業していた。


(まずそこを改めよう。)


 時間内にできることは積極的に取り組んでいく。


「これ、洗っておきますね!」


 他の作業台で出た洗い物は率先して洗い、


「それ、私が出しますね!」


 出来上がった商品の品出しもどんどん行い、


「いらっしゃいませ!」

 

 店頭に出れば元気な声を出す。


 これが空元気だとしても、端から見て無気力判定される仕事だけはすまいと心に誓っていた。



 そんな日々が一週間ほど続いたある日。


「瀬戸さん、ちょっといいかしら?」


 ずっと自分の存在を無視していた二ノ宮に声をかけられた。


「あ、…はい。」


 事務所へと促され、菊は緊張した面持ちで先をいく二ノ宮についていく。

 そして狭い事務所で二人は向かい合わせに立った。


 菊は目の前に立つ二ノ宮が口を開くのを、お腹の辺りで手を組んでじっと待っていた。手はジワリと汗ばむ。

 

 菊はこの時、心のどこかで、最近の自分の働きを目にかけてもらえたのかもしれないと、俄な期待を抱いていた。しかし、


「あなた、最近張り切っているようにお見受けするけど、どういうつもりなのかしら?時給アップを期待しているなら、付け焼き刃の頑張りでは焼け石に水だってことぐらい、わからないわけではないと思うのだけれど?」


 二ノ宮は、人の良い笑顔を浮かべながらも呆れたように顎を上げ、菊を見下した。


「…っ」


 菊は、営業スマイルさえも維持できずに、ゆっくりと俯きながら、それでも絞り出すように口を開いた。


「…そんなつもりは、ありません。」

「じゃあどういうつもりなのかしら?今までやる気がなかった人が急に張り切ると、みんな、びっくりして普段のペースが乱されるのではないかしらね?協調性ってご存知?一人であんなに張り切られたら困りますって、おっしゃる方もあるんですよ?」

「…はい。…すみませんでした。」


 日頃の行いは、澱のように人の心にも確実に積み重なっている。

 その事実に菊はただ言葉を失う。それしかできない。絶望をそっと奥歯で噛み締めた。


「………」


 気がつけば菊は、下ばかり見ていた。自分の足元の安全靴ばかり見ていた。その靴が歪んで見える。


 泣いては駄目だと、手のひらに跡がつくほど強く爪を押し当てた。


     ※ ※ ※


 次の日。

 

「あらまあ島津さん!どうされたの?」

「今週金曜に無事オープンの運びとなりましたので、お世話になりました皆様へご挨拶に参りました。」


 店頭で、二ノ宮や複数のパート従業員に囲まれた島津が、いつもの穏やかな笑みをたたえて挨拶を交わしている。


 フライヤーの前に立つ菊は背を向け、無表情のまま、ただ黙々と油の中に鶏肉を投入し続けた。



 


 

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