第18話


 思ったよりも敷居の高くなかったイタリアンレストランのメインディッシュは、雲丹を使ったソースのかかったニョッキだった。


 しかし、ほとんど面識のない島津との食事ということもあり、菊に料理を味わう余裕など全くなかった。


「…当たり前だよな。」


 それは島津にも確かに伝わっていた。

 

 そもそも島津には、菊の好みを探る術はなかった。

 未だに探りきれずに、菊が化粧室に立った時、島津は店員を呼んで頼んでいたワインをキャンセルした。

 ついでにデザート等も全てキャンセルした。


「…これは完全に俺のエゴだな。」

 

 用件だけを伝え、早めに解放することが菊のためであることは、島津には本当は最初から、わかっていた。


    ※ ※ ※


「クラウドファンディング?」

「そうです。銀行等での融資ももちろん検討されておられると思いますが、あなたのようにお弁当販売で地域に貢献するとなれば、クラウドファンディングが有効なのではないかと思います。キッチンカーもレンタル等があって、」


 菊が化粧室から戻ると、イタリアンレストランの木目調のテーブルの上に、島津は次々と書類を並べ、商談よろしく的確に説明をし始めた。

 

 キッチンカーでの移動販売における資金の試算から、この近辺での出店可能な候補地、その候補地での集客率の予測とそれに伴う売上予想。


 グラフを駆使した書類の全てがわかりやすく、特にクラウドファンディングについては、その仕組みから、クラウドファンディングを扱うサイトに至るまで事細かく記されていた。


「僕の後輩もクラウドファンディングでBARを開業した奴がいます。リターンについては、こちらの書類に幾つか提案させていただきました。」

「ちょ、ちょっと待ってもらえますか!」


 勢いに圧されるだけだった菊は、我慢できずに少し大きめの声をあげた。


 しかし島津は菊の反応を予想していたようで、書類の上で手を組み、真剣な眼差しで菊の目を真っ直ぐ見据える。

 見据えたまま島津は何も言わない。ただ菊の言葉をじっと待った。


 菊はそんな島津から目を反らすことなく、小さく息を吐き、


「私は、もうキッチンカーの夢は諦めたので、この書類は必要ありません。」


 瞳が揺らぐのを感じながらも、はっきりと言い切った。


「やはり、そう言われると思いました。ですが、」


 言葉を迷うことなく、島津は決定的なことを言おうとしている。そもそも島津は、書類の説明の段から、一度もいつものような穏やかな微笑みを浮かべてはいない。


 菊はそれに気がついたからこそ、島津の言葉にきちんと向き合うべく、背を伸ばし、手を太股の上でぎゅっと握った。

 

「差し出がましいことだとわかった上で言わせていただきますが、あなたの今の仕事ぶりは、他の従業員の方にとってプラスに働くことはないのではないでしょうか。」

「!」


 それは、菊の胸を深くえぐる言葉だった。


「……な、」


 菊は即座に「違う」と発言できず、目を見開くことしかできなかった。顔に血液が集中していっているのがわかる。


 図星を刺されたのだ。菊は口をきつく真一文字に結んだ。

 瞳が次第次第に潤んでいく。


 だが島津は止まることなく言葉を紡ぎ続けた。


「以前と比べて仕事に対する覇気を今のあなたに感じることができません。片手間に仕事をしているとは思いませんが、あなたの『今』は、働くことに、生きることの意味が紐付けされていないのではないですか?」


 歯に衣着せぬ島津は、決して菊から目を離そうとはしなかった。


「………なんで、あなたに、」


 言い返そうにも、反論が口を伝って出てこない。

 今はただ菊は、島津の目から逃れたかった。


 腹立たしさも苛立ちも感じないわけではない。だが何よりも、自分の深部に触れられたことによる羞恥心に菊は居たたまれなくなった。


「………すみません、失礼します。」


 菊は席を立ち、鞄から財布を取り出すと、持ち金の全てである三千円を書類の上にバンと置いた。その菊の手は、確かに震えている。


「…今、持ち合わせがないので、足りない分は後日お返しします。」


 しかし菊の手が三千円から離れると、


「いえ、結構です。これもお納めください。」


 島津は即座に形のいい指で三千円を拾い上げ、座ったまま菊に差し出した。


「天職に恵まれる方は幸運だと僕は思います。『ころりん』でお勤めのあなたは、とても輝いておいででした。そんなあなたを見て、救われた人は多くあったと思います。それこそが、天職なのではないでしょうか。」

「…やりたいことを仕事にできるほど、社会は優しくないですよ。…あなたみたいな成功者には、わからないでしょうけど。」


 声が震えた。堪えきれずに菊の頬を涙が伝う。

 

(……自分の声は届かない。)


 菊と島津の気持ちは、この一点でのみ共感を得た。


 

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