後編

 


 女は笑顔を向けた後に、素性を明かした。


「……新宿のクラブで働いています。そこで知り合った男と付き合ってて。……でも、私の収入を当てにしてろくに働かない男で。別れたいけど、言い出せなくて。昨日、店から帰る途中に立ち寄った馴染みのスナックで朝方まで呑んでて。アパートに帰るのを迷っているうちに、いつもと違う電車に乗ってました。眠り込んで、目が覚めたら終点でした。引き返す気にもなれず、降りると当てもなく歩いてて。……たぶん、今の生活から逃げたかったんだと思います。気が付くと、森をさまよってました」


「……よかったら、ここで暮らしませんか」


「えっ?」


「見てのとおりの古い家ですが、風呂もトイレもあります。生活には不自由しません」


「……でも」


「もちろん、強制はしません。ここでゆっくり、自分の将来を考えてみてはいかがですか。気持ちが決まったら東京に帰ってもいいし。空いてる部屋があるので、それまでそこを使ってください」


「……ありがとうございます」


 女は柔らかい笑顔を向けた。


「じゃ、昼飯でも作りますかね」


 腰を上げると、


「あ、私に作らせてください」


 女はそう言って、濃紺のしゃれたツーピースの袖を捲った。


「えっ? いいんですか」


「ええ。何がいいですか?」


「お任せします。あっ、ちょっと待って」


 俺は寝室に入ると、箪笥たんすから黒いセーターを出した。


「服、汚れたら大変だ。これ、よかったら着てください」


「ありがとうございます」


 女は受け取ると、重ね着をした。


「冷蔵庫、見てもいいですか」


「どうぞ。大したものは入ってませんが。醤油や味噌も入ってます」


「はい、分かりました」


 女は冷蔵庫から肉や卵を出すと、シンクの横に置いた炊飯器を覗いた。次にフライパンをコンロに載せると、玉ねぎを切り始めた。なかなか手際が良かった。感心しながら、リズミカルに包丁を動かす女の後ろ姿を眺めた。


(エプロンにジーパン、パジャマも要るな……)


 女のコートと一緒に、ポケットから出したスカーフもハンガーに掛けると、必要なものを頭にメモした。



 20分もしないで、ちゃぶ台に丼が置かれ、豆腐とわかめの味噌汁が添えられた。


「他人丼を作ってみました」


「美味しそうだ。いただきます」


「どうぞ」


 女も箸を持った。


「ん、旨い。卵がふわとろだ」


「よかった」


「俺は料理が苦手だから助かるな」


「こんな料理でよかったらいつでも」


 女が笑顔で見た。


「食べたら、車で買い物に行きませんか。普段着とか必需品とか」


「ええ」



 ATMに寄ってから買い物を済ませた女は電話ボックスに入った。


「ママに電話しました。しばらく休みたいと」


 戻ってきた女は、ぽつりとそう言って、シートベルトを締めた。


「そうですか……」


 沈んだ女の横顔を一瞥いちべつすると、車を走らせた。――



 女の名を山崎裕子やまざきゆうこと言った。出身は埼玉県で、父親を幼い頃に亡くしてからは、女手一つで育てられた。だが、そんな母親も3年前に病気で亡くなったそうだ。そんな、薄幸な身の上を思うと、今の男から逃げ、生き方を変えるという選択は間違いではないはずだ。



 裕子は、ジーパンとスニーカーを履くと、渓流釣りにも伴い、畑仕事も手伝ってくれた。朝食後に絵を描きに出掛け、昼飯に戻ってくると、うどんだったり、チャーハンだったり、時にはパスタだったりと、毎日メニューが違う。料理上手な裕子に出会えて幸せだと俺は思った。家賃代わりに食費の半分を出したいという裕子は、節約方法も考えてくれた。そんな生活をしているうちに、いつしか裕子は妹のような存在になっていた。


「どの絵を応募するか、迷ってる」


 食後のコーヒーを飲みながら、壁に立て掛けた数枚の絵を見比べた。


「どれも素敵だけど、私はこの川辺の風景が好き」


 それは、F10号のキャンバスに描いた新緑の森を流れる小川の風景だった。


「さらさらと流れる小川のせせらぎが聴こえそう」


 裕子が沁々しみじみと言った。俺は嬉しかった。


「じゃ、これにするかな。タイトルは、……『新緑のせせらぎ』」


「わ~、素敵なタイトル」


 裕子が子供のような笑顔を向けた。俺は早速梱包すると、条件に合った絵画公募展に郵送した。――



 そして、その日が来た。いつも車を使って買い物に行くのだが、その日は天気が良かったので、裕子と一緒に歩いて駅前のスーパーまで行った。買い物から帰ってきて間もなくだった。戸を叩く音がした。


 勧誘はおろか、近所付き合いさえない家に忽然と現れた訪問者は、紛れもなく招かれざる客だった。不穏な空気の中で俺は、恐怖におののく裕子と目を合わせた。


「どなたっ?」


 俺は大声で訊いた。


「おっ! 裕子いるんだろ? 開けろ」


 ドスの利いた声だった。裕子が急いで駆け寄ると、


「付き合ってた人……」


 と耳打ちした。俺は納得すると、戸を開けた。そこにいたのは、チンピラ風の30代の男だった。


「なんのご用でしょう?」


「おめぇなんかに用はねぇんだよ。おう、裕子、帰るぞ。さっさと用意しろ」


「どうして、ここが分かったの?」


「ぶらっと渓流でも見るかと電車から降りたら、駅前のスーパーから出てきたお前を見掛けたのよ。声を掛けようと思ったら、男と一緒だったから尾行したってわけさ。まさか、こんなとこにいたとはな……。ほら、帰るぞ。早くしろ」


「いやよ、帰らないわ」


「なんだと、こらっ!」


 中に入ろうとした男を俺は力ずくで外に出した。


「いやだと言ってるじゃないか。帰ってくれ」


「なんだと、この野郎!」


 男が殴りかかってきた。俺はその腕を払うと押し倒した。途端、


「うっ!」


 男が短く発した。倒れた拍子に後頭部を打ったようだ。


「……大丈夫ですか?」


 だが、男からは返事がなかった。


「……救急車を呼ばないと」


 俺は家に入った。


「駄目よ、人殺しにされるわ」


 裕子が止めた。


「正当防衛だろ」


「正当防衛が認められるとは限らないわ。こんな男のために夢を諦めるの?」


「えっ?」


「この家はキャッシュで買ったんでしょ? 訪ねてくる人もいないんでしょ? だったら誰にもバレないわ」


 そう言い切った裕子のまばたきのない目は、俺の心を惹きつけた。――




 数ヶ月後、都内の会場では授賞式が行われていた。


「大賞は、『新緑のせせらぎ』です!」


 俺は拍手と共に迎えられた。


「おめでとうございます。受賞の喜びをどなたに伝えたいですか?」


「私に、夢を諦めるなと言ってくれた、最愛の妻に、……捧げたいと思います」


 俺は賞状と賞金を手にしながら、感涙にむせんだ。




 その頃、犬の散歩中だった老人の通報に因って、廃屋の床下から遺体が発見されていたことなど、この時はまだ知る由もなかった。――




 完

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音のない風 紫 李鳥 @shiritori

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