326.2人きりの夜②もう、逃げない
浴衣を片手にうきうきしながら浴場に向かう隼人、その少し後ろをついていく春希。
男女で別れ脱衣所へ。あまり大きくはないものの24時間利用可能なのが売りらしい。
浴室へ入ると他に客の姿はなく、独り占めだった。
春希は手早く身体を洗って湯船に浸かり、だらしなく手足を伸ばす。どうやらかなり冷えていたらしく、少し熱めのお湯が心地よい。疲れが溶けていくようだ。気の緩んだ春希は「はぁ~~~~」っと、色んな感情のこもった特大のため息を漏らす。
そしてぼんやりと隼人のいる男湯の方を眺めることしばし。
春希はふと自分の身体を見回し、呟いた。
「変、じゃないよね?」
無駄な贅肉はついておらず、全体的に引き締まっている。肌だって普段からケアを怠らず、白くきめ細かい。若干胸部の盛り上がりに欠けるものの、中々に均整の取れたプロポーションだろう。そのあたり夏のダイエットの一件以来、気を遣っている成果だ。それなりの自負はあり、密かな自慢だった。
だけど、隼人が見たらどう思うだろう――そう考えた瞬間、顔が火傷するじゃないかと思うくらい頬が熱くなり、湯船に鼻先まで沈み込ませて尖らせた唇から吐き出した息で、ブクブクと水面に泡を作る。
恥ずかしい。だけど見られること自体は決して嫌じゃない。
こんな風に思うだなんて、自分でもびっくりだった。
そして春希も隼人の裸体を想像したら、さらに茹で上がってしまう。咄嗟に顔の先まで湯船に沈み込ませるも、すぐに息苦しくなって「ぷはっ」と勢いよく顔を出す。
自分でも何やってんだなと思う。
とはいえ周囲の状況に雁字搦めになっていたところを、強引に誰も自分たちを知らないところまで連れ去ってきた上、同じ部屋で一晩2人きり。しかもそれが心を寄せる相手ときた。ついつい何か起きるのじゃと、不安交じりの期待を抱くなという方が難しい。
「でも隼人だからなぁ……」
隼人のことだ。
下心なんて微塵もなく、ただ春希を、
そこは出会った頃とずっと変わらない。かつての
だからこそ、好きになってしまったわけで。
だけど、どうしても胸がチクリと痛い。
「……隼人の、バカ」
もうあの頃とは違い見た目だけじゃなく、心も何もかも変わってしまった。
そしてつくづくと『惚れた方が負け』という、世間でまことしやかに囁かれている言葉を痛感しながら湯船を出て、再び身体を丁重に磨くかのように洗い始めるのだった。
◇
脱衣所に戻った春希は、たっぷりと家での倍以上の時間を使い備え付けのアメニティで念入りにスキンケアを施し、浴場を後にした。おかげでいつもより肌の調子は2割増しでつるつるだ。これならもし、不測の事態が起こっても大丈夫だろう。
「おまたせ」
そう思いつつドキドキしながら部屋に戻った瞬間、隼人から弾んだ声をかけられた。
「遅かったな、待ってたぞ。っていうか見てみろよ、この料理!」
春希はそんな隼人の言葉に、色気より食い気、花より団子な姫子との血の繋がりを強く感じ苦笑い。しかし促されたローテーブルに並べられたご飯に地魚の刺身、ホタルイカの酢の物、タコのから揚げ、パリパリに皮が焼かれた白身魚の焼き物に、厚い切り身と大根の煮付け、そして寒ブリのしゃぶしゃぶといった見事な御膳料理を目にすれば、思わず感嘆を零してしまうというもの。女将はまかない程度しかないと言っていたがなかなかどうして、少なくとも高校生にとっては身の丈以上の豪勢な料理だ。これには春希も思わず「わぁ」と、感嘆の声を漏らしながら言う。
「すごっ、それに美味しそう!」
「だろ? 俺もぅ、5分も待てを食らってて、今すぐ飛びつきたくてたまんないよ」
「あはっ、ごめんごめん。じゃ、早速食べようか」
「おう!」
お互い「「いただきます」」と手を合わせた後、早速とばかりに箸を伸ばす。
そして料理を口に運ぶと、それぞれ目を大きく見開いた。
「うまっ! 何このお刺身、ボクの知ってる鯛の味じゃない!」
「それ、昆布で〆てるのか? うん、醤油つけない方が断然いいな。……ん、こっちのホタルイカは磯の香りがすごくて、俺の知ってる酢の物じゃないぞ!」
「こっちのタコのから揚げはコリコリ感と甘みがたまらないし、ブリしゃぶの出汁に溶け出す脂といったら!」
「新鮮な上に丁寧な仕事が施されていると、魚ってここまで多彩な姿を見せるのか! 目から鱗だな……」
どれもこれもこの地方でだからこそ食べることのできる料理に、春希と隼人は舌鼓を打つ。食べる手は止まらず会話も弾み、新幹線で見た景色のあれこれ、初めて見た日本海がどうこう、各所で見たあれそれや公園での撮影に関することなどで盛り上がる。
こうして振り返ると、今日はなんだかんだと楽しかった。
そうこうしているうちに夕食も食べ終え、隼人は一服するために淹れたお茶を啜りながら、しみじみと呟く。
「こう何も計画とか予定とか考えず、出たとこ勝負の雑な感じでどこかに行くってのもオツなもんだよな。予想外のいろんな初めてのものを楽しめたし、メシもうまいしさ」
これほど大胆なことをしでかしながら、あまりに呑気な様子でのたまう隼人。
こちらの気も知らず、ついムッとなった春希は眉を寄せ、咎めるように口を開く。
「見知らぬ土地をあちこち彷徨ってさ、ボクとしては今日、盛大な迷子になってたみたいだったよ」
「あはは、確かにそう言われるとそうかも。けど、楽しかっただろ? だから今日のこれは、迷子じゃなくて冒険だ」
「……ぁ」
そう言って屈託なく笑う隼人に、春希は大きな瞳を丸める。
冒険。あぁ、そう言われれば正にその通りだった。
心の中に、かつて月野瀬で遊んだ時と同じような高揚が蘇っていく。
今日のことも今より大人になって思い返した時、きっと掛け替えのない思い出になっているに違いない。
やはりこれからも隼人と、こうしたことを重ねていきたいと強く願う。
だけど、それを続けていくことが難しいことを、よく知っている。あの日、無邪気だったかつての夏の終わり。揺るぎないという信じていた関係が、急に崩れてしまったから。
隼人は表情を緩め、言葉を続ける。
「それにさ、ここまで来たら春希に騒いだり追いかける人もいなかっただろ。それだけでも、ここへ来た甲斐があったと思わないか?」
「確かに、ボクも今日は久々に羽を伸ばせたね。……まぁ夕方やらかしちゃったから、また騒がれるかもだけど」
「そん時はまた別の場所に行けばいいさ」
「あはは、そうだね。けど、さすがにそんなこと繰り返すとお金も持たないよ」
「なら、行った先で働けばいい。俺と春希くらいならどうにかなるだろ。いくらでも付き合ってやるさ」
「隼人……」
そんなことをあっけらかんと言い放つ隼人。きっと、本音で言っているのだろう。
ここまで自分のことを大切に思ってくれていることに、胸がトクンと隼人への気持ちを奏で始め、みるみる大きく膨らんでいく。遠く離れた異郷の地で2人きりという事実が春希の感情を暴走させ、それを必死に抑え込もうと俯き、押し黙ってしまう。
ちらりと隼人を見てみれば、ただニコリと微笑み見守っている。
――好き。
その想いが口から溢れそうになるもしかし、その時ある少女の顔が脳裏を過ぎった。
(――――沙紀、ちゃん)
きっと、誰も知らない場所にまで行ってしまえば、芸能界や母に関するしがらみを捨てることができるだろう。それに隼人と2人なら、どうにかできるに違いない。
だけどそこには自分たち以外、誰もいなくて。
そのことがひどく寂しく思えた。思えてしまった。
ふと心の中の天秤に、色んなものを載せてみる。
姫子にみなもに一輝、恵麻と伊織、それに沙紀。
プールにバイト、秋祭り。
文化祭で仲良くなった他のクラスメイトたちと、一丸となって盛り上げたこと。
かつて秤に載せるものなんて、隼人と姫子くらいしかいなかった。
だけど気付けば、他に載せるべき
彼らも他の何ものにも代えがたい大切なものに育っており、もう今の春希を構成する一部になっていて。
もし隼人と結ばれる未来があるとしたら、皆に祝福されたい。
――だから、逃げるのはもう止めだ。
春希は強い決意と共にキュッと唇を強く結び、まっすぐに隼人を見据えながら精いっぱいの笑顔を作り、本心を謳う。
「明日、帰ろっか」
「……いいのか?」
隼人は怪訝な表情で、真意を問うかのような訊ねてくる。
春希はただ、こくりと頷き返す。
「うん、お母さんに会いに行く。ちゃんと向き合うことにするよ。ボクはもう、自分のことからは逃げない」
「春希……」
隼人が不安そうに瞳を揺らす。
だけど、まずは自分のことを知るためにも、母と話をしなければ始まらない。
正直、恐れはある。だけどもぅ、1人じゃない。
だから春希は不敵な笑みを浮かべ、謳う。
「大丈夫。それにほら、向こうには
「……そっか、わかった」
そして隼人は何度か目を瞬かせた後、それ以上は何も言わず、にっこりと笑った。
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