300.……あの頃に戻りたいよ



「いやーっはっはっはっ、めっちゃ忙しかった!」


 閉店後の御菓子司しろに、愉快気な女性の声が響く。その言葉を合図にして春希たちバイトの面々は大きく伸びをしたり、一息吐いたり、「ホント、忙しかった」「何度テンパッたかわからねえ」といった愚痴を零す。

 その様子を見て腕を組んでうんうんと頷く、明るい髪色のボブで快活そうな雰囲気の彼女は伊織の姉、沙緒莉さおりだ。沙緒莉はここ最近の混雑を見越し、大学から応援を引き連れて応援にやって来てくれた。正直、かなり助かったところも多い。

 沙緒莉はまだ片付けが残っている店内をぐるりと見回したあと、パンッと手を合わせて朗らかに言う。


「よーし、今日はもう後片付けはいいから、解散でいいよー! あ、伊織は別な!」


 粋な計らいに、皆から安堵交じりの歓声が上がる。

 伊織が沙緒莉に文句を言う姿を横目に、気が咎めるものの言葉に甘えることにする。

 今日は特に疲れてしまった。あの後、何も考えたくないとばかりに仕事に精を出したから、ことさらに。思考はまだ、疲労で鈍い。


「春希、家まで送ろうか?」


 帰り支度を終えると、隼人がすぐさま声を掛けてきた。その隣にはみなもと一輝。

 バイトの帰り際にも待ち構えられていたことがあり、それを案じてのことだろう。

 春希はその心遣いに胸をじんわりと温かくさせるるがしかし、顔を申し訳なさそうにくしゃりと歪ませ、断りを入れる。


「いや、いいよ。森くんのお姉さんから自転車借りてるし」

「そう、か……」

「そ、それじゃまた明日ね!」

「春希……」


 残念そうにしょんぼりする隼人の姿にチクリと胸が痛むものの、それを振り払うかのように店を飛び出し自転車に跨った。



 すっかり陽が暮れた初冬の夜空では、少し欠けた月がぼんやりと輝いていた。

 宵の口を謳う住宅街に、シャララと車輪の回る音が響く。

 風に後ろ髪を引かれつつ、一目散に家へと向かう。


「……ただいま」


 家の中へと身体を滑らせ、長年染みついた帰宅の呪文を唱える。

 すると言葉が暗がりに吸い込まれていくと共に、ドッと寂しさが洪水の様に押し寄せて、それを耐えるかのようにぎゅっと拳を握りしめ唇を強く結ぶ。

 そしてすぐさまスマホを開き、母へ今日の出来事を報告すべく打ち込んでいく。


『今日はバイトがありました。前回より、私が目当てのお客が多かったです。友達のおかげで特に問題になることは起きていません』


 履歴を見れば似たような報告が春希から一方的に、日記の様に綴られている。

 母からの返事は、今までと同じようにない。

 しかし今までと違い、既読はすぐに付いている。読んではいるのだろう。

 あの件は田倉真央とて無関係ではなく、春希のことを気に掛けていないはずがない。

 現にワイドショーやニュースサイトでは、未だに田倉真央の隠し子とその父親に関する記事が飛び交っている。

 だけどあの後夜祭以降、母からの連絡や接触は不気味なほど凪いでいた。

 そして桜島――春希の腹違いの兄からも音沙汰がない。

 母と彼との間には確執があるようだった。ただでさえ、彼から見て自分の父の愛人ともいえる間柄だ。複雑な問題が渦巻いているのも、想像に難くない。もしかしたら春希の知らないところで、今もなにかしらのやり取りが行われているのだろうか。


「……わからないよ」


 力なく呟き、玄関の扉越しに、霧島家のあるマンションの方角を見つめる。

 色々と注目を集めてしまっている今、たとえ相手が隼人幼馴染だとはいえ、同級生の異性の家に夜遅くまで入り浸っているというのは醜聞が立つ。

 ゆえに現在、一緒に夕飯を食べることを自粛している。

 仕方ないことだ。隼人と再会する前の生活に戻っただけ。

 だというのに、胸には空虚な穴がぽっかりと空いてしまっている。

 あのなんてことない日々が、今はやけに懐かしくも眩い。


「……あの頃に戻りたいよ」


 できるならこの恋を自覚する前の、ただ何も考えず無邪気に傍に居られた時に戻りたいという願いも込め、ひどく後悔と郷愁を滲ませた声を零す。

 だけど今の春希の立場と心がそれを許さない。

 恋をしている今は、ひどく辛いことばかりだ。

 こんな思いをするならいっそ、恋なんてしたくなかった。

 あぁ、沙紀はずっとこんな想いを抱えたまま、何年も過ごしてきたのだ。

 辛くはなかったのだろうか?

 そう思い沙紀の姿を思い浮かべてみるも、嬉しそうに、幸せそうに微笑む姿ばかりが脳裏をよぎる。都会にやってきてからは、より一層に。好きになってよかったと。

 するとまるで自分の想いが彼女に比べてこの好きは不純なのでは、それほどの強さではないのだと咎められているような気がして、それでも譲る気がない自分を醜く感じてしまう。


「……ぁ」


 その時、スマホにメッセージが届く。


『春希、無理するなよ? 些細なことでも困ったことがあったら言ってくれ。すぐに飛んでいくから』


 隼人からの、隼人らしいメッセージ。

 こちらの気持ちを知らないくせに、こんなことを言うなんてずるいと思ってしまう。

 だけど、ただこれだけで春希の寂しさや不安というものが和らいでいく。


『今は大丈夫、もしもの時は遠慮なく頼るから』


 春希は忌憚ない心を晒して返事し、ぎゅっとスマホを胸に搔き抱いた。

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