第7章

7-1

292.変わってしまった日常①


 文化祭が終わり、早くも半月あまりが過ぎた。

 暦の上では冬を迎え朝はすっかりと冷え込むようになり、布団から出るのも憂鬱だ。

 早朝、頬を撫でる冷たい空気で目を覚ました隼人は、枕元に置いていたスマホを手繰り寄せ、画面に映る時刻を見て深いため息を吐く。

 もう起きる時間を少し過ぎている。今しばらく微睡んでいたくなる気持ちを振り払うかのようぬ布団を跳ね除け、その勢いのまま一気に制服へ着替え、部屋を出てリビングに向かう。


「おはよ」

「あらおはよう、隼人。朝ごはん、ハムエッグなんだけど、トーストに載っける? どうする?」

「ん……載せる」

「そ、わかった。じゃあちょっと待っててね」


 そう言って母、真由美はぱたぱたとオーブンにトーストを放り込み、フライパンに火をかけハムを焼き始める。

 その様子を複雑な表情で眺め、手持ち無沙汰になる隼人。

 真由美は退院してきてからというものの、積極的に家事をこなしている。手伝うと言っても、『リハビリも兼ねてるからいいのよ~』と言われればそれ以上は言い辛い。

 都会に引っ越してきて以来ずっと朝起きてすぐ朝食を作ってきた隼人は、どうにも今の環境に慣れず調子が狂う。

 とりあえず席に座って朝食を待とうと思いダイニングテーブルへと目を向ければ、姫子が居た。既に制服へ着替えており、髪もしっかりセットされていて、いつでも家を出られるような状態の姫子は、ここのところ以前の様なだらしない姿を見せなくなった。

 隼人を見た姫子は眉を寄せると、飲みかけのミルクティーを置いて「はぁ」と少し呆れたようなため息を吐き、ジト目で苦言を呈す。


「おにぃ、寝癖。左の後ろらへん、跳ねてる」

「えっ」

「それとブレザーの襟も捲れてるし、ネクタイもズレてる」

「あー……ほんとだ」

「もぅ、しっかりしてよね」


 姫子の指摘通りだった。

 バツの悪い顔をする隼人。

 襟やネクタイはすぐに直せるものの、寝癖はそうもいかない。

 隼人が寝癖をなんとかならないかと撫でつけていると、姫子は苦笑を零し、困った様に言う。


「洗面所でさっさと直してきなよ。はるちゃん、それ見たら笑うよ」

「むっ、……そう、だな」


 妹に促される形で洗面所に向かう隼人。

 確かに姫子の言う通り、もし春希が寝癖を見ようものなら弄ってくるのがありありと想像できる。朝食ができるまでの間に、ささっと直してくればいいだろう。


「……まったく、おにぃってば世話がかかるんだから」


 どこか上から目線の、今までと同じような言葉。

 だけどその声色はやけに優しく、今までと同じような揶揄いには聞こえない。

 くしゃりと顔を歪める隼人。

 最近、この妹にもやけに調子を狂わされることも多かった。



 姫子に急かされる形でマンションを出た隼人は、吹き付けた風にぶるりと身を震わせた。

 通学路を歩く。

 街路樹の周辺には落ち葉の絨毯が敷かれており、吐く息も白い。

 寒さも随分と深まり、じきにコートも必要になるだろう。

 つい先日まで半袖だと思うと、まるで秋が駆け足で去っていくかのよう。

 都会こちらに来た頃と比べ、季節はすっかり変わっていた。

 手は自然とポケットへ潜り、背も丸まってしまう。

 すると、いきなり姫子にパシンッと猫背を叩かれた。


「もぅおにぃ、シャキッとしてよね!」

「っ、痛ぅ~。いやその思いの外、寒くてな」

「それならそれで防寒具用意すればいいのに」

「あはは、ここ最近急に寒くなったから用意してなくて。姫子は……」


 言い訳めいたことを苦笑と共に口にする隼人。ちらりと姫子を見てみれば、ちゃっかりとマフラーと手袋を着用していた。

 だけど、いかにもありあわせたものといった感じのもので、制服とはあまり似合ってるとはいえず、オシャレにこだわりのある姫子にしてはなんともらしくない。

 それを指摘するのも憚られ、なんとも言いあぐねる隼人。

 するとそんな兄の顔を見た姫子は肩眉を上げ、さも当然といった風に言う。


「あたしは受験生だからね。万が一にも風邪なんてひいてられないの」

「そっか。そう、だな……」


 もっともな言葉だった。どこか釈然としないものがあるものの、ぐぅの音も出ない隼人。

 最近の妹は受験生としての自覚だけでなく、やけにしっかりとしてきている。まるで、何かの腹をくくって人が変わったように。

 それはきっと、いいことなのだろう。しかしその一方で、置いてけぼりを喰らうかのような焦燥感を感じてしまう。

 やがてそうこうしているうちに、いつもの待ち合わせ場所にやってきた。

 既に沙紀が来ており、こちらに気付くとスマホから顔を上げ、にこりと微笑む。


「おはようございます、お兄さん! 姫ちゃんもおはよーっ」

「おはよう、沙紀さん」

「沙紀ちゃん、おはよー。さっきスマホ見て笑ってたみたいだけど、どうしたの?」

「あ、それそれ! これ見て! さっきお父さんから送られてきたの」

「わぁ、これって!」

「お?」


 そう言って沙紀はスマホを見せてくる。そこに映っているのは、壊れた小さな段ボールの上で項垂れている子猫。月野瀬で隼人と春希が見つけ助けた、子猫のつくしだ。画像の下では『身体が大きくなった自覚がありません』という文字が躍っている。

 微笑ましいつくしの姿に、頬を緩める隼人たち。

 すると横から、弾んだ声を掛けられた。


「わ、つくしちゃん大きくなったねーっ!」

「春希さん、おはようございます! おかげさまでつくしったらお気に入りの箱を潰しちゃうくらい大きくなりまして!」

「あはっ、もぅボクたちが助けた頃とは全然違うね。けど、これからどんどん大きくなるんだろうなぁ」

「ふふっ、そうですね」


 目を細め、つくしの成長をしみじみと喜ぶ春希。

 隼人もまた目を細め、そしてザッと周囲に視線を走らせ、少し硬い声色で言う。


「ま、いいから学校へ行こうぜ」

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