273.文化祭⑪千載一遇



◇◇◇


「……困ったな」

「……はい」


 隼人が眉を寄せて呟くのを、沙紀は掴まれた手に変な汗をかいていやしないかと、内心ドギマギしながらぎこちない笑みを浮かべて応えた。


「通話は……繋がらないな。しょうがない、メッセージだけでも送っておこう」

「わ、私も……」


 隼人に倣い、沙紀もはぐれた姫子にメッセージを送ろうとするも、指先はふらふらと宙を彷徨わせ、黒い画面に着地させる。

 そのまま微動だにしないことしばし。沙紀はきゅっと唇を結びながら、そっと周囲を窺う。

 先ほどまでではないけれど人の流れは依然として活発で、そば耳を立ててみるに、どうやら体育館へと向かっているらしい。何か目玉のイベントがやっているようだ。

 よくよく見れば人波を避けるため、沙紀と隼人と同じように、廊下の端に寄っている人たちもちらほら見えた。

 彼らのうち半数位が男女の組み合わせで、手を繋いでいる。きっと、文化祭デートなのだろう。


(……わ、私たちもそう見えてる、……のかな?)


 沙紀はそんなことを思いながら、ちらりとメッセージを打ち込む隼人を見る。

 するとたちまち頬が熱を帯びていくのを感じ、慌てて目を逸らす。

 想い人と2人で、文化祭デート。

 そのことを思い描かなかったと言えば嘘になる。

 だけど姫子もいて、春希もいる。学校ではみなもに一輝、恵麻や伊織もいるだろう。愛梨とだって一緒にやってきた。身近にいる人は、非常に多い。

 もしそんな機会を作ろうとするならば、皆の協力が不可欠だろう。

 ――愛梨と一輝をそうしたように。

 だからこれは降って湧いた、千載一遇の幸運でもあった。

 都会は様々なことが突然起こり、戸惑うことが多い。これはその中でも特大のものだろう。

 だから心の準備などできていなくて、さっきから胸の鼓動はどんどん早くなるばかり。

 だけど世界が変化を告げる時は、いつだって突然で一瞬なのだ。

 怖気づいてなんていられない。春希のことを思えば少しばかり自分を浅ましく感じるものの、しかしどうにかしてこのチャンスをものにしたくて。さりとて妙案は浮かばず、沙紀はそわそわと焦りを募らせる。

 するとその時、ふいに重ねられていた手が離された。


「っと、掴んだままだった。すまん」

「ぁ…………いえ」


 そう言って隼人は気恥ずかしそうに、ぽりぽりと頬を今まで繋がれていた手で掻く。

 沙紀は寂しさと残念さを必死に隠した愛想笑いで応える。


「……」

「……」


 互いに会話はなく、曖昧でもどかしい空気が流れる。

 このままではいけない。

 先程重ねられていた手が離れていったように、このままだとやがていつもと同じ、変わり映えのない世界へと戻っていってしまうだろう。

 沙紀は胸に手を当て僅かに睫毛を伏せ、どうすればいいか必死になって思い巡らす。

 せっかくの2人きりなのだ。何か話をしないと。文化祭なのだ。きっと話の種なんてそこらへんにいくらでも転がっているはず。


「あ、あのっ」

「お?」


 意を決して沙紀が口を開いた瞬間、隼人のスマホがメッセージを告げた。

 春希からだろう。せっかくの気勢を削がれた沙紀は「あぅ」と若干涙目で口を噤む。隼人からも済まなさそうに片手を上げて断りを入れれば、我を通して話を続けるというのも野暮というもの。

 間の悪さと自分のもたつきを恨めしく思っていると、隼人が「むぅ」と難しい顔で唸った。


「どうしたんですか?」

「春希たち体育館まで流されたみたいでさ、すし詰め状態で出られそうにないって」

「それは……あれだけの人の量でしたもんね」

「ついでにそのまま見てくるってさ。春希のライブもスケジュール的に大丈夫そうだし、それに姫子も見る気満々だって」

「っ!」


 隼人が苦笑を零すと共に、沙紀は息を呑む。

 その瞬間、様々な思いが胸を過ぎる。

 この機を逃しちゃダメだ。

 言霊というものがあるように、想いや願いを言葉として形作って口にすれば、世界を変革させる切っ掛けになる。

 あの日、この夏の終わり。

 沙紀はそのことを思い知ったばかりではないか。

 だけど、それが必ずしもいい変革を起こすかどうかはわからない。

 誘って断られたら? 迷惑がられたら? 変に思われ、ギクシャクしたらどうしよう? そんな弱気や不安が心に滲む。


(……ぁ)


 しかしふいに愛梨の顔を思い返す。

 彼女は今の自分を、関係を変えたくて、どうにかしたいと思って、勇気を出して一歩踏み出したのだ。

 ここで沙紀が怖気づいてしまえば、一緒に頑張ろうと誓い合ったこの都会で出来た奇妙な縁の友人に、一体どんな顔を向けられようか。

 ギュッと拳を握りしめ、垂れ目がちな目に精一杯の力を込め、自らの望みを告げた。


「俺たちはどう――」

「わ、私たちは私たちでデートしましょう! デート、文化祭デート!」

「――デッ!?」

「ほ、ほら、まだまだ巡ってないところがありますよぅ」

「あ、あぁ……って、沙紀さん!?」


 沙紀は声が上擦っていることを自覚しながらも、今度は自分から隼人の手を取った。


「こ、これはその、私たちまではぐれちゃうわけにはいきませんし……?」

「そ、それは……まぁ、うん、そうだな」


 いつもの自分ならしないような、大胆なことをしているとは思う。おかげで身体は緊張でガチガチで喉もカラカラだ。

 それでも何もしないで後悔をするより、よっぽどマシだというのを思い知っている。

 見ているだけは、止めたのだ。勇気を出して、少しでも距離を詰めないと。

 敢えてデートという単語を使ったのは、自分を異性として意識をしてもらうため。

 理想に。なりたい自分へと手を伸ばす。

 これは絶好のチャンスなのだ。

 ごくりと生唾を呑み込み、ギュッと繋いだ手を握りしめれば、隼人も応えるように握り返す。

 するとそれだけでたちまち肩の力が抜け、胸にじんわりとしたものが広がっていく。


(……あーぁ、私ってチョロいなぁ)


 そんな自分のわかりやすさに呆れつつも、沙紀は今日一番の格別の笑顔を咲かせて振り返り、隼人に言う。


「私たちも楽しみましょう、お兄さん!」

「っ、あぁ!」


 隼人は一瞬虚を衝かれたように目を大きく見開き、そしてにこりと、沙紀の大好きな笑顔で頷き返した。

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