250.軽く言ってくれちゃって
翌朝。
ベッドで身を起こした隼人は、目覚まし時計がいつもより幾分か遅い時間を示していることに顔を顰める。
昨夜はあの後沙紀の家に行った春希とみなもから連絡は来ず、隼人は布団の中でやきもきしながらいつの間にか眠りに落ちていたようだ。
眠気を払うように小さく頭を振りながらリビングに足を踏み入れ、目の前に広がる意外な光景に目をぱちくりとさせた。
「おはよ、おにぃ」
「っ! あ、あぁ、おはよう、姫子」
一瞬こちらに気付いた姫子は顔を向けるものの、すぐさま手前のフライパンに目を落とし、おっかなびっくりボウルから卵液を流し込む。
ジュっと油の跳ねる音と、ビクリと肩を震わせる妹。
大方、スクランブルエッグでも作っているのだろう。それはわかる。
だが昨晩に引き続き、今まで料理なんてインスタントや冷凍でさえ面倒臭がっていた姫子が何故、という気持ちが強い。
その姫子はといえばきっちりと制服に着替えており、髪だってしっかりセットされている。いつもは時間ギリギリまで寝ている、あの姫子が。
まるで別人じゃないかと疑い、隼人が怪訝な顔で目を瞬かせるのも無理はないだろう。
「あら、おはよう隼人」
「母さん」
そこへ洗面所から母の真由美が顔を出す。
呆気に取られている隼人の顔を見た真由美は、くすりと笑う。
「あの子、いきなり朝ごはん作るって言いだしてね」
「姫子が? 急に? 何で?」
「さぁ、何かしら心境の変化があったんじゃない? ふふっ、娘にご飯を作ってもら『わ、わーっ!』あらあらあら!」
「……」
話している最中に、姫子の慌てた声が上がった。
真由美はすぐさま娘の下へと駆け寄り、コンロの火を落とす。そして宥めるようにして姫子の手をとり木べらを一緒に掻き混ぜる。
それはどこにでもありそうな、しかし霧島家では珍しい光景。
どうも拭え切れない違和感から、なんともいえない表情になる。
ここ最近、妹の変化は目まぐるしい。
しかしそれは決して悪いものじゃないのだろう。
その、はずだ。
「……着替えるか」
隼人は敢えてそう呟き、少し釈然としない顔で母娘和気藹々としながら朝食を作る姿を背に、自室へと戻った。
◇
ダイニングテーブルの上にはポロポロに固まったスクランブルエッグが鎮座していた。おそらく火加減を間違えたのだろう。
「いただきます」
隼人は不格好なそれに苦笑しながら手を合わせ、早速口へと運ぶ。
なるほど、見た目はアレでたまに胡椒のダマがある。どちらかと言えば卵そぼろじみているが、決して悪くはない。初めてにしては上出来だ。
「ん、なかなかいいんじゃないか、姫子」
「……次は失敗しないから」
隼人が素直な感想を零すも、姫子は不服なのか眉を寄せて返事を寄越す。
母はただ、その様子を微笑ましく見守り、食べる手を進めるのみ。
やがて皿は空になり、最後に頬張ったトーストの残りをミルクコーヒーで流し込んでいると、スマホが通知を告げた。すぐさま画面を見た姫子が言う。
「あ、今日沙紀ちゃん日直だから先に学校に行くって」
「へぇ」
「だからはるちゃんとみなもさんも、沙紀ちゃんに合わせて先に行ってるってさ」
ビクリとカップを持つ手が止まり、思わず眉間に皺を刻む。
隼人も確認すれば、同様の内容のメッセージが来ていた。
なるほど、そういう事情ならば仕方がない。そういう日もあるだろう。
しかし昨日は色々あったのだ。
だからと言って、何かできるというわけではないけれど。
「…………そっか」
隼人は少しばかりの苛立ちと寂寥感を滲ませて、ただそれだけを呟く。
そしてほんのり苦いカップの残りを一息に呑み下す。「ごちそうさま」と言って食器を流し台に置き、部屋に戻って鞄を引っ掴んでそのまま玄関へ。
靴を履いていると、背中に姫子から声を掛けられる。
「おにぃ、待ってよ」
「っと、悪ぃ」
「それと、はいこれ」
見覚えのある包みを手渡され、しかし一瞬それが意外なもので何か分からず、疑問形となって言葉を投げ返す。
「……弁当? これも姫子が?」
「これはお母さんが」
「そうか」
「む」
隼人がホッとしたような声を漏らせば、姫子は不満気に唇を尖らせる。
それを見て失言に気付いた隼人が、「あー」と唸りつつ機嫌を直させる言葉を探している隙に、靴を履いて家を出る準備を終えた姫子が「はぁ」と、嘆息を1つ。
しょうがないなと言いたげな優し気な目で、苦笑した。
「行こ」
「……おぅ」
◇
事前に連絡があった通り、いつもの待ち合わせ場所には誰も居なかった。
隼人は「ふぅ」と、寂寥感の混じった息を吐き出しながら通り過ぎ、空を仰ぐ。
天の低いところで秋らしい高積雲が羊が群れを成すようにすいすいと泳いでいるのを見て、初めてみなもと出会った時のことを思い返す。当時はぴょこぴょこと動く癖っ毛が月野瀬の羊と重なったっけと、懐かしそうに目を細める。
ふいに頬を撫でる肌寒い空気はほんのりと水気を感じた。もしかしたら雨雲に変わるのかもしれない。
するとそれがまるで今にも泣き出したそうな彼女を彷彿とさせ眉を寄せ、自然と足も速くなる。
「おにぃっ」
そこへ背中に、またも姫子の鋭い声が掛けられた。
はたと気付き振り返れば、随分離れたところに呆れと抗議の色を含んだ妹の顔。
どうやら気が急いて周りが見えなくなり、置いていってしまったらしい。
「……悪ぃ」
「もぉ、これくらい別にいいけど。そんな焦らなくたって、はるちゃんたち
――違う。春希やみなもは自分の
「っ、逃げられないんだよ」
思わず焦燥ともどかしさに突き動かされ、反射的にそんなことを口にする。自分でもハッと息を呑むほどの大きな声が出た。
同時に昨日の春希の言葉も思い返す。
『――ボクたちはまだ、誰かに生かされている』
それはみなもを連れてただ逃げただけと嘯いた春希が、しかしどこにも行き場がないと思わず零した胸の内。
ぎゅっと拳を痛いぐらいに握りしめる。
姫子はそんな険しい顔をしている隼人を、責めるわけでなく。一瞬驚いた表情をしたものの、フッと優しい笑みを浮かべて近寄り、ポンと背中を叩いた。
「そ。なら、おにぃがまたそこから連れ出してあげなきゃだね」
「…………ぇ?」
――そんな過去が霞んでしまうような場所へと。姫子はさも当然であるかのように、まるでそれが役目でしょといった風に唄うように告げる。
ガツンと頭殴られたかのような衝撃が走り、隼人は大きく目を見開く。
ふと、初めて
どこか諦めを悟ったかのような暗い顔、他人を拒絶する濁った瞳、何もかも信じられないと膝を抱え込むも自分を見てくれと言わんばかりの姿が気に入らなかった。
あの時ははるきの事情なんて知らなくて、ただ気に入らなくて。
それでも強引に連れ出した後、引っ越しで別れるまでの間ずっと笑顔だった。
だから、隼人の中ではいつだってはるきは笑っている。
始まりはあんな顔をするしかなかったのかもしれない。
けれどあの時、確かに笑顔を咲かせられる場所へと連れて行けたではないか。
そう、だからきっと。
今の春希たちだって。
隼人の顔が引き締まり、ぎゅっと拳を握りしめる。
「それじゃおにぃ、あたしはこっちだから。そっちは任せたよ」
いつしか分かれ道に来ていた姫子は、一瞬振り返り、それだけ言って去っていく。
その顔はやけに優し気で、そしてやけに大人びて見えた。
「ったく、軽く言ってくれちゃって」
きっと。
できるかできないかでなく、やるかやらないかの問題なのだ。
表情を緩めた隼人は愚痴のように呟くがしかし、決意にも満ちており、自分の
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