243.……ちゃんと


 一輝に促され、対面に座る姫子。

 姫子は顔を俯かせたまま、口をもごもごさせ言いあぐねている。おそらく、何をどう話そうかと頭の中で整理しているのだろう。しばし時間が必要そうだった。

 手のひらで弄ぶカフェオレのカップが、随分と冷たくなっていることに気付く。

 残りを一気に飲み干し、「ちょっと待っててね」と断りを入れ立ち上がり、カウンターへお代わりを頼みに。

 ついでに姫子の分もと思うものの、彼女の好みが分からず眉を寄せる。

 結局自分と同じ、そして姉が好むミルク多めのカフェラテを2つ手にして席へ戻った。


「お待たせ。姫子ちゃん、カフェラテでよかったかな?」

「え、あ、ありがとうございますっ。お金は……」

「いいよ、これくらい。バイトもしてるからね、カッコつけさせてよ」


 そう言って一輝が茶目っ気たっぷりに片目を瞑れば、姫子も「そうですか」と曖昧に笑いカップに口をつける。そして僅かに眉を寄せた。


「……ぅ」

「あはは、砂糖入れた方がよかったかな? うちの姉さん、いつも入れないもんだから」

「そうなんですか?」

「どうもカロリーを気にして、それでね」


 一輝が「微々たるものだと思うけど」とおどけた調子で続ければ、姫子もくすりと小さな笑みを零す。しかしそれはようやく見せた姫子の笑顔だった。

 ただそれだけで一輝の胸に暖かいものが広がっていく。自分でも単純だと思いつつも、にやけてしまいそうになる口元を隠すようにカフェラテを運ぶ。

 あぁ、やはり。

 彼女にはそんな暗い顔は似合わない。

 いつだって明るい笑顔で居て欲しい。

 その為に出来ることなら何だってしよう。

 一輝はほんのりと苦いカフェオレと共に不安や戸惑いを呑み下し、少しばかり真剣な瞳でジッと姫子を見つめる。そして姫子が話しやすいことを意識して、言葉を紡ぐ。


「ところで今日は急にどうしたんだい? 何か僕に聞いて欲しいことがある、でいいのかな?」

「はい。その……」

「大丈夫、隼人くんや二階堂さんには話さないから。それで、悩みか何かなのかい?」

「それは――」


 姫子はそこで言葉を区切り、顔に躊躇いの色を浮かべ睫毛を伏せる。

 そして一瞬の逡巡の後、心の内を吐き出す。


「――怖い、んです」

「怖い?」

「お母さんが、また、急に、いなくなっちゃうんじゃって……」

「えっと、それって……?」


 いきなりのことに事情が呑み込めず、少々混乱してしまい首を捻ってしまう。

 すると一輝の様子から前提となる事情を知らないと察した姫子は、恐る恐るといった様子で訊ねた。


「一輝さん、もしかしておにぃからあたしたちが引っ越してきた理由、聞いてません?」

「いや、特になにも」

「……もぅ、おにぃったら」


 姫子は兄に向けて小さく唇を尖らせながら、不満気なため息を吐く。

 どうして隼人や姫子がどうして田舎からやってきたのかだなんて、気にも留めていなかった。

 そもそも引っ越しなんて珍しいことではあるものの、世には溢れている。

 しかし理由を話そうとする姫子の顔には、躊躇いの色が見て取れた。先程の話しぶりから、何か深刻な理由があるのだろう。

 自然と背筋を伸ばし、向き直る。

 すると姫子はくしゃりと表情を歪ませ、痛みを堪えるよう胸に手を当てながら口を開いた。


「……あたしの目の前で、お母さんが倒れたんです」

「……え」


 一輝の表情がピシャリと固まる。

 姫子は睫毛を伏せ、少し震えた声で、まるで己の罪を告解するかのように、かつての出来事を言葉にして絞り出す。


「台所でご飯を作ってる最中に、急に、バタンって、大きな音を立てて。いくら声を掛けても何の反応もなくて……。5年前は子供だったから何もできなくて、今年の夏前は頭が真っ白になって、どっちも結局何もできなくて……」

「姫子、ちゃん……」


 想像以上に重い事情だった。

 妙な時期の転校だとは思っていたが、母親の病気ならば、急なものにもなろう。

 ズキリと胸が痛む。明らかに姫子が抱えている脆い部分であり、同時に自分が聞いてよかったのかと狼狽してしまう。

 もし身近な家族が目の前で急に倒れ、パニックから何もできなかったとしたら……?

 姫子はその後悔と無力感を込めて呟く。


「あたし、全然大人になれてないや……」

「……ぁ」

「今だってこんな風に思い悩んじゃって、せっかくお母さんが退院したっていうのに、家の中の空気悪くしちゃって……」


 その言葉ではたと気付く。

 いつも姫子の言動の端々に感じられた、大人への背伸び。

 その原因の一端だとすれば、微笑ましく思っていたその部分の意味も変わってくる。

 きっと。

 姫子は戦ってきたのだ、ずっと。

 何もできなかった過去自分と。

 また同じことがあるかもしれないという、不安と恐怖と。

 それでも何とかしようと向き合い、藻掻いている。

 ――逃げ出した、一輝と違って。

 その姿はまったくもって姫子らしくもあった。

 あぁやはり、彼女がひどく眩しく感じる。

 だからこそ、強く姫子に惹かれているのだろう。

 しかしその一方で、姫子にかける言葉が見つからなかった。

 一輝も顔をくしゃりと歪ませ、ぎゅっと手を握りしめ唇を強く結ぶ。

 何となく話を合わせ、同調し、当たり障りのない優しい言葉なら、思い浮かぶ。

 ……今までそうしてきたように。

 しかしそれは、この場しのぎの対症療法。しかるべき適切な言葉が思いつかない。

 そんな自分に愕然とする。

 まるでお前は今までそんな薄っぺらい人付き合いしかしてこなかったと、突き付けられたかのようだった。

 そして複雑な一輝の表情を見た姫子は「ぁ」と声を上げ、申し訳なさそうに肩を小さく縮こませる。


「いきなりこんな話、重かったですよね……?」

「っ!」


 蚊の鳴くような小さな姫子の声。

 それはまるでこの話は終わりという打ち切りとも、拒絶の言葉のようにも聞こえた。

 一輝は直感的に、ここが何かの岐路だと理解する。

 わずか一瞬の間に、様々なことを思い巡らす。

 どうして隼人や春希、沙紀ではなく自分に相談しにきたのだろうか?

 きっと彼らだと、距離が近過ぎてこうした話が出来ないに違いない。

 翻って自分はどうなのかと考えてみる。

 知り合ってまだ4ヶ月ほどの、兄の同級生。

 家族や幼馴染と違い、まだまだ希薄な関係性。

 その事実に胸が疼くものの、ならばこそ求められているものがあるのだろう。

 自分だって姫子のことで姉でなく、みなもに相談していたではないか。

 すぐ傍に居ない、離れたところにいる友達・・だから言えること――一輝は「んっ」と喉を鳴らし、なるべく明るき表情、軽い声色を意識して、まるで大したことじゃないと言いたげに語り掛けた。


「そんな風にさ、大人ぶろうとしなくていいよ」

「……一輝、さん?」


 一輝の彼女の頑張りを否定するかのような言葉に、姫子から怪訝な、批難混じりの視線を向けられる。

 ズキリと胸が痛めども、努めて笑顔を作り向け返す。


「今の姫子ちゃん、とても無理しているように見える」

「それは! だって……」

「頑張り過ぎてるから、心が疲れちゃってるんだよ。素直になって、ちゃんとお母さんに甘えればいい。だってその不安は、お母さんにしか解消できないものなのだから」

「……そんなことでうまくいくかな?」

「さぁ?」

「さぁって、他人事みたいに!」

「あはは、ごめんごめん。でも得てしてこういうことって、案外単純なことで解決したりするよ? ほら、覚えてる? 伊佐美さんがバスケ部の先輩に告白されたことを言いそびれて、伊織くんとモメた時とかさ」


 当時のことを思い返したのか、姫子は「ぁ」と息を呑み、目を丸くする。


「そういえば、そうですね……」

「案ずるより生むがやすし、帰ってぎゅっと抱き着けばいいよ」

「まったく、気楽に言ってくれますね、もぅ!」


 そう言って姫子は拗ねた顔で抗議する。

 だがその表情には暗い色が見受けられない。

 一輝はダメ押しとばかりに言葉を重ねる。


「もしダメだったら、その時はケーキバイキング奢ってあげるよ」

「ケーキバイキング! いいですね、じゃあ上手くいった場合も行きましょうよ、奢りはなしで、皆を誘って!」

「うん、そうしよう」


 姫子はカフェオレの残りを一気に飲み干し、「苦っ!」と声を上げ渋い顔を作って立ち上がる。どこか吹っ切れたようだった。

 そして晴れやかな笑みを浮かべ、一輝に告げる。


「ありがとう、一輝さん。話聞いてもらってスッキリしました!」

「どういたしまして。無責任に背中を押しただけだけどね」

「もぅ、おにぃやはるちゃんみたいなこと言わないでくださいよ!」

「あはは、影響受けてるのかもね」

「一輝さんってば!」


 姫子が拗ねたように言いつつ、そこではたと何かに気が付いたのか、振り返る。

 そしてまたしてももごもごと何かを言いあぐね、しかし今度は少し恥ずかしそうにしながら口を開く。


「えっと、一輝さん。また相談乗ってもらっていいですか?」

「もちろん」

「実はある人との関係、っていうのかな? ちょっと思うところがあるというか……」

「…………へぇ?」


 頬を赤らめ、特定の誰かについての相談をしたいという姫子。

 直感的に『例の好きだった人のこと?』と聞き返そうとして、なんとか言葉を呑み込んだ。そして、なんとか相槌を打てたと思う。

 正直なところ、相手が誰か聞き出したかった。

 せめて、男子か女子かだけでも知りたかった。

 仮に例の好きな人じゃなかったとしても、恋心初めての感情を自覚させられた女の子から特別な相手を匂わす言葉が飛び出せば、気にならないはずがない。

 しかしそれは友達として、兄の友人としては踏み込み過ぎる行為だという自覚もある。

 ぎちりと。

 爪が皮膚に食い込み血が滲みかねないほど強く拳を握りしめ、咄嗟に胸の中で荒れ狂うドロリとした黒い感情を呑み下す。

 幸いにして長年使いこんだ外向けの仮面作り物の笑顔は、崩れやしない。なんとも皮肉だった。


「とりあえず、今日のところはこれで! それじゃ!」

「……気を付けて帰ってね」


 そう言って姫子は言葉の勢いのまま去っていく。

 一輝はその背中が見えなくなるまで見送った後、ふぅ、と自らに向けて大きなため息を吐く。


「……………………これでよかったのかな?」


 呟いてみるも、わからない。

 姫子に掛けた言葉も、今思い返せばひどく軽いものだ。

 しかしわかったこともあった。

 姫子は胸に抱えたトラウマを、大人になることで乗り越えようとしている。

 それは一筋縄ではいかないことだろう。

 だから姫子は一輝に、何かあったら愚痴を零したり相談できるような、近過ぎない友人であることを求めている。

 身近な存在である兄や幼馴染の同級生という立場は、彼らの色々な事情も知っていることもあり、ほどよい距離感なのだろう。

 元々一輝が姫子に向けた最初の感情は、応援したい、というものだった。その気持ちは今でも変わらない。故にこの立ち位置に否やは無い。

 しかし、この胸に生まれてしまった彼女への恋心は、その邪魔になるだろう。

 ――だって恋人というのは、彼らと同じ近しい人になる、ということなのだから。

 それに、本人にその気がないのにそんな感情を向けられても、迷惑だということは身に染みている。

 だから一輝は、自らの心にそっと蓋をして鍵を掛けた。

 大丈夫、外面を取り繕うのは慣れている。

 そしてぎゅっと胸を握りしめ、困った顔で自らの心を縛る呪いの言葉を吐き出した。


「……ちゃんと友達になりたいって、言ったもんね」

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