242.一輝と姫子


 天高く澄み渡り、気持ちのいい秋の空が広がる昼下がり。

 文化祭準備に沸く校舎のとある教室の一画に、ガタンッという音が響く。


「痛ーッ!」

「おい、大丈夫か海童!?」

「なになに!? 今、すごい音したよ!」

「誰か早く、そのローテーブルどけてやってくれ!」


 慌てたように叫ぶのは、ローテーブルの片側を持つ男子生徒。

 そのもう片側にはローテーブルをお腹に載せている一輝。足を滑らせて下敷きになってしまったらしい。

 救出された一輝はバツの悪い顔を作る。

 あまり重いものでなかったのが幸いか、お腹を押さえているうちに痺れるような痛みもさほど時間を置かずやわらぎ、消えていく。

 しかし何人かのクラスメイトたちが心配そうな顔で声を掛ける。


「ケガはないか、海童?」

「あぁ、もう大丈夫。ごめん、騒がせちゃったね」

「ならいいけど……それにしても今日はどうしたんだ?」

「調子悪いなら、休んでたらどうだ?」

「そうよ、準備に遅れてるわけでも、手が足りてないわけでもないしさ」

「……あはは」


 気遣わし気な彼らに、一輝は苦笑で応える。

 今朝からの自分を振り返れば、散々なものだった。

 ドアには指を挟み、筆記用具は盛大に床にぶちまけ、持ってきたはずの財布もどこか見当たらない。

 注意が散漫になっている自覚はある。

 原因は今朝届いた姫子からのメッセージ。

 彼女への想いを自覚し、会いたいと言われれば、動揺するなという方が難しいだろう。

 このままいても足を引っ張るだけかもしれない。

 そう思った一輝は立ち上がり、ぎこちない笑みを浮かべ、皆に甘えることにした。


「ちょっと外の空気を吸ってくるよ」


 心配そうなクラスメイトの視線を背に教室を逃げるように飛び出し、あてもなくそぞろ歩く。

 校舎を包む賑やかな喧騒が、どこか遠い世界のように感じる。

 そのことに少しばかりの苛立ちと羨ましさを感じ、まったくもって胸中はちぐはぐだ。自分が自分の思い通りになりやしない。

 それだけ姫子という存在に、心が掻き乱されていた。

 やがて人気を避けるようにしていると、校舎裏手の花壇に辿り着く。

 畝が作られ野菜が植わっており、青々とした葉を揺らしている。

 辺りを見渡してみるも、ここの主ともいえるみなもの姿は見当たらない。

 当然か。今は文化祭の準備をしているのだろう。

 間借りするように近くに腰を下ろし、スマホを開く。

 そこに映るのは、今朝姫子と交わしたいくつかのやり取り。


『一体急にどうしたんだい? 僕の方の都合はつけられるけど……遊びの相談なら、隼人くんや二階堂さんにも声を掛けた方がいいかな?』

『おにぃやはるちゃんに聞かれたくなくて。2人だけでお願いします』

『わかった、皆には聞かれたくない話なんだね? てことは……このお店で待ち合わせしようか?』


 そこで会話は終わり、その後送った店のURLにも既読が付いている。

 普段の彼女らしからぬ、文面からにじみ出るどこか逼迫した空気。

 姫子の話とやらがとんと見当も付かず、余計に胸が掻き乱され、眉間に皺を刻む。


「好みのタイプ、会えますか……」


 これまでの文面を読み返し、もしや、と淡い期待をしたものの、即座にかぶりを振って否定する。思わず期待してしまった自分が滑稽だ。

 冷静に考えれば、姫子は自分に特別な感情を向けていない。

 そもそも秋祭り以降、特に何かあったわけでもなく、仲が進展するようなことなどあるはずもないだろう。

 そんなこと、様々な好意を勝手に向けられてきたからこそ、自分が一番よくわかっているではないか。

 得も知れぬ痛みがズキリと胸を走り、それを誤魔化すように意識を切り替え、ぼんやりとグラウンドの方を眺める。

 有志がステージを作っていたり、部活関係のグループが屋台なり場所を使う出し物の準備をしている。その中には一輝が所属するサッカー部の姿もあった。

 サッカー部は伝統的にサッカーナインという出し物をすることになっている。テレビ番組でも見かける、1から9までの数字が書かれたパネルにシュートして打ち抜くものだ。毎年、これがなかなかに好評らしい。

 毎年同じものをやっているということで、準備は部室にあるパネルを出すだけで事が済む。その分、練習なりクラスの手伝いを頑張れという方針だ。現在、手の空いてる部員がどこか不具合がないかチェックをしているようだった。

 一瞬手伝いに行こうと考えたものの、こちらでもどこかでヘマするのが関の山だろう。

 まったくもってこの感情は、自分で制御できやしない。

 空を見上げ「はぁ」と、どうしようもない想いと共に大きく息を吐き出し、青く高い空に吸い込まれていく。

 他にも、校門からちらほらと買い出しに出掛ける生徒の姿も見えた。

 文化祭の準備中は放課後のショートホームルームもなく自由解散、そのまま帰宅しても気に掛ける人もいない。

 このまま学校に居たところで、何もできることはないだろう。

 落ち着かないのならいっそと立ち上がり、少々早いものの待ち合わせ場所へと向かうことにした。



 一輝が待ち合わせ場所に指定したのは、先日隼人たちと美容院や服の買い物をした街にある喫茶店だった。

 チェーン店ではあるが、街の景観や雰囲気に合わせたレンガ調の異国情緒あふれる内装をしている。もちろん値段も変わらない。

 姉に教えてもらった、穴場とも言える場所だろう。女の子が喜びそうな場所で、待ち合わせするには最適な場所、の筈だ。

 それを裏付けるように店内には大学生くらいの少し背伸びした年頃の女性客が、スマホを弄ったり勉強道具を広げたり、雑誌を読んだりしている。


「……」


 一輝は奥まった場所の一画に席を陣取り、ぼんやりと窓から外の様子を眺めていた。

 時折、デートと思しきウィンドウショッピングをしているカップルの姿がいくつか目に入ってくる。

 そういえば、この街は有名なデートスポットでもあったことを思い出し、どうしても色々とそのことについて考えさせられてしまい、顔を顰め額に手を当てる。

 結局、何の話だろうか?

 良いこと? 悪いこと?

 様々なパターンを思い浮かべ、百面相。

 そこへ窓に映った姫子に気付く。


「……一輝さん」

「姫子ちゃん、思ったより……早かった、ね……」


 声を掛けられた一輝は、一瞬にして様々な考えは吹き飛び、パッと笑顔を浮かべて振り返り――そして大きく目を見開いた。

 瞳に映るのは、困った笑みを浮かべ、弱々しく佇む姫子。

 いつもの快活さはなく、まるで迷子になって今にも泣き出しそうな幼子の様。思わず言葉も詰まってしまう。

 浮かれた気持ちや不安だなんてものは、一瞬にして霧散する。

 兄や幼馴染には聞かれたくない話――直感的にいつも明るい笑顔の裏で時折滲ませていた、暗い影についてのことだと気付く。

 あぁ、きっとこれは、彼女が根底に抱えていることについてのことだ。

 緊張が走る。

 スッと頭が冷えていく。

 そして、きゅっと唇を結ぶ。

 一輝は、姫子の言葉に救われた。

 だから、今度は自分の番だ。

 緊張感はそのままに、しかし一輝は姫子を安心させるような笑顔を計算・・し、にっこりと話しかけた。


「とりあえず、座りなよ」

「……うん」

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