237.母が望む娘
あの後、姫子の部屋から出た春希と沙紀は、速やかに帰路に着いた。
日に日に長くなる秋の夜は深まるのも早い。
月を隠すどんよりとした雲は、まるで夜の初めの喧騒を吸い込んでいるようで、やけに静かに感じる。
そぞろ寒く少し寂寥感を覚える空の下、沙紀が躊躇いがちに口を開く。
「姫ちゃんは――」
「うん?」
沙紀はそこで一旦区切り、足を緩め、慎重に言葉を探す。
春希は急かすことなく同じく足を緩め、夜の住宅街を緩慢に歩く。
やがて沙紀はちょっと困ったような顔を春希に向けた。
「思った以上に寂しがり屋さんなんですよね」
「あー……」
寂しがり屋。
その言葉はストンと春希の胸に落ちた。
かつての記憶を思い起こせば、何かと理由をつけて背中を追いかけてきた幼い
「そうだね、そして不器用で意地っ張りだ」
「誰かに甘えるのも、案外下手くそで」
「あ、わかる。ボクたちにもっと頼ってくれてもいいのに、困ったね」
「えぇ、ホントに。それでその、姫ちゃん、もう大丈夫そうですか?」
そう言って沙紀が心配そうに顔を覗き込んでくる。
春希は胸の内の、あるがままの言葉を返す。
「ボクたちで大丈夫にしちゃえばいいんじゃない?」
「ふぇ?」
「見守るだけじゃなくてさ、こっちからこぅ、ぐいっと強引にね」
「……それって、お兄さんのように?」
「あはっ! そうそう、隼人のように!」
「ふふっ、そっかぁ」
思えば隼人は昔から、出会いからして、こっちの気持ちとか考えなしにお節介を焼いてきた。そして結果としてどれだけ救われたことか。
どうであれ向けられたその気持ちは、嬉しかったのだから。だからきっと、姫子にもそうした方がいい結果になるはず。その確信がある。だって姫子は、その隼人の妹でもあるのだから。
何かを思い出したかのようにくすくすと笑う沙紀にも、きっと似たようなことがあったのだろう。2人してやれやれといった顔を見合わせる。
そうこうしているうちに、沙紀のマンションが見えてきた。霧島家のそれとは違う単身者向けの、しかし堅牢さ感じさせる、遠く離れた娘へと用意された場所。
「それじゃあね、沙紀ちゃん」
「はい、ではまた明日」
挨拶を交わし、沙紀がマンションの中へと消えていく。
1人になると急に寂しさが込み上げてきた春希は、それを振り払うかのように自宅へと急ぐ。
小走りになりながら考えるのは、姫子とその母真由美の関係について。
真由美には幼い頃、よくお世話になった。
擦りむいた傷の手当をしてもらったり、たまにお昼を食べさせてもらったり、隼人と一緒に悪戯をよく怒られたり。
今と同じコロコロと表情がよく変わる、そんなところもやはり隼人や姫子とよく似た大人の女性。
幼いひめこはそんな真由美によく懐いていた。
そして姫子は、彼女が倒れた2回とも、そのすぐ傍にいたという。
きっと、怖いのだろう。
また、目の前から大切な母がいなくなってしまうんじゃないか、と。
その多くの人なら共感できることがしかし、春希は頭では理解できても感情では今1つもやがかかったように、蓋がされているかのように、己の母との歪な関係から、よくわからない。
そう、沙紀が胸に秘める想いのように。
だけどその沙紀の感情に、秋祭り
もし大事な人が――隼人が目の前で倒れたら?
「――ぁ」
自分の口から驚くほど底冷えした言葉が漏れた。
胸は凍てつき軋みを上げ、足元はおぼつかなく崩れていくような感覚。
世界に1人取り残されたかのような失意と絶望。
自分という存在が黒いなにか空虚じみたものに侵食されるような錯覚を覚え、春希は慌てて頭を振り、意識をリセットさせる。
足を止め、隣の塀に手を付き、はぁはぁと息を荒げながら、収まる気配のない動機を抑え込むように胸を掴む。
姫子の感情の一端を垣間見た春希は、少々困惑の最中にあった。
そして息を整え、顔を上げ、いつの間にか近くにやって来た自宅を見て、さらにくしゃりと顔を歪ませる。
「ぇ」
思わず変な声を零す。
どうしたわけか、いつもは暗いはずの玄関や窓から灯かりが漏れている。
今朝を思い返しても、点けっぱなしで出た記憶はない。
そして密かに感じる、誰かがいる気配。
鼓動はさらに嫌な早鐘を打ち鳴らす。
中に誰が居るかだなんて明白だ。
そもそもこの家のカギを持つのは、春希の他は1人しかいない。
何故? どうして?
いきなり辛い現実に引き戻されたかのような錯覚。
頭の中は疑問、驚き、動揺がぐるぐるとない交ぜになっている。
まずは落ち着こうと何度か深呼吸を繰り返し、「あ」と声を上げ原因に辿り着く。
数日前に教室でも話題になった、春希が目立つように編集されたMOMOと唄った時の動画。
迂闊だった。
母は、田倉真央は、
あの動画を見つけた母が、そのことに言及しないはずがないだろう。
思考を、いつもの
頭も自動的にスッと冷え込んでいく。
そして刃のように鋭く研ぎ澄まされた意識の中、この状況について思い巡らす。
「…………」
皮肉なことに、
ならば、どうすれば最善の結果へ辿り着くかの計算をするのみ。
姫子と母との関係と比べ、なんとも滑稽なことか。
そして春希纏う空気を一変させ、母が望む娘と成って、玄関を開けた。
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