238.茶番劇


 玄関を潜れば、誰もが知っている高級ブランドのロゴが入った靴が目に飛び込んできた。母の物で間違いないだろう。

 そして春希の帰宅に気付いたのか、リビングから人影が立ち上がり、苛立ちを隠そうともせずこちらに向かってくる。

 靴を脱いでいる途中で現れた田倉真央は、相変わらず妖艶さを醸し出し、思わず息を呑むほどの端麗さと苛烈さを同居させていた。


「あ、お母さ――」


 春希が驚きと少しばかりの嬉しさを滲ませた声を上げようとした瞬間、パシンと乾いた音が玄関に響く。

 よろめき、打たれた頬を利き手で押さえ、目尻に涙を浮かべ、上目遣いで母を見上げる。今度は困惑と恐れの混じった表情で、縋るように。

 田倉真央は平手に続き、どこまでも冷えた目で春希を見下ろし、手に持つスマホから件の動画を見せながら、忌々しそうに言葉をぶつけてくる。


「これはどういうことかしら?」

「……えっと、MOMO、さんに、強引に手を引かれ無理矢理……」

「そんなことを聞いてるんじゃないわ。あなたは田倉真央の娘なの。言ってる意味、わかるわよね?」

「……はい。ごめん、なさい……」


 春希は瞳を潤ませながら、そっと目を伏せる。

 さながら聞き分けの悪い子供と、それを躾ける母。

 幼い頃から幾度となく繰り返してきた光景。

 しかし春希の心は何の痛痒も感じていない。

 ただ嵐が過ぎ去るのを無難にやり過ごすための茶番劇。なんて滑稽の母娘関係。

 春希は自虐に口元を緩ませる。

 いつもなら母はここで留飲を下げるところだがしかし、今回に限っては話が別だ。むしろここからが本題だろう。

 現に田倉真央は利き手を額に当て、煩わし気に、いっそ憎しみが込められた言葉を吐き捨てる。


「よりによってMOMO……あの人の事務所のところとか」

「……あの人?」

「あなたは何も知らなくていいの! ……それより、誰かに何か言われたりした?」


 そう言って母は娘に向けて何かを確かめるような、探るような、そして若干の期待と恐れが含まれた複雑な視線を鋭く寄越す。そこに少しばかりに違和感を覚えるが、この場を切り抜けるために必死に頭を回転させる。

 誰か。

 そう問われて真っ先に思い浮かべるのは、MOMOたちのプロデューサー兼マネージャーを務めるという桜島という男。現に彼は、春希のことを田倉真央の娘だと半ば確信したような物言いをしていた。

 ……2人がどういう関係なのかはわからない。

 しかしただの知り合いと言い切るには、彼はあまりにも深い部分を知り過ぎている気がする。

 春希は目だけを動かし、ちらりと母を見てみる。

 どこか春希の面影を濃く残してるかんばせはすっきりとした目鼻立ちをしており凛として涼やかな印象を与え、皺が無く瑞々しい肌はとても子供がいる、公表されているプロフィールを信じるならば30代半ば過ぎには見えず、20代と言っても通じるだろう。

 思えば桜島も、かなり整った顔立ちと艶肌をしていた。もしかしたら同世代なのかもしれない。

 そして春希の生まれを知っているということから、ただならぬ関係なのではないだろうか?

 興味がないと言えば嘘になる。

 だが今はこの場を切り抜ける方が先決だ。


「……特に、なにも。そもそもMOMO、彼女以外誰にも声を掛けられなかったので」

「……そう」


 春希は事実を捻じた言葉を口にし、ふるふると力なく首を左右に振る。

 すると母の顔から急速に興味の色が失われていき、「ふぅ」と、もう用はないとばかりに大きなため息を吐く。それからリビングに戻り自分の鞄を手にする。靴と同じ高級ブランドのものだ。

 田倉真央はその様子をおずおずと見ていた娘に、玄関に向かいがてら言い含め諭す。


「いい? あなたがこうして不自由なく生活できてるのは、私が仕事してお金を稼いでいるからなの」

「…………はい」

「"借り〟たものを返せだなんて口さがなく言われ、惨めな思いをしないためにも、良い子・・・で待ってなさい」


 そう言って母は返事も待たず、振り返ることもなく家を出ていく。

 一体どこへ行くかはわからない。だが春希は嵐が、厄介なものが去っていったとばかりにホッと息を吐き胸を撫で下ろす。

 なんとも忌々しい目で玄関を睨みつける。

 不自由? 確かに生きていく上では不自由は何もないだろう。

 だがそれはただ生きてる、存在するだけという話なだけだ。

 眉間に皺が刻まれ、ぐるぐるとネガティブな感情が胸を渦巻く。

 そしてはたとあることに気付き、ぎゅっと制服の胸を掴んだ。


「ボク、は……」


 あまりにも自らの母と、姫子のそれとの想いの違いに愕然とし、唖然として立ちつくす。

 春希は顔をくしゃりと歪んだ制服のブラウスの皺のように歪ませ、弱音が言葉となって零れ落ちる。 


「こんなボクがひめちゃんに何かしてあげられるのかな……」


 歪な自分に嫌になる。

 月野瀬で、沙紀と比べてしまったように。

 春希は荒れ狂う感情にズキリと痛む胸を押さえながら、のろのろと見たくないものを避けるように自分の部屋へと向かう。


「ぁ」


 パチリと部屋の灯かりを点ければ、ベッドの上で転がる猫のぬいぐるみが目に入る。いつぞやのゲーセンで隼人から生まれて初めてもらった誰かからのプレゼント。

 まるで誘われるように近付き、ぎゅっと抱き寄せれば、自然と言葉が零れてしまう。


「……会いたいよ」


 そう言って脳裏に思い浮かべてしまったのは、唯一無二の親友相棒の姿。

 自分でも予想外とばかりに瞠目し、ハッと息を呑む。

 少しばかり冷えた心が暖かくなっていくのも感じる。

 もっとこの熱を欲し、一瞬、今から訪ねようとも考えた。

 しかしすぐさまその考えを戒めるように小さくかぶりを振る。

 今の隼人は姫子のことで手がいっぱいだろう。そこへ手と心を煩わせるようなことはしたくない。

 また、沙紀のこともある。

 ふと今日の昼間、旧校舎で高倉柚朱と見てしまった一輝の一件を思い返す。

 もし自分が沙紀の知らないところで縋るようものなら――とてもじゃないが彼女の想いを知っている今、そんな友達を裏切るようなことはできやしない。


「…………」


 春希はぬいぐるみをギュッと強く抱きしめた後、手に持って向き合う形になり、そして自分を鼓舞するかのように話しかけた。


「……ここで相棒に、本当の特別になりたいって思ってたら、甘えちゃだめだよね!」


 春希は、ふんすと鼻息荒く気合を入れる。

 しかしそれは春希の心を余計に締め付ける呪いに他ならない。

 それでも春希はニッといつもの強気な笑みを、無理矢理浮かべるのだった。




※※※※※※※


てんびん6巻、本日発売です。

よろしくお願いします!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る