155.おやすみなさい


 状況がよくわからなかった。

 必死に頭を働かせてみるも、思考は鈍く、上手く回ってくれない。


 身を起こそうとするも身体はやたらと重く、「うっ」と唸り声を漏らせば、沙紀が困った顔で両手で押しとどめてきた。


「そのまま寝ていてください。熱、結構ありましたから」

「ええっと、村尾、さん……?」

「はい、村尾沙紀です」

「どうして……って、姫子はっ!」

「ふふっ、まず最初に姫ちゃんなんですね。心配いりませんよ、今春希さんと一緒にお風呂に入ってます」

「春希と風呂……?」


 隼人の眉間に思わず皺が寄る。

 姫子と春希が一緒に風呂――その光景がどうしてか想像出来そうで出来ない。頭が重く回らないこともあって、余計に。

 今度は先ほどと違った意味でうーんと唸り声を上げる。

 すると沙紀がくすりと笑みを零す。


「春希さん、お兄さんが倒れたって聞いて、そのまま傘も差さずに飛び出してったんです」

「……あの、バカ」

「車で追いついた時にはすでにびしょ濡れで……一応車内で拭きましたけど、それでも春希さんの姿をみた姫ちゃんがびっくりして、お風呂に連行しました」

「ったく……でも春希らしいや。……そっか、じゃあ姫子は大丈夫か……」

「ちょっとぷりぷりしてましたけどね」


 隼人はホッと安堵の息を吐く。

 するとそこでようやく今自分の置かれている状況が気になってきた。

 記憶を掘り返すと、畑の台風対策から濡れネズミになって帰ってきて、洗面所で着替えたところまでは覚えてる。

 どうやらそこで気が抜けて倒れてしまい、姫子が応援を呼んで、客間まで運ばれたのだろう。春希たちに運ばれたのかと想像すると、少し気恥ずかしい。


 衣服や髪が湿っぽいのは雨のせいなのか、それとも汗なのかはわからない。

 身体は気だるくて重く、頭も熱っぽくてふらりとしている。典型的な風邪の初期症状だ。


 よくよく考えれば急な引っ越しに都会での新生活、日々の家事にも追われ、月野瀬に戻ってきてはしゃぎ倒していた。

 そんな心身ともに疲労が溜まっていたところに、子猫騒動からの台風前の畑対策という、久々の肉体労働。

 隼人でなくてもオーバーワークで倒れてもおかしくないだろう。

 とはいえ、そのへんの自己管理を見誤ったからこその、現状なのだ。

 今度は情けなさから、はぁぁ、と先ほどとは違った意味のため息が出た。


「あの、大丈夫ですか? 一応解熱剤がありますが……あ、まず何かお腹に……ゼリー飲料ですけど、入りますか?」

「え、あ、ありがと」

「おでこの冷却シートも交換しますか?」

「いつの間に……あ、自分でするよ」

「私に任せてください」

「あ、はい」


 沙紀はにっこりと微笑み、甲斐甲斐しく世話を焼く。

 身を起こすのを手伝ってくれたり、ゼリー飲料や薬、水を手渡してくれたり、寝たら肩まで布団を掛けてくれて冷却シートを交換してくれたり。

 妹の友人にそんなことをされるのは妙に気恥ずかしかったが、有無を言わさぬ口調で「風邪っぴきさんは大人しく看病されてください」とぴしゃりと言われれば、何も言えなくなってしまう。


 何とも言えない空気が流れる。

 そもそも、何を話して良いかわからない。

 話題を探しても見つからない。思考は鈍い。


 兄と、妹の親友。

 その距離は近いようで遠い。

 こんな状況、月野瀬に居た頃は考えたこともなかった。


 しかしそこには気まずさはなかった。

 それどころか、どうしたわけかやけに懐かしさにも似たものも感じている。

 昔似たようなことがあったのだろうか?

 必死に記憶を漁るも、やはり熱のせいで何かがもやにかかったようで、上手く思い出せない。

 隼人の眉間にしわが刻まれる。


 その時風呂場の方からパシャパシャという水音と共に、「み゛ゃっ!?」という春希の鳴き声が聞こえてきた。

 何をしているのかは分からないが、姫子が随分とはしゃいでいるようで、沙紀と目が合えば苦笑いを零す。


「まぁ、姫子が無事ならいいんだ」


 隼人がぶっきらぼうにそう言い放てば、沙紀は目を、細めくすりと言葉を零す。


「前から思っていましたけれど、お兄さんは姫ちゃんに少々過保護なところがありますよね」

「っ!? そう、か? まぁ妹だし普通というか、姫子ズボラで手が掛かるだけだし」


 かつて春希にも言われた同じ評価に、ドキリと胸が跳ねる。

 隼人としてはそんなこと、意識したことなんてない。

 だけど沙紀はより一層目を細め、緩んだ口元から言葉を零す。


「だから姫ちゃん、お兄さんに懐いてるんですね」

「……懐いてるのか、あれ?」

「ふふっ、姫ちゃんが少し羨ましいです。私もお兄さんみたいな兄、欲しかったなぁ」

「っ!? ええっと……」

「えっ、あ…………っ」


 唐突な沙紀の言葉に、お互い顔を赤らめそっぽを向いてしまう。

 頭が余計に熱を帯び、回らなくなる。

 だけど悪い気はしない。胸がやけにくすぐったい。


「……あーその村尾さん、もし叶うなら高校の進学先は、こっちに、都会の方に来て欲しいな」

「……………………ぇ?」


 沙紀の目がまん丸に見開かれる。

 それはきっと、熱に浮かされてせいで零れてしまった言葉だろう。


「姫子ってさ、知っての通り危なっかしいんだ。姫子だけじゃない、春希も……でも俺は……なんだろう、村尾さんがいると安心できるというか、大丈夫な気がするんだ」

「お兄、さん……?」

「村尾さんはずっと昔から、頼んで、俺には出来ないことをしてきて、だから……」


 そこには隼人の弱気も混じっていた。

 ふいに胸が苦しくなる。

 無力なのは痛感している。そして絶望も。

 だけど、これは誰かに言うようなことではない。

 姫子、そして春希には絶対に見せられない類のもの。

 その心の裡の脆い部分を晒していた。

 熱のせいもあるだろう。

 しかし相手が沙紀だからこそ、零してしまったものだった。


「そ、う……昔も……」


 先ほど夢の中で、忘れていた昔のことを思い出したような気がする。

 だけど熱で溶かされるように、その記憶の輪郭がぼやけていく。

 大切なはずの何か。

 それが消えて行かないようにと、必死に手を伸ばす。

 だが泥のようなものが足元に絡みついてくる。

 脳が熱を帯び、呼吸が荒くなる。


 するとふいに沙紀がぴたりとおでこに手を当て、撫でられた。

 それは妙な安心感を与え、すぅっと身体が軽くなっていく。


「今は寝てください。じゃないと治るものも治りませんよ?」

「え? あ、あぁ……」

「何かして欲しいことはありませんか?」

「今夜は傍に……泊まっていって欲しい」

「姫ちゃんが寂しがるから、ですね」

「……いや、多分、俺、も…………」

「っ!」


 熱が身体を巡る。

 隼人は最後まで言い切る前に意識を手放した。


「――おやすみなさい」


 最後に呟いた、沙紀の声だけを耳に残して――

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