154.泣き虫ひめこ


 隼人の意識は混濁としていた。

 既に雨が降り出していた中、長時間にわたって台風対策をして帰宅した時には既に身体が重く、ぐらりと世界が傾いたのを覚えている。

 意識を手放す直前、視界に飛び込んできたのは、蒼白となった姫子の顔。


 それがふいに、かつて泣き虫ひめこ・・・が言葉を無くしたときのことを思い起こさせる。

 心の奥底に閉じ込めていた、忘れようとしていてだけど忘れられそうにないことを。

 もしかしたらそれは春希の過去を聞いて、また、子猫のことがあったからなのかもしれない。


 5年前、母が1度目に倒れた日。

 あの日も台風ではないけれど、今日みたいな大雨だった。

 図書室で雨が止まないかなと、時間を潰して帰ってきたのを憶えている。


 帰宅したはやとが目にしたのは床で身動きしない母と、それを目の前にして立ち尽くすひめこ。


 細かいことは、最早憶えていない。

 慌てて父に電話をして、先ほどの子猫騒動の時と同じように、月野瀬中が慌ただしくなったのは記憶に強く残っている。

 幸いにして緊急手術も成功して、村の誰しもが安堵したことも。もちろん、はやとも諸手を上げて喜んだ。


 だけどひめこだけが喜ばない。

 それどころか顔色1つ変えず、あらゆる感情が顔から抜け落ちており、何も喋らなかった。否、喋れなかった。


 ひめこは母が倒れたショックから自分の心を守るために、殻に閉じこもり声を失った。

 端から見れば気落ちしているだけに見えるだろう。

 しかし身近にいたはやとだけがひめこの異常に気付く。


 もちろん、なんとかしようと色々と子供ながらに試みる。

 喜ばそうと思って家の中に段ボールで3階層の秘密基地を作ったり、客間一面に布団を敷き詰めて一緒に寝たり、ハンバーグに欲張って色んな食材を詰めて作ってみたり。


 だけど何1つ反応しなかった。

 それでもはやとは根気よくひめこに構う。


 妹だから。

 はるき・・・がいなくなり、唯一と言っていい、身近な同世代でもあったから。


 あの日。

 夏の終わり。

 いつまでも無邪気に楽しい日々が続くと信じていた時。

 自分の力ではどうしようもないことがあることを理解してしまったから。

 そして今まで当たり前のようにあった日常が、ある日突然何の前触れなく崩れ去ることを、知ってしまっていたから。


 だから必死に手を伸ばす。

 ひめこがひめこであるように。

 だけどはやとを嘲笑うように手を伸ばしても、伸ばしても、希望が指の間から零れ落ちてしまう。

 ひめこは何も変わらない。


 はやとは無力だった。

 目の前が真っ暗になっていく。

 世界から色が抜け落ちる。

 だから何かに縋らずにはいられないほど、心が摩耗していた。


 ある日の放課後のことだった。

 木枯らしが吹き始める頃だったと思う。

 木の葉が色を鮮やかに変え、そして散らしていた。


 心のままにふらふらと足を動かし、たどり着いたのは月野瀬山の手中腹にある神社。

 はるきが居なくなってから、意図的に避けていたところでもある場所。


 だけどその一方で、キラキラと輝くものを見た記憶の強いところ。

 それがはやとの心に引っかかっていたもの。


 幼心にも神様に頼むしかない――そんなことを薄らぼんやりと考える。


 夏祭り以来久しぶりに足を踏み入れた神社はどこ懐かしく、物悲しく、それは隼人の知らない光景で、だから足を踏み入れるのに躊躇ってしまう。

 そもそも、なんの宛てもなくやって来たのだ。


 だけど竹箒と共に境内でキラキラくるくる舞う女の子を――さきを見れば、思わず息を呑みその場に釘付けになった。


『――――っ』


 舞いの意味はわからない。

 ただ、必死に何かを求めて手を伸ばそうとしているのはわかる。


 ――もどかしく、何度も、何度も。


 だから、その懸命な姿がはやとの胸を刺す。

 ふいに目の前に光条が差し込み、気付けば駆け出してしまっていた。


『おれのいもうとを、笑わせてくれ!』

『ふぇっ!?』


 いきなり現れたはやとに手を握りしめられ、そんなことを言われれば、さきでなくとも後ずさってしまうことだろう。

 直情的な行動だった。

 だけどその時のはやとには、さきに縋るしかなかった。


『たのむ、ひめこを助けてくれ! あいつは泣き虫で、おれがなんとか、でもなにもできなくて――』


 一体、驚き戸惑うさきに何を言ったのだったか。

 ただ妹を、ひめこを何とかしてくれと懇願したのは憶えている。

 そして、その時の顔も。


 あぁ、それでも早く起きなければ。


 あの頃よりもずっと大きくなったけれど、姫子は以前として憶病で寂しがり屋なのだ。

 今頃きっと、大きなべそをかいているかもしれない。

 もしかしたらかつてのように――

 その顔を見るのは、考えただけでも胸が締め付けられる。


 ――はるき・・・が居なくなった時のことを思い出して。


 だから、無理矢理にも意識を浮上させる。


「姫、子……泣いてないか……?」

「大丈夫ですよ」

「…………ぇ?」


 意識を覚醒した瞬間、目に飛び込んできたのは見覚えはあるが馴染みのない客間の天井。そしてどうしたわけか、簡素な浴衣姿の沙紀だった。

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