156.吹き荒れる心
「――おやすみなさい」
沙紀のその呟きは、ザァザァと屋根を打ち付ける雨音に掻き消されていく。
そっと隼人から手を放し、その手を自らの胸へと当てた。
「……ぅ……すぅ……」
ほどなくして隼人から規則正しい寝息が聞こえてくる。
顔は依然として熱で赤いものの、その表情は心なしか穏やかだ。
「お兄さん……」
しかし沙紀の対照的に複雑だった。
唇はキュッと結ばれ、浴衣の共襟が握りしめられ皺が作られていく。
「私も高校、そっちに行きたいなぁ……」
ふるりと、何かに耐えるように肩を震わせる。
それは沙紀の心からの望みだった。
呟きと共に、ぽたりと浴衣を握りしめる手の甲に雫が落ちていく。
部屋はザァザァと屋根を打ち付ける雨音が支配している。
どれだけ、隼人の顔を見ていただろうか。
やがて沙紀はふぅ、と熱い息を吐き出し、周囲を見渡す。
そしてすぅすぅと寝息を立てている隼人、その唇をじっと見つめ、吸い寄せられるように自らの桜色に色付いた唇を寄せていき――
「――っ」
そこで襖の間から一連のやり取りを見ていた春希は、サッと目を身体ごと逸らした。もう見ていられなかった。
薄暗い廊下。
台風の雨が家屋のあちこちを叩く中、壁際にそっと背中を預ける。
ズキズキと胸が騒ぐ。
風呂上がりに姫子から手渡された、以前マンションに泊まった時に借りた隼人のシャツの胸を、奥歯を噛みしめながらぎゅっと握りしめ皺を作る。
沙紀の想いは知っていたはずだった。月野瀬に置き去りにされた、その、想いを。
しかし知っていてなお、実際にその想いの発露を目にした時の衝撃は、受け止めきれそうにない。
同じような状況で、自分がした時の行動と比べてしまうから、なおさら。
先ほど零してしまった沙紀の言葉も、耳から離れない。
月野瀬から最寄りの高校まで片道2時間と少し。距離もあり、進学と同時に村を出る人が多い。
それでも山を下りた先にある同じ県内か、せいぜい隣の県。
週末になれば実家に戻って来られるようなところに通うのが習わしだ。
高校生は子供というわけじゃない。
だけど大人と言い切れるような歳でない。
まだまだ親の目や手が届くところに、となるのだろう。
翻って都会と月野瀬は遠い。
とても、遠い。
その遠さは春希自身が、身をもってよくわかっている。
だからこそ、胸が疼く。
気軽に行き来できるような距離じゃない。
物価や家賃も地方と都会で随分と違う。
事実、隼人たちは夏休みじゃないと戻ってこられなかった。
一体どれほどの想いを込めて、都会に行きたいと言葉を零したのか。
それも、隼人に聞かせまいと――
唇を嚙みしめる。
春希は息と足音を殺し、その場を離れた。
リビングへと戻れば、姫子がドライヤーで髪の毛を乾かしていた。
春希の気配に気付くと、そっぽを向いたまま硬い声で尋ねてくる。
「……おにぃ、どうだった?」
春希は「んっ」っと、咳ばらいを1つ。
今の表情を見られまいと、咄嗟に笑顔の仮面を被る。
「ぐっすりだったよ。疲労による発熱みたいだし、寝て起きたら明日にはケロリとしてるんじゃないかな?」
「……まったく、おにぃってば自分のたいちょーかんりがなってないんだから! 普段、小うるさいくせにね!」
春希の言葉に、姫子の纏う空気が和らいでいく。
安心した姫子がいつもの調子で明るく毒づく。
そして春希はあははと曖昧な笑みを零し、まだ湿っている自らの髪をひと房掴んだ。
「ね、ひめちゃん。ドライヤー、次貸してもらっていいかな?」
「うん、いいよ。ていうか今終わったから、あたしがやったげる」
「え? あ、うん……」
姫子は言うや否や立ち上がり、春希の後ろに回り肩を押して床のクッションの上に座らせる。
そして髪を手に取りながら、ブォォとドライヤーを鼻歌まじりに動かした。
「はるちゃん、髪の毛長いよね。お手入れ大変じゃない?」
「あはは、月野瀬から都会に行ってからずっとだから、もう慣れちゃったかな?」
「へぇ……それにしてもさらさら、キレイ」
「あはは、ありがと」
「ロングもいいなぁ。
「…………うん」
姫子の女の子ってい言葉に、春希は言葉を曖昧に濁す。
少しばかり口元が引きつった。顔を見られなかったことに安堵する。
そのまま特に会話もなく、姫子に髪の毛を委ねる。
その手つきは壊れ物を扱うかのように繊細で、いつもの姫子の姿をしっているだけに不思議な感じがした。
やがてドライヤーの音が止む。
髪はすっかり乾いていた。
いつもより丁寧だったせいか、手櫛の通り具合が滑らかな気がする。
「はい、おしまい」
「ありがと、ひめ—―ひめちゃん!?」
「駆け付けてきてくれて、嬉しかった……」
そして姫子が背後からぎゅっと抱き着いてきた。
少しだけ震えている身体から、不安が伝わってくる。
先ほどまでのは、空元気だったのかもしれない。
姫子から回された手に、そっと自分の手を重ねる。
隼人と違い、かつて月野瀬に居た頃とあまり変わらない、小さく柔らかい手の感触が伝わってくる。
「……
「大丈夫だよ、ひめちゃん。そんなことないから」
「うん、わかってる、けど……」
「ひめちゃんはほんと、昔からお兄ちゃん子だなぁ」
「……そんなことない、普通、だと思う」
「あはっ」
「……もぅ、はるちゃんったら!」
憮然とする姫子に、くすりと笑いを零せば、講義とばかりに抱き着く腕にぎゅっと力を込められた。
春希は窘めるように「はいはい」と軽く2回腕を叩き、立ち上がって向かい合う。
そして安心してとばかりに――な笑みを姫子に向けた。
「『安心しろ、姫子』」
「…………ぁ」
そして、がしがしと少し強引に姫子の頭を掻き混ぜる。
――いつも、隼人がしてくれるように。
姫子は少しだけ嬉しそうに、「もぅ、せっかくの髪が」と、声を漏らす。
台風は依然として、月野瀬に暴風雨をまき散らしていた。
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