148.それはダメ
眼前に広がるのはどこまでも続く水面。
おそらく月野瀬の村ならまるごとすっぽり入ってしまう程の、あまりにも巨大な湖。
朝陽を受けてキラキラと宝石のように輝いている。
まさか山の中でこんなものを目にするなんて、想像もしてなかった。
どちらからともなく自転車を降り、ただただ言葉も忘れて見入ってしまう。
驚愕、興奮、感激、様々な感情が胸で渦巻き混ざり合っている。
きっと、期せず隠されていた宝物を発見したら、こんな感情になるのだろう。
「隼人、見て、あそこ!」
「あの建物は……あぁ、なるほど。ここ、ダムなのか……そういや小学校の頃、習ったような気がする」
「ダム湖かぁ……それにしてもおっきいね」
「そうだな……」
「これってさ、海まで流れていくんだよね?」
「そのはず、だけど……こんな山の中だし、なんか全然想像つかないや」
「しかもさ、下流に住んでる何百万って人の生活の水を支えてたりするんだよね?」
「……なんかもう、わけがわかんなくなってきた」
「……ボクも」
なんとか知識と知っている事柄を集めて、目の前の光景を自分の中に落とし込んでみようとするも、どうにも上手くいかない。
先日行ったプールも確かに大きかったが、それとは比べ物にならない水量だ。圧巻だった。
これが人の手で作り出されただなんて、にわかには信じられない。
圧倒されながらも、視線はダム湖に釘付けだ。
そして無言でただただ立ちつくす。
朝陽が春希たちを照らし、ザァッと吹いた風がダム湖に波紋を広げていく。
目の前のこれと比べると、人はなんて小さな存在なのだろうか?
足元がおぼつかないような不安に駆られる。
ふと視線をずらせば隼人の背中が目に入った。
先ほどまで――いや、思えば幼いころからずっと見てきた、背中。
右手が吸い寄せられるようにして、そのシャツの背中を掴んだ。
「――き」
そして春希は自分でも思いもよらない言葉を零す。
信じられないとばかりに目をぱちくりさせる。
すると隼人が不思議そうな表情で振り返り、顔を覗き込んできた。
「春希?」
「え? あ、いやボクさ、背中! 昔から隼人に強引に引っ張られて、だからその背中と一緒に、今みたいな色んなものを見て来たなぁって」
「俺、そんなに振り回してたっけ?」
「そうだよ。だからボク、隼人のそんな背中が好きなんだなぁって」
「……っ! そ、そうか」
「ふふっ」
春希の言葉で顔を赤くした隼人はガリガリと頭を掻き、そして「あー」とか「うー」とか唸り声を上げながら視線を前へと戻す。
春希は胸に手を当てその隣に並ぶ。
すると隼人は手を下ろしため息を1つ。そしてすぅっと目を細めた。
「この景色さ、すごいよな。きっとこれからもずっと忘れられない、思い出になるなって」
「うん、そうだね。ボクもそう思う」
「けどさ、この景色ってきっと、春希がいなかったら見に来なかった。春希が探検の相棒だったからこそ、見つけられた」
「隼人……?」
そして隼人は笑う。
屈託のない、子供の頃と同じ無邪気な顔で。
かつてと同じ春希を
あぁ、これはきっと、春希にだけに見せるものなのだろう。
だから春希も釣られて、にししと子供の頃と同じ悪戯っぽい笑みを零す。
胸がドキリと跳ねる。
すると隼人は少し恥ずかしそうにしながら、奥歯にものが挟まったように言葉を紡ぐ。
「あー、なんていうか、春希はそういう風に笑っていた方が、俺もその、好き、だ……と思う」
「ふぇっ!? え……あ……っ」
不意打ち気味にそんなことを言われれば、思わず頭が真っ白になってきょとんとしてしまう。
だがその言葉がじんわりと胸へと入り込んで来れば、たちまち頭の沙紀から湯気が出そうなほど血が上っていくのを自覚する。
それは隼人も同じのようで、互いにゆでだこのようになった顔を俯かせ、無言で気まずい空気が流れる。
胸が騒がしい。
でも決して悪い気分じゃない。
それから隼人はぽりぽりと人差し指で頬を掻き、ごく自然な流れで今までと同じように春希の頭を撫でようと手を伸ばして――それをそっと掴んで止めた。
「……春希?」
「それはダメ」
「ダメって……」
まさかダメだなんて言われるとは思っていなかった隼人は、困惑の表情を浮かべる。
そして春希は困ったなと眉を寄せ、何とも言えない声色でその理由を呟いた。
「今、
自分でもよくわからないな、って感じの言葉だった。
だけど、そうとしか言えない理由だった。
隼人は目をぱちくりとさせた後、視線を逸らし「悪ぃ」と呟く。
春希は「別に隼人は悪くないけど……」と返し、共に水面を眺める。
ダム湖には逆さまになった山と空が映り、朝陽を受けてキラキラと輝く。
ふぅ、と大きなため息を1つ。
ぎゅっと隼人の袖を掴んだ春希は、少し言いにくそうに自らの願いを零した。
「ね、隼人。一緒に行ってほしいところがあるんだ」
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