134.お姉さん


「ただいま、っと」


 まだ薄暗い玄関に隼人の小さな声が吸い込まれ、そして後ろから「おじゃまします」の3つの小声が続いていく。

 しかし返事はない。

 どうやら姫子はまだ起きていないようだった。

 もっとも、まだ起きていないという確信があるからこそ、小声だったのだが。


 ちなみにカギは掛けず出掛けていた。月野瀬ではめったにカギまで掛けない。だからこそ春希や沙紀も上がり込めた。


 そして隼人はそのままキッチンに移動する。

 朝からなんだかんだ結構な距離を歩いたので、お腹も空いてきていた。

 さて朝食は何にするかと、空腹を抱えながら戸棚を開けながら考える。

 生憎と引っ越し前にかなり処分したのでロクなものが残っていない。

 あるのは塩、砂糖、胡椒に油類といった日持ちのする調味料、それにいくつかのインスタント食品に缶詰めといった備蓄用のものばかり。

 それと、昨日沙紀からもらった源じいさんの夏野菜。


 腕を組み、う~ん、と唸る。

 すると、背後から恐る恐るといった声をかけられた。


「あ、あの~、お手伝いできること、ありませんか?」

「村尾さん?」


 沙紀だった。

 隼人は意外な相手に驚きつつもちらりとリビングに視線をやれば、虫かごの中のミヤマを真剣な様子で眺める春希と心太が目に映る。

 姫子はまだ寝ていることもあり、きっと手持ち無沙汰になってしまったのだろう。


 苦笑しつつ沙紀へ向き直る。

 今日の沙紀は昨日に引き続き、見慣れた中学の制服や巫女服姿でなく、上品なデザインのフリルスリーブのカットソーに膝がすっぽり隠れるミモレ丈のチュールスカート。

 色素の薄い沙紀を大人っぽく演出している格好だ。

 決して肌面積は多いわけじゃないが、新鮮な印象もあってドキリとしてしまう。


 おそらく姫子が月野瀬に帰ってくるこの日のために誂えたものなのだろう。

 まだ真新しいとわかるそれを朝食の準備で汚すことが躊躇われ、そういえば姫子が調理実習で使うエプロンはどこだっけと思い巡らせたところで、今朝のメニューが閃いた。


「わかった、まず野菜を洗って切ってもらって……その前に留守にしていたから、一応お皿も洗った方がいいかな?」

「はい!」


 そして一緒に調理を開始する。

 ナスはまず縦に半分に開いてから半月切り、きゅうりは小口切りにしたものをボウルに入れて塩で揉み込む。しんなりしたら水気を絞り、汁を切った鯖の水煮缶をごま油で和えていく。

 そこへ乱切りにしたトマト、そして湯がいたオクラと千切りにした大葉を散らせば、夏の暑い朝でも食の進む、サバと夏野菜のさっぱりサラダの完成だ。わさび醤油をかけても美味しいだろう。

 これだけでは物足りないので、月野瀬に戻る際自分たち用にと駅構内で買ったバナナをスポンジケーキで包んだお菓子を、バターを塗ったアルミホイルに並べトースターで焼いていく。


 するとたちまち甘い匂いが広がっていき、リビングからは2つのくぅ、という可愛らしい腹の音が聞こえてきた。隼人と沙紀は顔を見合わせ笑い合う。

 そして匂いに釣られたのは春希と心太だけではないようで、とてとてと階段を降りてくる音も聞こえてくる。


「おにぃ、お腹すいた~……って、どうしてみんないるの!?」


 リビングにやって来るなり、驚いた姫子の寝相がぴょこんと跳ねた。




◇◇◇




 皆で朝食をリビングのローテーブルで囲みつつ、姫子はジト目で文句を垂れていた。


「まったくもー! 朝から皆来ていて驚いたというか一言欲しかったというか……どうせはるちゃんの思いつきの行動でしょー!?」

「な、7年ぶりでテンションが上がってしまいまして……」


 姫子はぷりぷりと不機嫌さを隠そうとしていない。

 しかしそれは怒っているというより、仲間外れにされて拗ねているといった様子だ。

 今も姫子が「別に虫捕りは興味ないけどさ」といじけている。


「ひ、ひめちゃんの寝起き起こすのもアレだと思って……」

「そうだけど~~っ」


 隼人は春希が必死に姫子を宥めようとする様子を呆れながらも、そして我関せずといった様子で見ながら朝食を摂っていた。

 するとそんな隼人の態度が気に入らなかったのか、こちらに気付いた姫子が唇を尖らせ咎めるような声を向ける。


「おにぃもちゃんとはるちゃんの手綱を握――ってその肘のとこどうしたの!!?」

「ん? なんだこれ? ……どっかで擦りむいたか?」


 姫子は思わず身を乗り出し、隼人の肘に出来た擦り傷を指差す。

 500円玉硬貨2つ並べたくらいの広さに渡って赤黒くなっており、見た目に痛々しく映る。

 しかし見た目ほど痛いというわけでなく、隼人自身も今気づいたほどだ。

 どうやら心太を助けた際に出来てしまったものらしい。


「ちょっとおにぃ、それ大丈夫なの?」

「わ、隼人、これはなかなかの傷だね」

「まぁ大丈夫だろ。唾でもつけとけばそのうち――」

「ダメです!」


 この程度よくあるし大したことがない――そう伝えようとして、沙紀の大きな声に遮られた。

 どちらかといえば普段おっとりしている彼女からは考えられない機敏さと強引さで、たちまち台所へと連れていかれ傷口を洗い流される。

 さすがの隼人も動揺を隠せない


「む、村尾さん? その、大丈夫だから……」

「大丈夫に見えません! もぉ~、ちゃんとこちらに傷口を見せてください~!」

「あ、はい」


 沙紀は有無を言わさなかった。

 傷口を洗い流した後はサッとハンカチで水気をふき取り、そしてポーチから取り出した携行用の消毒液と軟膏で手当てしていく。

 随分と用意が良かった。

 そして意外な姿だった。


「すいません、心太のせいで……」

「……ぁ」


 しかしその言葉で色々と腑に落ちる。

 ポーチに仕込まれていた応急手当きっとに、今しがた肘に貼られたデフォルメされた狐の可愛らしいイラストが躍る、やたら大きな絆創膏。

 それらは本来、誰のために用意したモノなのか。

 隼人は沙紀の新たな一面を知り、口元を綻ばせていく。


「はい、絆創膏は小まめに取り換えてくださいね」

「あーその、ありがと、うん」

「いえ、これくらい……」

「村尾さんって、お姉さんなんだな」

「ふぇ?」


 お姉さん。

 その隼人の言葉の意味が分からず、沙紀は目をぱちくりとさせる。

 隼人がにっこりと微笑みリビングで朝食を頬張る心太に目を向ければ、沙紀はたちまちその顔を赤くしていく。


 少し強引で、誰かを支えるように世話を焼く――それは先の姉としての姿であり、隼人にとって微笑ましくも同じ弟妹を持つ年長者として、親近感が沸くものでもあった。


「なるほど、だからしっかりしているのか」

「え!? あ、いや、そのぅ~っ!」


 沙紀は隼人に向けられた目をどう受け取っていいか分からず、大きな声であたふたとしてしまう。

 するとその声に気付いた春希と姫子が、怪訝な表情で台所に顔を出した。


「隼人なにやってんの? 沙紀ちゃんにイタズラでもした?」

「おにぃ、もしかしてまた沙紀ちゃんを口説いたとか? ……引くんだけど」

「違ぇよ。春希と姫子と違って、村尾さんは女子力高いねって言っただけだ」

「おにぃ! 女子力壊滅的なはるちゃんとあたしを一緒にしないで!」

「ひめちゃん!? いやでも隼人、人には比べていい分野と悪い分野があるよ!?」

「あ、あうぅ……」


 そして繰り広げられるいつものやりとりに、沙紀も巻き込まれる。

 1人蚊帳の外でその様子を見ていた心太は、困った顔で虫かごのミヤマのハサミに向かって話しかけていた。


「……ジョシリョク?」

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