133.猿かよ


 その後、隼人は手早く着替えを済ませ、春希たちと連れ立って家を出た。


 月野瀬の早朝の空気は都会と違ってひんやりしており肌寒い。

 東の空はまだ赤く、西の空へ向かって曙から藍へとグラデーションを描き、天にはまだわずかばかりの煌めく星々。山の方からは少し気の早いセミが、挨拶してくる。

 あぜ道からは朝陽に照らされ、夜から朝の色へと塗り替えられていく田畑の様子を眺めながら、山の手のとある場所を目指す。

 前を行く春希と心太の足取りは浮き立っており、その少し離れた後ろを古い虫籠を持った隼人と沙紀が追いかけていた。


「やっぱり田舎の夏といえば虫捕りは外せないよね、都会じゃホント見かけなかったし! 罠にミヤマ掛かってるといいなぁ、カブトも!」

「ガキだった頃も、カブトやクワガタはなかなかレアだったな。セミばっか捕まえてた気がする」

「虫捕り、はじめて……っ!」


 仕掛けた罠へと思いを馳せながら、話が弾む。

 そう言えばと思い出す。

 春希が引っ越して以来、初めての虫捕りかもしれない。

 久しぶりのことで、なんだかんだと隼人もわくわくとしている気持ちがあった。


「……あっ」

「っと! 大丈夫か、村尾さん?」

「っ!? え、あのはい、その、大丈夫、です……」


 その時不意に沙紀が足を取られ転びかけた。

 隼人が咄嗟に手を取り支えたものの、沙紀は腕に抱き着く形となる。

 どうしたことかと顔を覗き込めば、少し垂れ目がちな瞳が寝不足なのかトロンと眠気に彩られており、隼人は「朝早いしな」と苦笑を零す。

 するとみるみるうちに沙紀の顔が羞恥で赤く染まっていき、慌てて身を離した。


「あー隼人、沙紀ちゃんいじめちゃダメだよ?」

「えっとその、別にそういうわけじゃ……」

「い、いじめてねぇよ! あーもう、先に行くぞ!」


 その様子を見ていた春希に弄られれば、居た堪れなくなったのか早足になる。

 心太は一瞬春希と隼人の顔を見比べたものの、虫捕りの興味の方が勝ったのか、隼人の背を追いかけていく。

 春希と沙紀は互いに顔を見合わせ、そしてくすりと笑った。




◇◇◇




 隼人たちが向かったのは、沙紀の神社から少し離れたところにある山の手の雑木林だ。

 入口付近にはクヌギやブナ、コナラなどが植わっており、かつての遊び場の一つである。

 今ではあまり使われることがない林業用道路も拓かれているが、それでも舗装されていない道は荒れており、足が取られてしまう。まだ幼い心太は、歩くのに苦労しているようだった。


「心太、お姉ちゃんと手を繋ご?」

「んっ、いいっ! 自分で行くっ!」


 見かねた沙紀が手を差し伸べるも、気恥ずかしいのか断られる。

 それよりも罠がどうなっているのか気になっている様子で、駆け出していく。

 まったくもう、とばかりに沙紀は小さく息を吐く。隣に並ばれた春希は、あははと笑みを零した。


 夜のうちに仕掛けに来たこともあり、さほど奥に罠があるわけじゃない。

 雑木林に入ってすぐ、木からぶら下げられた茶色い罠が見えた。


「あー……」

「…………ぁ」

「まぁこういうこともあるな……」

「そ、そうですね……」


 残念そうな声が重なる。

 小口切りにしたバナナに焼酎とコーラを漬け込んだものをストッキングに入れた虫捕り罠には、悲しいかな目当てのミヤマやカブトはおらず、代わりにアリとカナブンに群がられていた。どうやら他の虫に取っても美味しい仕掛けだったらしい。

 こうした失敗も、幼い頃からよくしてきたことでもあった。

 隼人はしょうがないなと、ガリガリと頭を掻く。


「……どうする?」

「ここで引き返すとなんだか負けた気がする……!」

「わからなくもないが」

「ミヤマ、いないの?」

「いや、探す! 確か記憶が確かなら、ちょっと奥に行ったところに良い感じのクヌギがあったはず!」

「おーっ!」

「おい待て春希、一体何年前の記憶だ!?」


 妙なところで対抗意識を燃やした春希は林道を外れ、雑木林の中へと茂みを掻き分けていく。

 心太もその背を追い、隼人と沙紀も慌てて後を追った。


 雑木林の中は様々な植物が繁茂しており、身体のあちこちに枝葉が当たったりして歩きにくい。

 そんなところを強引に進むものだから、春希の剥き出しになっている手足に細かな傷を作っていく。

 きっと、かつてと同じことをしているつもりなのだろう。

 しかし今の春希は男子と思って接していた時と違い、可愛らしい女の子なのだ。

 傷跡が残ったらどうするんだ――そんなことを考えた隼人の眉間に皺が寄った。


「なぁ春希、いったん引き返さないか? 行くにしてもその、色々準備してさ」

「うーん、確かに……って、アレ! アレだよ、アレ見て!」

「あれは……」


 丁度そんな提案をした時のことだった。

 うっすらとどこか記憶に引っかかりのある、大きなウロの木を見つける。

 とても大きな木だった。

 ウロがあるのは目線よりも随分高く、2階の窓くらいの場所だろうか?


「アレだけ確認してくるね!」

「おい、ちょっ……猿かよ」

「隼人ーっ! 聞こえてるからねーっ!」


 春希は言うや否や、隼人の制止する声を聞かず駆け出していく。木を登る姿は、ブランクを感じさせない鮮やかなものだ。

 幼い頃とは違う長い髪を尻尾のように揺らし、登っていく姿をただ木の下で眺める。

 かつてあの程度のモノはよく登った記憶もあり、大丈夫だと頭では分かっている。だけど、どうしてもハラハラとしてしまう。


 昔なら何も考えず、隼人も春希と一緒になって上っていたことだろう。

 だけど、どうしてから躊躇われてしまった。


「いた、いたよ、ミヤマ!」


 やがてウロに到達した春希は「あ!」と声を上げた。

 どうやら目当てのものが居たらしい。後ろ姿がソワソワしているのが分かる。

 さてどうしたものか……隼人が逡巡していると、小さな影が気に飛びついた。


「ミヤマ、見たい!」

「「心太!?」」


 隼人と沙紀の声が重なる。

 普段の心太を思うと、まさか木を登りだすだなんて、随分と大胆な行動だった。

 心太は春希を真似て、思ったよりも身軽な様子でどんどん登っていく。

 木登り自体、初めてなのだろう。

 手足の運び方はつたなく、今度はそちらのほうにハラハラとしてしまう。


「心太くん危ないよ!? の、登るときは手足を3か所引っかけるように意識して!?」


 2人の声で心太に気付いた春希は、驚きつつも木登りのポイントをアドバイスしたりしている。

 見守ることしか出ない。

 だけど、すごくいい笑顔をしている心太を見れば、止めるなんてことは出来やしない。


「知らなかった……あの子、あんなに……」

「俺も……意外だったな……」


 妙な既視感があった。

 思い重ねるのはかつての自分はやと


(そういえば……)


 かつて春希が引っ越した後、1人だとどうやって遊んでいいか分からなくなったことを思い出す。

 たとえ同じことをしたとしても、1人だと空虚になったのを覚えている。


 きっと心太は、皆で集まって遊ぶのは初めてだったのだろう。

 だからこそ、はしゃいでしまっているの違いない。


 そして躊躇いなく木に飛びついた心太に、目を細めた時のことだった。


「っ!?」

「し、心太!?」

「危ねっ! ――痛ーっ……」


 ウロの近くまで登った心太が、油断からか足を滑らせた。

 慌てて木の下に居た隼人が咄嗟に受け止めたものの、ドスンと地面に打ち付けられてしまう。


「心太っ!? お、お兄さんも大丈夫ですか!?」

「俺は別にこれくらい、なんとも……はは、それに心太はまだちっこくて軽いしな」

「え……あ……」

「もう、なにやってるのよ、心太!」


 血相を変えて駆け寄ってきた沙紀が、瞳を潤ませながら𠮟りつける。

 だが心太はといえば、この状況に理解が追い付かず、オロオロとするばかり。目じりに涙が溜まっていく。


「村尾さん、落ち着いて。俺も子供の頃こういうことよくあったし。心太も怪我はないよな?」

「う、うん……」

「で、でもお兄さん……っ」

「よっ、と!」

「春希!?」「春希さん!?」「はるねーちゃ!?」


 その時、春希が掛け声と共に木から飛び降りてきた。

 そしてこれくらい何でもないよとばかりに、にししと笑う。


 いきなりの行動だった。

 隼人は呆れつつも「やっぱ猿かよ」と呟けば、春希はムッと不満気な視線を寄越すも一瞬、村尾姉弟の間に割って入り、いきなりくしゃくしゃと心太の頭を掻き混ぜた。


「お、心太くん、えらいえらい! 落ちたのに泣かなかったのはすごいねー、隼人なんてカブト逃がして大泣きしたことなんてあるし!」

「はるねーちゃ?」

「ちょ、おい、春希! それ一体いつの、どの話だ!?」

「え、お兄さん、大泣き……?」

「む、村尾さんも信じないでくれ」

「うひひ」


 いきなり過去のことを暴露され、赤面する隼人。

 その様子を見て目をぱちくりとさせている沙紀。

 呆気に取られているのは心太も同じだった。

 だけど春希はにししと子供っぽい笑みをうかべ、心太に捕まえたミヤマクワガタを握らせてる。


「そんなえらい心太くんには、このミヤマを進呈しよう」

「え、いいの!? はるねーちゃが捕まえたやつなのに!?」

「いーのいーの、都会に連れて帰るのもちょっと厳しいだろうしね」

「あ、あり――ぁ」


 返事の代わりに、きゅうっと可愛らしい腹の音が響けば、恥ずかしそうにする心太を中心に、くすくすと笑い声が零れ広がっていく。

 そしてジト目の隼人に気付いた春希は、悪戯っぽい笑みを浮かべちろりとピンクの舌先を見せる。

 幼い頃から見慣れたはずの笑顔だ。

 だというのに、ドキリと胸が跳ねる。


「あーその、腹減ったし、とりあえず家に戻るか」

「そうですね、もしかしたら姫ちゃんも起きてるかもだし」

「あ、待ってよ隼人、沙紀ちゃんも。心太くんも行こ?」

「うんっ!」


 そして隼人は胸の高鳴りを誤魔化すように、足を家へと向けた。

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