114.相談があります
昼間の熱がやわらぎだす夕暮れ時。
月野瀬の山、その中腹にある古めかしい社殿が茜色に染められていく。
月野瀬神社の歴史は古い。今の社殿も江戸時代に建てられた当時の姿を残している。
その社務所のすぐ裏手には打って変わって近代的な家屋があり、そのキッチンで沙紀は、針に糸を通しているような真剣な表情を作っていた。
「醤油大さじ4、みりん大さじ4、お酒大さじ4、砂糖大さじ4…………っ」
表情だけでなく手も緊張で強張らせながら、きっちりと計測した調味料を鍋へと入れていく。
そしてふわりと香りが広がり鼻腔をくすぐれば、沙紀は少しだけ口元を緩めた。
「そんなにきっちり測らなくても大丈夫よー、時間もかかるでしょー」
「い、いいの、お母さんは黙ってて~っ!」
「はいはい、落し蓋忘れてるわよー」
「っ!? い、今からするところだったの~っ!」
指摘された沙紀は慌てて木蓋を落とす。
母の監修のもと、作っているのは肉じゃがだった。
細切れの肉を油で炒め、大きめの乱切りにしたジャガイモとニンジン、串切りにした玉ねぎを入れる。そこへ出汁と調味料を入れて白滝も加え、灰汁を取って煮詰める。
家庭的な食卓の定番といえる料理の1つだ。それはきっと、隼人にとってもそうだろう。
(うぅぅ……ちゃんと出来てるかなぁ?)
まずは堅実に、レシピ通りに。変な冒険はしない。
最近の沙紀は、このように夕食の一品を作ることが多い。それは来年、高校進学とともに村を離れるからという理由があった。
それは月野瀬では決して珍しいことはない。最寄りの高校まで片道2時間、村を出る人も多い。
その際、寮のあるところを選ぶのが慣例で、食事の心配はないのだが。
(わ、私だってお料理のお手伝いできるようになるんだから~っ!)
沙紀の動機は春希だった。
作ってもらってばかりで悪いと、最近隼人やみなもに積極的に習っているという。今までは野菜を切ったり皮を剝いたり調味料や道具の受け渡しだけだったのだが、ここのところは簡単な調理は任せてもらったりしているらしい。
その姿を想像した沙紀は少し、いや正直なところかなり嫉妬した。
この時ばかりはどうしようもないとはわかっていても、1年の生まれの差を歯痒く思う。
ことことと音を立てる落とし蓋を見る。味の出来栄えが気になる。
ちゃんとできているだろうか? おいしいと思ってもらえるだろうか? そもそも、どんな味付けが好みなのだろうか?
「男の子ならやっぱり、ごはんの進む濃いめの味付けの方がいいんじゃない? 隼人くん、猪解体の後のバーベキューでたっぷりのタレ付きの肉をごはんに乗せてたわよー?」
「っ!? お母さんっ!!」
そしてまるで心を読んだかのような母親のツッコミに、抗議の声を上げた。
◇◇◇
夕食後。
夏祭りも近付いているということもあって、沙紀は神楽舞の練習を欠かさない。だが今日の練習は、精彩を欠いたものになっていた。
「お母さんったらもう、お肉のこと言ってくれてもよかったのにぃ~っ!」
練習後シャワーで汗を流した沙紀は、ぷりぷりと不機嫌さを隠さず廊下をのしのしと歩いていた。
その原因は肉じゃがである。猪の肉は少々獣臭かった。
「なにが『猪はお酒や薬味で事前に臭みを取らないとねー』なのよ~っ!」
沙紀の調べたネットのレシピでは、クセの強い気の猪肉の下処理なんて載っていない。そもそも流通を考えれば、使うことは想定されていない。
完全に沙紀の母が、豚の代わりに猪でいいじゃないと仕掛けたトラップだった。月野瀬あるあるトラップである。
ちなみに沙紀は『隼人くんに披露する前に気付いてよかったわねー』と揶揄われ、『違うもん!』と完全にヘソを曲げていた。
「…………ぁ」
自分の部屋に戻った沙紀は、ベッドの上に置いていたスマホが通知を告げているのが目に入る。グルチャのようだ。
今日は何の話題が飛び出しているのだろうか?
今日の隼人は何をしていたのだろうか?
今日は――春希さんとなにか劇的なことは起こらなかっただろうか?
先ほどまでの母への怒りはどこへやら、頭の中は期待と不安と羨望がない交ぜになってしまい、すぐさま画面を開くのを躊躇ためらってしまう。
ベッドの上で正座になり、スマホを両手で胸の前で抱えて深呼吸。
「よしっ! ……………………んんん?」
気合を入れてログに目を通して行けば、一瞬バグか何かを目を疑う。それだけ、ひたすら姫子が暴れていた。
『芸能人が生』『本物で間近の』『テレビで見た場所』『カメラ初めて見た、おっきい』『映ったかもしれない』『服もっとちゃんと選んどきゃよかった』『おにぃのせい』
文面から見るに、どうやら出先の場所でイベントがあって芸能人を生で見たらしい。それでこのはしゃぎようである。しかし誰も姫子に着いていけず、延々とその興奮が綴られている。
沙紀はこのいつもの
そして最新部分に追いつけば、話題はすっかり変わってしまっていたが、姫子の勢いは今も変わっていなかった。だがそれは姫子だけではなかった。
『ずるい、ずるいずるいずーるーいーっ! おにぃだけ焼肉ずるい! ロース、カルビ、牛タン、ミーノーっ!』
『食べたんだ……ハラミ、みすじ、ピートロ……隼人食べたんだ……本能の赴くまま食べたんだ……』
『あれは腹が苦しいなんてもんじゃない、限界への挑戦だったな。時間制限もあるし戦略も必要でなにより――体重とかリバウンドとか気にして突撃はできないものだな』
『『ぐぎぎぎ……っ!』』
いつものじゃれ合いのようなものだった。
姫子も春希も自分も焼肉が食べたい、隼人を責めたいんじゃなくて、一人で食べ放題に行った隼人に拗ねて駄々をこね、
それは沙紀がかつて月野瀬で、遠巻きに指をくわえて散々見ていた光景そのものでもあり、その輪に入りたいと願って止まなかったものでもあった。
羨ましかった。春希が。
再会してすぐ、親友であり誰よりも距離がちかい妹の姫子と同じ距離感である春希が。
何もしなければ何も変わらないということが身に染みて分かっている。必要なのも分かっている。積極性だ。大きく息を吐き、よし、と胸で握りこぶしを作る。
『こんばんは。お兄さん、焼肉食べに行ったんですか? 姫ちゃんや春希さんに内緒で』
『あー、沙紀ちゃん! おにぃったらね、あたしたちに黙って焼肉食べ放題に行ったの、食べ放題に! 何も言わずに! ひどいでしょ!?』
『しかもさ、ボクたちには「リバウンドがー」「皮下脂肪がー」って脅すんだよ!?』
『む、村尾さん!?』
ドキドキしながら、すこし意地悪なコメントを打ち込む。
嫌われたりしたらどうしようとドキドキしたものの、姫子も春希も話に乗ってくれて、隼人も突っ込むような声を上げてくれる。そこにはほんの少しだけ、普段の沙紀からぬつっこみに慌てふためいている様子が伝わってきた。
それがなんだかおかしくて、ほんの少し、隼人が年上なのに可愛いだなんて思ってしまう。
気安い間柄だからこそできる、沙紀の焦がれた予定調和のやりとりがそこにあった。頬が緩み、胸が騒めく。だから、ほんの少し自分の望みを交えてチャットに謳う。
『じゃあ意地が悪いお兄さんはお詫びとして、月野瀬に帰ってきた時にバーベキューでひたすら焼く係になってもらいましょうか』
ドキドキしながら返事を待つ。
今までの沙紀では言わなかっただろう、沙紀にとっては大胆な提案だった。
『わぁ、バーベキュー! あたし串に刺したお肉食べたい、タレがたっぷりのやつ! それから甘辛い特製スペアリブも!』
『ボクは鳥に香草を詰めてまるっと焼いたのを食べたいです! あ、そういや隼人さ、こないだ火の付け方にコツがあるっていってたそれ、ずっと気になってたんだよね!』
『姫子それすっごく手間が……ってわかったから小躍りするな、階下に響く怒られる!』
姫子の機嫌も一瞬にして直ったようだった。
沙紀は親友の相変わらずのチョロさに「あはは」と苦笑いをするとともに、何かが心に引っかかった。すぐには出てこない。
だけどそれは、決して無視してはいかないと、本能が訴えている。そして沙紀がそれに思い至る前に、春希より答えが告げられた。
『てわけで沙紀ちゃん、ボクも月野瀬に行こうと思うんだ。色々お願いしていいかな?』
「……あ」
思わずスマホを手に呆けた声が出てしまう。
『……春希も行くのか?』
『わぁ、はるちゃんもいくんだ! なら一緒に祭り用の浴衣とかも見に行こうよ!』
『うんうん、せっかくだからね。浴衣かぁ、うん、それもいいね』
『ふふ、では私は精いっぱいおもてなしさせていただきますね』
何かの強さを、変化を明確に感じた。
心臓がバクバクと、チャット越しに聞こえやしまいかと心配になるくらい、荒ぶっている。沙紀は自分で思っている以上に動揺しているらしい。
『じゃあ、具体的な日取りですけど、祭りの日は――』
そして、それを悟られまいと他の話へと誘導する。幸いにして話題に食いついた霧島兄妹が、放置していた月野瀬の家の掃除がどうこうという話へとシフトし、安堵のため息を吐く。
だがそれも、ふと
『月野瀬に行った時、相談があります』
何が、とは書いていたなかった。だがその何か何て容易に想像がついてしまう。
一瞬にして頭が真っ白になってしまった沙紀は、この日春希からのメッセージに返事することはできなかった。
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