112.仮面・演技・支配


 意識が、感情が揺さぶられる。


 田倉真央――それは春希にとって特別な意味を持つ言葉であり名前だ。

 その関係は決して公にしていないし、してはならない。秘密なのだ。


 だからどうして、春希は目の前の男が春希を前にしてその名前を言ったのか理解できない。いや、予測はできる。だが考えたくもない。


 動揺の極致だった。握りしめた手のひらに爪が食い込み血が滲む。

 急速に頭が冷え込んでいくのを自覚する。耳が、脳が、心が、男の言葉田倉真央を否定しろと叫ぶ。だが、どうしていいかわからない。必死になって考えてもいい言葉が浮かばず焦りばかりが募る。ぐるぐると意識が定まらない。


「君は――」


 だというのに男が言葉をつづけようとした瞬間、春希は反射的に身体に染みついた良い子の仮面を被っているのだった。


「なんのことでしょう?」

「――ッ!?」


 とても嫋やかで澄み渡る声色だった。

 場の張り詰めた空気が一瞬にして春希によって塗り替えられていく。

 まるで何も事情を知らない無垢な少女の疑問そのものの言葉であり、そう思わせる迫力もあった。そしてニコリと微笑み小首を傾げれば、男も思わず息を呑む。


 それは見る者すべてを魅了する、長年培ってきた経験が成せる完璧な擬態・・だった。

 男の意識が、目が、春希に縫い留められ、圧倒されてしまう。


「確か女優さんの名前ですよね? 、そういうの疎くて……それに興味もなくて、その、ごめんなさい」

「…………え、あ、その」


 春希自身も困惑していた。どうして猫を被った良い子モードのかわからない。

 感情が荒れ狂っているにもかかわらず、意識だけはやけに冷えて冴えわたり、すらすらとどうすればこの場を後に出来る場を作れるか計算して演じていく。自分でも呆れてしまうほど滑稽な演技だった。だが、この場の空気を、確実に支配していた。


「それでは、私はこれで」


 男が呆気に取られている隙に楚々と微笑み、くるりと身を翻しこの場を後にしようとする。

 まるで男がこの場で春希を見送ることこそが自然と感じてしまう、流れるような綺麗な所作だった。事実、男は見惚れていた。


「…………っ! って、君っ!」


 そして、我に返った男の言葉を背で受け止めると同時に、春希は全力で駆け出す。本能的な行動だった。


(――――――――っ!)


 頭の中は先ほど以上にぐちゃぐちゃだった。粟立つ感情を振り払うかのように走る。

 流れる景色とと共に、胸に流れ込んでくるのは渇望、失意、恐怖、疎外感。あるいは孤独、悲嘆、良い子・・・でいるということ。幾度となく向けられた、邪魔なものを、イヤなものを、扱いに困るものを見る母の瞳が脳裏を埋め尽くす。


 隼人と再会してからは無縁になっていたそれらが、無理矢理にも抉りだされる。


 それらとはとっくに慣れたはずのものだった。

 だというのに、今までにないほど心臓が早鐘を打つ。背筋には嫌な汗が滝のように溢れ出す。青白くなっている唇は、噛みしめ過ぎて血がにじむ。


(ボクはっ、一人じゃっ、だめ、違っ、頼っ、迷惑――っ)


 端から見ても明らかに尋常じゃない様子がわかるだろう。

 しかもこんな人通りの多いモールで全力疾走。目立たないわけがない。


 だが、今の春希にはそんな自分を客観視する余裕もない。


「春希っ!」

「……え?」


 春希の耳に、鋭いが馴染みのある――今一番聞きたかった声が飛び込んできた。

 一瞬、意識が刈り取られる。足が止まる。気付けば腕を掴まれていた。


「どうした、何があった!?」

「隼、人……?」


 振り返れば、息を切らせている隼人がいた。

 何故? どうしてここに? 予想外の、あまりに自分に都合のいい展開に、状況が理解できない。

 だが春希を捉える眼差しはひどく真剣で、それが少しばかり冷静さを取り戻させる。


 よくよく見れば隼人の背後からは、遅れて追いかけてくる一輝と伊織の姿が見える。どうやら一緒に遊んでいたようだ。


 掴まれている腕を見る。顔をみれば額に汗。


「…………」

「あはは、えっと……」


 それが彼らより自分を優先してくれたような気がして、ちょっぴり嬉しく感じる。そんな自分に少し呆れた笑いが出てると共に気が緩む。


 互いに顔を見合わせる。さっきの自分が普通でなかった自覚はある。

 春希は何かを説明しなければと、口の中で言葉を転がすものの上手く纏まってくれない。


 だから春希は困った顔で、今の胸の内を素直に吐き出すことにした。


「……ボクもわかんないや」

「…………は?」


 そしてあることに気付く。すんすんと鼻を鳴らす。眉間に皺を寄せ、拗ねた声を出す。


「焼肉の匂い、ずるい」

「あーいや、これはだな……」

「……ふふっ」


 春希はそんな慌て始めた隼人をみて、困った眉のまま悪戯っぽい笑みを零した。

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