104.…………そっか


「月野瀬、か……」


 スマホを片手に春希のつぶやきが、隼人の部屋に溶けていく。

 胸中は複雑だった。沙紀にとっても春希は複雑な相手に違いない。

 だけど、沙紀に誘われたことは、驚くと共に嬉しいのも事実だった。

 先ほどの言葉を思い出しながら途中だった着替えに袖を通す。


 疎まれていた。

 母親からも。周囲からも。

 居場所が無かった。


 父親が誰かもわからぬ私生児というのは、世間の風当たりが強い。

 それは月野瀬の祖父も同じだった。


「『借りたものは返せ』、か……」


 それが祖父の口癖だった。

 隼人との間に"貸し" はつくっても"借り"は作らない理由でもある。

 春希の母に向けられた言葉だが、険しい視線と共に常に春希にも差し向けられていた。


 眉に皺を寄せながら周囲を見渡す。

 パイプベッドにスチール製のシステムデスク、本棚を兼ねる機能性重視の多目的収容ラック。白と青と灰色でまとめられた部屋は、男子高校生の見本のようだ。

 その一画に置いてある春希のスポーツバッグは、違和感なく溶け込んでいる。


「……今度、下着も入れといてやろうかな」


 その馴染み具合いに、春希は眉を寄せたまま頬を緩ませ呟いた。




◇◇◇




「う~ん……」


 春希がリビングに戻れば、キッチンで腕を組んで唸り声を上げる隼人の姿が目に入った。

 その目の前にあるのは豚肩ロースブロック約1kg。国産のグラム88円の更に半額という、その安さに思わず飛びついて買ってしまった本日の戦利品だ。


「隼人、何にするか決まった?」

「……考えてる。賞味期限も近いしなぁ」

「見切りの値引き品だもんね。ええっと普通にトンカツとかー……って、揚げ物は悩ましいなぁ」

「トンテキでもいいんだけど、野菜も消費しないとだし」

「あはは、試験終わってからいっぱい収穫したもんね」


 考え無しに買ってしまったお肉を前に、お互い顔を見合わせ苦笑い。

 それは川辺で遊んで水に落ちたり、山の祠の扉を壊してしまったり、柵をうっかり開けて鶏を逃がしてしまったり……そんな時に見せていたものと同じものだ。


 ずっと。

 これからも繰り返していくと思っていたもの。


「っと、いつまでも考えても仕方ないな。トンテキ分だけでも切り分けるか」

「……あ」

「っ! …………春、希?」


 反射的な行動だった。

 春希は傍を離れようとした隼人の手を掴む。


「……えっと、その」

「う、うん?」


 理由なんて特にない。敢えて言うなら触れたかったとでも言うべきか。

 だけどそんなことを素直に言えるわけもなく、顔を赤くする。必死で言い訳を考える。


「み、ミネストローネ!」

「……へ?」

「その、夏野菜をいっぱい使った料理でお勧めだって、みなもちゃんや沙紀ちゃんが」

「え、あぁ……でも俺、作ったことないぞ?」

「大丈夫、ボク、みなもちゃんと一緒に作ったことあるから」

「いつの間に」

「試験期間中にちょっとね。だから隼人はトンテキ、お願い」

「わかった」


 春希は自分で自覚があるくらいに早口だった。

 隼人もそれに突っ込むような野暮なことはしない。

 そして2人、台所に並んで調理に取り掛かる。


 ミネストローネの作り方は簡単だ。だが手間が掛かる。

 鍋底にオリーブオイルをひいて、みじん切りにしたニンニクで油に香りを付ける。玉ねぎ、にんじん、セロリを加えて焦がさないように炒める。それら香味野菜がトロトロになってくれば、園芸部で採れたナスにズッキーニ、トマトを加えブイヨンとローリエと一緒に煮込むだけ。

 しかし野菜は全て賽の目に切らないとだし、木べらで炒め続けるのは非常に根気がいる。手首も痛くなる。


 一方トンテキは至ってシンプルだ。

 好みの大きさに切り分けたら塩コショウ。それと醤油、みりん、砂糖、オイスターソースに擦り下ろした生姜とにんにくのタレを用意するくらいだ。


 早々に付け合わせのキャベツの千切りも作り終えた隼人は、春希の手伝いに回り、野菜を切り刻んでいた。


「あとは煮込むだけでおしまい、っと。ありがと隼人、助かった」

「いいって、そんくらい。んじゃこっちも焼き始めるかな」


 そう言って隼人は熱したフライパンにサラダ油を引いて肉を乗せれば、ジュッと油の跳ねる小気味の良い音が鳴る。

 両面を程よく焼けば、後は先ほどのタレと共に蓋をして蒸し焼きにするだけだ。

 すると手持無沙汰な時間が出来る。かといって火のもとから目を離せない。

 その降って湧いた時間に、春希はいつもの世間話を投げかける調子で隼人に想いを投げかけた。


「ね、ボクさ……月野瀬に行っても大丈夫かな?」


 隼人の表情が強張る。その返事は中々に難しいものだった。


「……………………わかんねぇ」

「あはは、だよね。お爺ちゃん、夜逃げ同然だったって聞いてるし」

「まぁ春希が行けば、みんな興味津々で聞いてきそうだな」

「ボクに聞かれてもわかんないんだけどねー」

「……そんなの、わかってても聞いてくる人はいるだろうよ」

「あはっ、だろうね」


 現在、春希祖父の家は無人だ。

 管理する者のいない家は、この5年ですっかり傷んでしまっている。月野瀬では誰しもが、そうなった顛末を知っている。


「沙紀ちゃんがね、ボクに会いたいってさ。隼人やひめちゃんと一緒に来たなら、うちに泊まったらって言ってくれたんだ」

「いいんじゃないか? ……神社なら、色々安心だな。神主さんの家の人たちなら、村尾さんも含めて変なことは言わないだろうし」

「まぁうん、嬉しいんだけどね。でも流石にボクもどの面下げてというか……」

「春希……」


 答えにくい話題だ。

 だが丁度その時、ピーッと炊飯器が炊き上がりを知らせた。


「っと、ご飯よそって他の食器の準備をしようか」

「ん、オッケ―」


 話はそれで終わりとばかりに打ち切られた。

 だがそれでいい。春希にとっては愚痴と同じだ。元より答えが出てくるものでもないし、聞いてもらえただけでちょっとすっきりしている。いそいそと食器の準備をする。


「あ……隼人ー、ミネストローネ、どの器に入れよ?」

「いい感じの無いのか? ……まぁ最悪みそ汁用のお椀でも良いか」

「あはは、すんごい違和感」

「それとさ、春希」

「うん?」

「周囲はどう思うかはわからねぇけどさ……俺は春希と一緒に月野瀬に行けると嬉しいから」


 隼人はしゃもじを片手にご飯をよそいながら背中でそんなことを言った。

 春希の動きが止まる。止まってしまう。

 そんな何気なく告げられた言葉がすとんと胸に落ちて行けば、喧しいくらいに騒めきだす。


「…………そっか」


 春希は俯き、小さく呟き返す。

 隼人の顔を正面から見るには、しばしの時間が必要そうだった。




◇◇◇




「おにぃ、はるちゃん! もぅ、あそこでバイトしてるだなんて、今日はびっくりしたんだからね!」


 夕飯時、姫子と顔を合わせるなりぷりぷりと唇を尖らせて抗議してきた。どうやら友人たちに、随分色々と言われたらしい。

 しかし隼人と春希はバイト中、一輝が女子達に質問攻めにあっている中、姫子がメニューや他のテーブルの甘味に夢中だったのを目にしている。姫子のことだ、突っ込まれていても意識の大半がそちらの方にいっていたに違いない。だから隼人と春希はお互い顔を合わせ苦笑した。

 そして姫子が夕食を口に運べば、すぐさま膨らませていた頬を落としていった。


「わ、このみそ汁っぽいの美味しい! 飲むというより食べるって言った方が良い感じだけど!」

「あ、あはは。ひめちゃん、それミネストローネね。イタリアの野菜スープ」

「え? あ、うん、みねすとろーね、ね! わかってる! ……でもなんでみそ汁用のお椀なの? おにぃでしょこれバカなのセンスないの?」

「……丁度いい器が無かったんだよ」


 文句を言いつつも、味は随分とお気に召したらしい。

 本日の夕食のメインはニンニクとショウガの効いた甘辛いタレのトンテキと、トマトの酸味がアクセントになっている夏野菜のうま味をぎゅっと濃縮したミネストローネである。濃い味付けのトンテキも、キャベツの千切りで口の中をさっぱりさせてくれるし、ごはんとの相性も抜群だ。

 隼人と春希もバイトで空腹だったこともあり、おかげで箸がよく進む。


「あ、そうだった」

「どうした姫子?」


 3人が夕食に舌鼓を打っていると、ふと姫子が何か思い出したかのような声を上げた。

 その顔はどういうわけか困った様子で眉を寄せている。


「そういやプールだけどさ、クラスの皆があたしも行くべきだって言うんだよね」

「……あの子たちが一輝目当てで来たいとかそういうわけでなく?」

「さぁ……なんでだろう?」


 互いに顔を見合わせ首を傾げる。

 彼女たちの意図はわからない。姫子は「水着買わなきゃ」と瞳を輝かせるのだった。

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