97.未だ確信には至らない、生まれたての幼い感情


 春希の意識は浅いところに沈んでいた。しかし夢を見るには至らない。

 ふと、まどろむ意識が揺れた。揺らぐ。揺さぶられる。

 それは春希が生まれてから一度も経験したことのないもので、そしてとても心地の良いものだった。


「――――、――て――さい」


 声も聞こえる。だが時々耳朶じだをくすぐる囁ささやきは安らぎを誘い、いつまでもこの揺れに身を委ねていたくなる。

 昨夜胸をざわつかせる出来事があっただけに、心が凪を取り戻すまでこの安らぎに揺蕩たゆたっていたい。


「――――すよー? ―――――――らねー?」


 だがそれは許されなかった。


「ぷはっ!?」

「あ、本当に起きました」


 急に意識が切り替わる。

 飛び起きた春希の目に飛び込んできたのは、馴染みのない地味だけど落ち着いた雰囲気の部屋と、くすくすと笑うみなもの顔。


「おはようございます、春希さん」

「え、あ、おはよ……」


 春希は鼻をさすりながら反射的に挨拶をした。どういう状況か頭が付いてこない。眠気の残る目で周囲をきょろきょろと見回す。

 みなもは制服姿だった。機嫌良さそうに、寝巻代わりのTシャツと短パン姿の春希を見つめている。


「えぇっと……」


 春希は頭が徐々に覚醒していくと共に、現在の状況を思い出していく。

 ここはみなもの部屋で、昨夜はわざわざ床で一緒に枕を並べておしゃべりしながらグルチャもしていた。

 既に着替えを終えたみなもと起こされた自分を見比べると、世話を焼かれているようだ。頬が熱を帯びるのを自覚する。


「本当に鼻を摘まむと、一発で起きるんですね」

「……それ、どうして」

「隼人さんです」

「うぐ、隼人のやつめ」

「それより朝ごはん出来ていますよ。あ、先に着替えますか?」

「えぇっと――」


 まごつく春希の代わりに、お腹がくぅっと返事をする。

 そのあまりにもの良すぎるタイミングに、みなもは目を大きく見開いて瞬きし、そして相好を崩す。春希の顔はこれ以上なく真っ赤だった。


「まずは朝ごはんにしますね」

「……はい」




◇◇◇




「わぁ!」


 朝から気合の入った献立だった。思わず感嘆の声が上がる。

 大根おろしの添えられた焼き鮭に豆腐とわかめのみそ汁、オクラと梅干の和え物にナス子の漬物。オクラと茄子は園芸部の花壇で見かけたのでそこで収穫したものだろうか? そしてごはんの隣には小鉢に入れられた卵と、同じ大きさの空の小鉢。

 隼人の家で調理を手伝うようになった春希は、これが如何に手間のかかっているものかというのが分かってしまう。どれだけ早起きして作ってくれたのだろうか?


 春希が目をぱちくりとさせつつ申し訳なさそうにみなもを見れば、得意げな顔を返された。


「昨夜、姫子さんから最高の卵かけごはんってのを教えてもらったんです。あ、春希さんが寝落ちしてた時になんですけどね」

「っ! あ、うん……」

「白身だけを先にごはんと混ぜるとか……ふふっ、姫子さんもネットの知識とおっしゃってましたけどね」

「そ、そうなんだ」


 春希の胸がドキリと跳ねる。昨夜のことを思い出す。


(…………沙紀ちゃん、は…………)


 春希は女子の心の機微に疎い。そもそも自分の気持ちでさえよくわからず、未だ確信に至っていない。胸がモヤモヤする。

 ならば男子はといえばそうでもない。精々、欲望交じりの視線かどうかがわかるくらいだ。それを感じさせない幼馴染隼人もよくわからない。だから困る。

 ある意味それは、人との交わりを意図的に避けてきた春希にとって当然だった。まだ生まれたての幼い感情をじっくり育てたいというのが本音だが、そうも言ってられないかもしれない。


「あの、卵の白身と黄身、私が分けましょうか?」

「っ!? うぅん、大丈夫、でもお手本見せて欲しいかな?」


 みなもがおそるおそる声を掛けてきた。どうやら険しい顔をしていたらしい。

 春希は慌てて笑顔を作りながら向き直る。せっかく作ってくれた朝食を渋い顔で食べるのは失礼だ。


「えっとまずは、小鉢の上で卵を真ん中で半分に割って、黄身をそれぞれの殻で行き来させれば――」

「わ、黄身だけが殻に残る!」

「分けられた白身をごはんと掻き混ぜるみたいですけど……これ、思った以上にふわふわになりますね」

「そうだね……っと、黄身を入れる窪みを作って醤油をかければ、と。あはは、なんかボクの知ってる卵かけごはんと何か違うや」

「んんっ……変わった食感ですね。ごま油やシラス、おかかなんかと一緒にしても美味しいかも」

「あ、たしかに。ごはんがまろやかになった分、濃い味付けのものがあると……あ、でも鮭やお漬物の塩気とよく合う! オクラと梅干も良い感じ!」


 朝食は少しだけ珍しく、そしてとても美味しかった。おかずと卵かけごはんの相性も良く箸が進む。

 春希は隼人とは違ったどこか優しい味付けにばくばくと夢中になっていると、ふとみなもが自分を愉快気に見つめていることに気付く。


(あ……がっつき過ぎたかな……?)


 またも頬を赤らめれば、みなもは春希ににっこりと微笑んだ。


「美味しいですよね」

「う、うん。それはもう」

「やっぱり誰かと一緒だと。美味しくなりますよね」

「…………ぁ」


 春希はみなもの機嫌の良さのわけを察した。

 それはずっと一人で食事をとってきた春希自身にも覚えのあることで、昨日衝動的にみなもの手を掴んだ理由でもある。

 親しい誰かと食べることはとても暖かく美味しく、楽しいものなのだ。そう、隼人に教えられた。

 だから春希は笑顔を返す。自分の希望を乗せて。


「じゃあ今度はボクん家ちに泊まりに来てよ。何なら試験期間中に勉強合宿してもいいしさ。それにうちのほうが学校近いし、ね」

「え……いいんですか?」

「当たり前だよ――だって友達・・じゃん」

「あ……ふふ、そうですね。じゃあお邪魔させていただきます」

「あは、ぜひぜひ。約束・・、だよ」

「はいっ!」


 そして互いに顔を見合わせ笑いあう。

 ありふれた友人同士のやり取りがそこにあった。


(友達――……)


 ふと、そこで隼人の顔が浮かび、喉の奥に苦みが走る。

 春希にとって友達・・は特別だ。家族・・より特別だ。だというのに、友達という言葉がまるで呪いのように心を蝕み、ズキリと痛む。


 だから春希は卵かけごはんを一気に掻き込み、そして呑み下す。


 みなもと――同性の友達・・・・・と笑顔を浮かべながら……

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