82.特別で一番な


 雨上がりの夜空は月野瀬ほどではないが、いつもより星がまたたいている。

 月は出ていないものの、各所に設置された街灯は夜道を走るのに何ら問題はない。

 隼人はそんな違いを感じながらも、息を荒げて走っていた。


(…………くそっ!)


 少し考えればわかる事だった。

 そして先日、春希と一緒に田倉真央の撮影現場を前にした時のことを思い出す。

 蒼白した顔、開かれた瞳孔、そして反射的に逃れようと藻掻く様に走り出した姿。


 いったい春希と田倉真央の間に何があるのかはわからない。だが推測することはできる。そんな春希を放っておけるハズもない。

 だから先ほど、いつもと明らかに様子の違う春希からの電話を受けて、かつて1人孤独に膝を抱えるかつてのはるき・・・の姿を幻視した隼人は、姫子の「こんな時間からどこに行くの?!」と訝しがる声を背に、弾かれる様に外へと飛び出した。

 宛てもなく方々ほうぼうをただ走って探し回る。幸いにして雨はすぐに上がったものの、全身は汗でびしょ濡れになってしまっていた。


「あ、隼人」

「……っ! 春、希……っ!」


 必死な様相の隼人とは裏腹に、隼人に気が付いた春希は少しバツを悪そうにしつつも、何てない風にひらりと手を振った。


 そこは見知らぬ住宅街にある公園だった。そこのベンチで座って待っている春希の姿は、昼間と違って学校指定のジャージ姿。

 色々と思うところはあるものの、さほどいつもと変わらぬ調子に安堵のため息を吐く。


「隼人ってさ、過保護だよね。昼間も言ったじゃん、大丈夫だって」

「いやその春希、しかしな……」


 春希の口調は呆れたようでいてしかし、その声色には嬉しさが滲んでいる。余計なおせっかいではあるものの、別に嫌というわけではないみたいだ。


 そして春希がぺしぺしと自分の隣を軽く叩く。どうやら座れと言いたいらしい。

 隼人が隣に座ったことを確認した春希は、「ん~っ」と大きく伸びをしながら背もたれにもたれ掛かって夜空を見上げる。隼人もそれに倣って夜空を見上げれば、ビルやネオンの照明に遮られつつもぼんやりと輝くいくつかの星々があった。ここは月野瀬とは違い、星よりも人の営みの灯かりの方が強く煌めいている。


「こんな時間にこんな風に空を眺めるのって、初めてだよね」

「向こうに居た頃はガキだったからな。帰るのも早かった」

「あは、なんだかイケナイことしてるみたい」

「……月野瀬と違って星が少ないな」

「そうだね。地上が明る過ぎて色んなものがみえなくなっちゃってて……まるでボクたちみたいだね……」

「春希……?」

「ボク達さ、昔と違って色々知らないことも増えたよね。隼人のおばさんが入院してるだなんて、全然知らなかった」

「……別にそれは黙っていたわけじゃ」

「あはは、いいよいいよ。誰だって言いにくい事はあるよね、ボクと田倉真央のこととかさ」

「それは……」

「きっとボク達もさ、昔のままじゃいられないと思うんだ」


 春希は無邪気に笑っていた。

 その顔に陰りはなく、今だって何ということのない普段の会話のようでいて――さもその延長だという風に、不意に自らの秘密を打ち明ける。




「ボクね、田倉真央の私生児なんだ」




 隼人は何も言えなかった。続けて「父親がどういう人なのかも聞いたこと無いけどね」と告げられれば、余計に何と言って良いかわからなくなる。


「今日家に帰ったらお母さんがいてさ……良い子で待ってろって言ったのにってぶたれてさ。さっきはご迷惑おかけしました」

「……そう、か」


 春希の生まれ、そしてそれが決して望まれていないということ、そしてこれはおいそれと他人に言って良いものではないということだけはわかる。


 春希の顔は無邪気だったが、その瞳は見た事が無いくらい真剣だった。

 どうして急にそんなことを言い出したのかはわからない。ただ、その顔には気負うところはなく、春希のなかで何か変化があったからこその告白だろう。

 隼人はそのことを受け止めようとしっかりと春希を見つめ返せば、どういうわけか問い詰めるような、そして見定めるかのような視線を返される。


「……隼人はさ、なんでボクを探しに来てくれたの?」

「なんでって……そりゃ探すだろう。理由なんてねぇよ」

「どうして? それって友達だから? これがボクじゃなくてひめちゃんだったなら分かるよ。でも海童だったらどう? 森くんは? 三岳さんなら行ってた?」

「それ、は……」


 言葉に詰まる。

 隼人にとってあの状態の春希のところに駆け付けるということは、考えるまでもない自然な行動だった。

 だから面と向かってわざわざ問われても、その理由なんて説明できるはずもない。


 そんな隼人の顔をまじまじと見ていた春希はどうしたわけか不意にニコリと笑みを浮かべ、「そっかぁ」と呟いて立ち上がった。


「ボクってさ、前も言ったけど結構面倒臭い奴なんだよね」


 春希は後ろで手を組んだままとつとつと歩き、自嘲気味に呟いた。そしてコツンと足元の小石を蹴り飛ばす。


「ね、隼人」

「何だよ」

「ボクさ、淋しいのは嫌いだ。もう1人はイヤなんだ」

「それならっ――」

「でもさ、ボクがこう言えば隼人は必ず寄り添ってくれるでしょ? 傍に来てくれるし甘えさせてもくれる……そんなことは最初から分かってた。でもそれじゃダメなんだ」

「――春、希……?」


 だが隼人は続く言葉を飲み込んでしまった。

 公園の外灯に照らされ星空を背景に振り向いた春希の表情は、紡ぐ弱気な言葉とは裏腹にやけに意志が強く、そして何故か隼人をいっそ慈しむかのような色をしている。それがひどく隼人を動揺させてしまう。


「だってさ、寂しいのは隼人も一緒なんだもの」

「――――っ!」

「友達だから……友達だからこそボクはこのままじゃ嫌なんだ。ボクは寄りかかるだけじゃなくて隼人の事も支えてあげたいんだ」


 隼人は予想外の言葉に固まってしまう。

 春希は見透かすかのような瞳で覗き込み、そして呆れたような困った顔で笑う。


 それは隼人の奥底にしまい込んだものを揺さぶる言葉だった。

 心臓はドクドクとけたたましく脈を打ち、背中には一筋の汗が流れる。

 おそらくひどい顔をしているだろう。


 春希はそんな隼人を知ってか知らずか、いつものイタズラっぽい笑みを浮かべたままどこまで不敵に自らの望みを高らかに謳い上げる。




「ボクはそんなね、隼人の特別で一番な友達になりたい」




 隼人の目を見据えて告げられた言葉と瞳はどこまでも真っ直ぐで、そして見たこともないほど綺麗な顔だった。

 心臓はより一層早鐘を加速させ、流れ出る汗の性質を変える。なにより春希から縫い付けられたかのように目が離せなくなる。


(俺、は……)


 そして何故か置いていかれると、どこか遠くの存在になってしまうんじゃと錯覚してしまう。

 だから目の前から消え去るなとばかりに手を伸ばし――そして春希も同時に手を伸ばしていて、期せず互いに手を取ることになる。

 春希はその偶然・・に目をぱちくりとさせて、そして頬を赤らめはにかんだ。

 隼人も驚き瞠目し、バツの悪そうな顔をして目を逸らす。


「でもさ、急には無理だからその……今はまだボクが強くなるのを手伝ってください」

「…………春希は卑怯だ」


 思わず隼人の口からそんな言葉が零れてしまう。

 てへりとばかりに舌を見せる春希がやたらとうらめしい。そして春希は言いにくそうに隼人に懇願する。


「お母さんはもういないと思うけど、家に帰るのがちょっと怖いんだ。だからそこまで一緒に来てくれると嬉しいな」

「……わかった」


 隼人はそうやって、自分の弱さを惜しげもなく告げる春希の手を握り返す。


(春希は……いや、なんだこれ……)


 心の中はぐちゃぐちゃだった。

 それは春希の弱音だった。脆い部分を曝け出したものだった。

 だというのにどうしてか春希が強いと感じてしまい、戸惑ってしまう。


 ――置いていかれるんじゃと思ってしまった。


 だから繋いだ手を確かめるかのように、ぎゅっと力を籠める。


「……えへっ」


 すると隣から返ってきたのは、はにかみながらも嬉しさが現れる声と顔で――


(…………ぁ)


 ――そして、どうしたわけかそんな春希を誰にも渡したくないだなんて思ってしまう。


 不意打ちだった。心臓が痛いくらいに暴れ出す。

 昔と変わってしまっただなんて、分かっていたつもりだった。

 かつてと同じ様に肩先を並べて歩く隣を見れば、当時とは随分低い位置に長く艶やかな髪の旋毛が見える。つながれた手はすっぽり包み込めるほど小さく、そして柔らかい。

 それでもかつてと同じ様に一緒に遊べば、怒り、驚き、拗ねて、喜んで、そして最後には気付けば今の様に笑顔になっている。


 同じだった。同じはずだった。

 だけどいつまでも同じものが続いて行かないことなんて、嫌というほど知っている。だから何かを確かめるかのように、繋いだ手に更に力を籠める。


 そして何故か、かつて涙を堪えて月野瀬で別れたときのことを思い出す。


「……隼人?」

「……ッ! 何でもねぇ」


 身体が熱を持っていくのを感じた隼人は慌てて目を逸らす。

 もはや隣を歩く少女・・はかつてのはるき少年と重ならない。


 この日、隼人は自分の中で春希の認識が変わってしまうのを、明確に自覚するのだった。

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