72.だから、よろしくお願いね
何とも言えない空気が広がっている。
さすがの春希も、借りてきた猫のように大人しくなっていた。
当たり前だ。
幼馴染の父親を前にして、花も恥じらうはずの女子高生の口から「エロ」という単語が連呼されれば、誰だってどう対処していいかわからない。
「あーその親父、夕飯はどうする? 帰ってくるって聞いてなかったけど、余分はあるから」
「それじゃあ頂こうかな」
そう言って霧島和義が席に着けば、隼人は春希にごめんとばかりに片手を上げて苦笑い。そして夕食の準備とばかりにそそくさとキッチンに逃げていった。
姫子はと言えば、すごい勢いで夕飯を掻きこみだして、さっさと食べ終わると自分の部屋へと去っていった。
「ご、ごちそうさま!」
「ふ、2人の裏切りもの~っ!」
幼馴染2人に取り残されて、春希は涙目だった。顔を赤くしたまま、もそもそとコロッケを口に運ぶ。キャベツやカボチャの甘みがぎゅっとつまったはずのそれは、どこかしょっぱい。
そんな春希の様子を見た霧島和義は、もう一度キッチンで夕食の準備をする隼人と見比べて、くつくつと喉を鳴らす。すると春希はますます顔を羞恥に赤く染めるのであった。
「うぅ……」
「くくっ、ごめんよ、はるきちゃん。いやなに、あんなに楽しそうな隼人を見たのは随分久しぶりでね」
「……………………へ?」
それは予想外の言葉だった。
釣られて春希もキッチン方へと視線を向ければ、そこには最近見慣れつつある夕食の準備をする隼人の後ろ姿があるのみ。いつも通りと言える光景である。だから思わず、コテンと首を傾げてしまう。
「はい、出来たぞ。醤油なりケチャップなりソースなり、そこはお好みで」
「ありがとう。あぁ、それと夕方も。ちゃんと病院の母さんのところに届けてくれたようだね。助かったよ」
「……病、院?」
春希の目が大きく見開かれる。
初耳だった。
幼馴染の隼人と姫子の家に訪れるようになってそれなりの日にちが経っているが、いまだ彼らの母親には出会っていない。何か事情があるのは明らかだった。
気にならないわけがない。しかし一人暮らしをしている春希自身も、親という存在には含むところがあり、突っ込んで聞けなかったのは事実だ。
だがそれでも、病院に居るというのは予想外の話である。
春希は動揺を隠せない顔で隼人の方を見てみれば、気まずそうに頭を掻きながら目を逸らされるのみ。
「……親父、家に戻ってきたのは着替えか? クリーニングに出したままだったわ、店に取りに行ってくる」
「あ、隼人っ!」
そう言って理由を付けて立ち去られれば、無理に引き留めるのは気が引ける。
春希はどうにも遣るかたない気持ちと共に、残りのコロッケを大きな口を開いて頬張った。
霧島和義はそんな春希を見て、すまないとばかりに苦笑いをして肩をすくめる。しかしその瞳は細められ、やけに優し気だった。
「隼人にとって、はるきちゃんは特別なんだね」
「んぐっ?! んんーっ、んっ、んーっ、けほ、けほっ」
「おっと、大丈夫かい?」
そして発せられた言葉に、春希は思わず食べかけのコロッケを飲み込み損ねてむせてしまい、慌てて麦茶を呷る。
どういう意味なのかはわからない。
ただ、やたらと心臓がせわしなく脈を打ち始めてしまう。
そんな春希の顔を見とめた霧島和義は、不意に真剣な眼差しを作り見据える。
「隼人のやつ、妙に世話焼きなところがあると思わないかい?」
「それは……確かに面倒見がいいとは思いますけど……ひめちゃん相手とか見ていると、特に……」
「あんな性格になってしまったのはね、5年前に母さんが倒れてしまってからなんだ」
「……………………え?」
再び春希は息を呑む。今度は違う理由から胸がざわめいていく。
「何かしていないと不安になってしまったんだろうな。私もね、母さんに掛かりっきりだったし、気が付けば隼人はどこか思いつめた顔で家事や姫子の世話を積極的にするようになって、家の外でも近所の手伝いを買って出てたっけ……」
「そう、なんだ……」
言われると思い当たる節はあった。
ただ春希としては、あぁそういう風に成長したんだなと、特に気に掛けるものでもなかったのも事実だ。
しかし隼人の父である霧島和義からそんな風に言われると、どう受け止めていいかわからなくなる。
そんな春希の心境をよそに、霧島和義は真剣な顔つきで頭を下げた。
「きっとさっきみたいな顔を見せるのは、はるきちゃんのお陰なんだと思う。だからね、これからも隼人をよろしくお願いします」
「ちょっ、ボクはっ、その、やめてください……っ!」
思わずガタリと立ち上がり、あわあわと手を振って狼狽えてしまう。
春希は隼人に世話になりっぱなしという自覚があった。特にここ最近は世話になっているだけでなく、甘えっぱなしではと思うこともあり悔しくさえ感じていた。それゆえここのところの行動にも表れてしまっている。
だからよろしくお願いしますと頭を下げられても、むしろこちらが下げるべきと思ってしまい、どうしていいかと困惑してしまう。
「ただいまー……って何やってんだ?」
「隼人っ!」
「あぁ、今はるきちゃんに隼人のことをよろしくってお願いしてたんだよ」
「……なんだそれ?」
丁度その時、隼人が帰ってきた。
彼の目には慌てた様子の幼馴染と彼女に頭を下げる父親の姿。まったくもってわけがわからず随分と奇異な光景に映るだろう。
隼人は一体どういうことだと眉をひそめながら、紙袋に着替えの衣類を詰め込んでいく。
「ご、ごちそうさま! 今日もありがと!」
いたたまれなくなった春希は誤魔化すように残りの夕飯を掻き込んだ。
そして席を立てば、隼人は当たり前のことだと言わんばかりに紙袋を霧島和義の足元に置いて春希のそばにやってくる。
「隼人、はるきちゃんを送ってあげなさい」
「分かってる。春希、送るぞ」
それはいつものことだった。
「え、あ、うん。別に忙しいとかなら送ってもらわなくてもいいけど……」
だけど遠慮を滲ませた言葉を口にすると、少しだけ隼人の眉が寄った。そんな気がした。
先ほどの霧島和義の言葉が脳裏に過る。
「……でも、やっぱり送って欲しいかな」
「そうか、準備出来たら言ってくれ」
そう言って隼人は少しうれしそうな顔をして、姫子にするように春希の頭をくしゃりと撫でた。
されるがままの春希は、複雑な表情で曖昧に笑った。
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