70.デジャブ


 エレベーターに乗った隼人は、1階のボタンを押そうとして初めて、三岳みなもの手を引いている事に気付き慌てて手を離す。


「と、悪ぃ」

「いえ……」


 2人きりのエレベーターの中、何とも言えない空気が流れる。

 隼人の母の入院、手の痺れ、リハビリ。

 玩具にされていた三岳みなもとしても、気になるところだろう。


 リハビリの為にまた髪を弄らせてくれと言っただけでなく、彼女の祖父とも随分と仲良さそうにしていた。同じ入院している者同士、親密になったのかもしれない。必然的に三岳みなもとも仲が良くなっているのかもしれない。


(どうしたもんかなぁ)


 隼人は肩を落としながらため息を吐き、チラリと三岳みなもの姿を視界にとらえ、そして息を呑んだ。


「っ!」


 先ほどまでは母や周囲に振り回されるところばかりに意識が行っていたのだが、こうして改めてじっくり彼女を見てみれば、随分といつもと感じが違うと認識してしまう。

 普段から背丈が小さく一生懸命野菜を世話する様子は、小動物じみた微笑ましい雰囲気だ。しかし、こうして髪を丁寧にセットされた姿を見てみれば、少し幼いながらもウェーブのかかった癖っ毛が大人を感じさせる色気とも言える蠱惑的な空気を醸し出している。

 そんな彼女が胸元に握った手を当て、何かを気にする素振りで隼人の方に視線を送ってこられれば、健全な思春期男子としてドキリとするなと言う方が難しい。


(女子って、髪型1つでここまで印象変わるのかよ……)


 隼人は三岳みなもから視線を逸らしつつ、その胸の内を誤魔化すように話しかけた。


「その、母さんが強引ですまん」

「私は別に、その……霧島さんのお母さんって入院してたんですね」

「転校したのもそれが理由でさ」

「霧島さん……それで、料理とかも……」

「あーその、母さんはああ言ってたけど、髪とか弄られるのが嫌なら俺の方から……三岳さん?」

「…………」


 しかし三岳みなもは、神妙な顔のまま俯いて唸る。エレベーターの中の空気はますます重くなる。

 わけがわからなかった。

 元より同世代の女子との対人スキルが乏しい隼人にとって、彼女の心境を推し測れと言う方が無茶である。

 隼人は顔を気まずそうにしかめて、頭を掻こう――とした時のことだった。


「あ、あのっ!」

「っ!?」


 不意に三岳みなもは顔を寄せてきて、隼人は急に目前に迫ったその可愛らしい相貌に思わず後ずさってしまう。


「な、なにか私に手伝えることがあったら言ってくださいねっ!」

「お、おぅ」


 一瞬、隼人は彼女の言葉の意味がわからなかった。

 しかし言葉足らずであるものの、その妙に真剣な眼差しと、胸の前で握りしめられた両手を見れば、いかに隼人のことを案じているというのが伝わってくる。


(……あ)


 少し考えを巡らせばわかることでもあった。先程の状況から隼人の母は入院しており、日常生活を送るにはリハビリが必要な状況だ。三岳みなもはそのことに気付いたのだろう。

 彼女の真摯な想いを真正面からぶつけられると、隼人は胸の内に生まれたむず痒い想いを、どうして良いか分からず狼狽えてしまう。


「っと、着いたな」

「ですね」


 丁度その時、エレベーターが1階を告げた。

 隼人はこれ幸いと逃げるように外へと身体を滑らすが、三岳みなもはまるで先導者に着いていく羊さながらに隼人の後ろをちょこちょこと追いかけてくる。

 病院のロビーということもあり、歩きを緩み立ち止まる。振り返ればやる気満々といった面持ちで、隼人の頼みを今か今かと待ち受ける彼女の顔があった。


(……困ったな)


 正直なところ彼女の好意は嬉しいのだが、どうして良いか分からないと言うのが本音だった。

 だから隼人は曖昧にこの場を誤魔化すように言葉を紡ぐ。


「今すぐには思いつかないけど、何かあったら頼らせてもらうよ」

「私その、家のこととか書類関係にも詳しいので! 今度は私が力になりますので!」

「今度は……?」

「野菜作りのこと、色々お世話になってますから!」

「あぁ、なるほど。じゃあその時は遠慮なく頼む」

「はいっ!」


 どうやら三岳みなもは、園芸部での野菜作りに手を貸したことに随分と恩義を感じているようだった。

 だから隼人もあぁなるほどなと納得するがしかし、どうしたわけか奇妙な既視感にも似た違和感を覚えた。


(あ、れ……?)


 そして脳裏に浮かんだのは幼いあの時・・・姫子の姿。

 目の焦点は合っておらず、目元は赤く腫れあがり頬には乾いた涙の跡。倒れた母の傍で何も出来ず、ただ茫然と立ち尽くしていた妹の姿。

 かつての記憶。今の隼人を形作ることになった出来事。1回目に、母が倒れたのを発見した時のこと。


(なん、で……)


 忘れたことは無かった。忘れられるハズも無かった。

 しかし普段は心の奥底に眠らせ蓋をしているものであり、どうしてそのことを思い出してしまったのか見当もつかない。

 だけどその呼び起こされた記憶は、当時の無力感と焦燥感を嫌でもフラッシュバックさせられてしまい、隼人はふらりと身体を傾がせて額に手を付いた。


「き、霧島さんっ?!」

「っと、何でもない。大丈夫だ、三岳さん」

「でも顔色が……」

「はは、病院の陰鬱な気に当てられたのかもな」

「……」


 隼人は眉をひそめたまま、三岳みなもに何でもないとばかりに笑いかけるが、彼女は浮かない表情で瞳を揺らす。

 何かが引っかかった。

 しかしそれが何かはわからない。

 何だか余計に彼女を心配させてしまい、世話を焼きたくなる要因を作ってしまっているようだった。


「大丈夫、何かあればお願いするから」

「無理はダメですよ?」


 そう言って出口に向かって歩き出す。

 依然として2人の間の空気は微妙なまま。


「……参ったな」


 そんな言葉が飛び出してしまったのは、そんな心境が思わず転び出てしまったというだけでなく、外も本格的に雨が降り出してしまっていたからだった。

 雨足はあまり強くないものの、傘が無いと確実に困りそうな程だ。

 しかし三岳みなもは早速とばかりに張り切った声を出す。


「私、傘持ってます!」


 正に早くも頼ることが出来ましたねと言わんばかりの笑顔だった。




◇◇◇




 シトシトと雨の降る夕暮れの道を、隼人と三岳みなもは互いの片方の肩を濡らしながら歩く。

 学校帰りだった彼女の鞄に常備されていた折り畳みの傘は、2人で入ってもその程度で済むくらい大きく、そしてパステルカラーの生地に羊と雲が描かれた可愛らしいデザインのものだった。

 そんな傘で相合傘をしているという状況もあり、隼人の顔は気恥ずかしさから歪んでしまう。

 しかし雨に濡れないのは有難く、どうにか折り合いを付けながら駅を目指す。


「……当たり前のように一緒に居た家族が、ある日突然家から居なくなるのって、キツイですよね」

「三岳さん……?」


 突如三岳みなも前を向いて顔を見せないまま、なんてことない風に呟いた。

 それは真実、彼女の独り言だったのかもしれない。

 肉親が入院している者同士、ふと零れてしまった弱音とも言えた。


「……」

「……」


 その後なにも話すことなく、ポツポツと傘を叩く雨音を聞きながら駅へと歩く。

 三岳みなものどこか寂し気な呟きを聞いて、隼人の中の気恥ずかしさはとっくに霧散してしまっていた。

 むしろ必死に世話を焼こうとしているところが、強がっているからこそじゃと感じ、何か言わなければとさえ思ってしまう。

 隼人は頭を掻きながらチラリと彼女の姿を見やる。そして隼人は一瞬怒ったような呆れたような姫子の顔がチラつき――まだ言ってないことを気付いた。


「あーその、三岳さん」

「はい、何でしょう」

「その髪、似合ってる。いつものよりも今のが可愛い、と思う、」

「ぴゃっ?!」


 同世代が極端に少ない月野瀬に居た隼人は、しばしば姫子から服なり髪型なり新調した時に意見を求められて来た。

 そして経験上、しっかりと具体的にどこが良いとか述べると機嫌がよくなることを知っている。


「髪を纏めてるから顔の輪郭のラインがすっきりして綺麗だし、そこから覗く癖っ毛がふわりとして可愛いけど大人びているというか」

「あぅ、その……はぅぅ……」

「だからその、これからもそういう髪型にしたほうが良いと思う――て三岳さん?」

「……ぴ」

「ぴ?」


 隼人としては姫子のご機嫌を取る時のように、励ますつもりで言ったことだった。

 しかしどんどん顔や耳まで真っ赤に染め上がっていく彼女を見てようやく、自分の発言が適切でないと気付いた時には、もう遅かった。


「ぴゃああぁああぁぁあぁっ!!」

「あっ!」


 三岳みなもは小雨の降る中、もう耐えられないとばかりに駆け出す。

 後に残るのは、彼女のファンシーな傘を持った隼人のみ。

 駅までさほど距離が無いのが幸いか。


「参ったな……」


 そんな隼人の呟きは、雨音の中へと吸い込まれていった。

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